017 【文芸院 和歌:六歌仙・三十六歌仙:平安時代〜現代歌人
 日本が誇る短文文学の世界。感性と情緒の世界をご一緒に楽しみませんか。ここには、あまりにも有名な万葉集はじめ、古今和歌集から始まる二十一代集、著名な歌人の足跡なども余すことなく掲載されています。また、皆さまに親しまれている、NHK短歌・俳句・川柳など、句会、投句のホームページもあります。 五行で綴る自由で幅広い表現ができる五行歌の世界、大変楽しく素晴らしいものです。どうぞ、ごゆっくりご覧ください。

和歌 六歌仙・三十六歌仙. 万葉集 平安〜江戸時代歌人 額田王 柿本人麻呂.660
山上憶良.660 大伴旅人.665 山部赤人 但馬皇女.678? 大伴家持.718 喜撰法師.743?
僧正遍照.816 在原業平.825 小野小町.825? 紀友則.845 大伴黒主 紀貫之.866
文屋康秀.885? 紫式部 中務 伊勢.989? 西行法師.1118 寂連法師.1139
式子内親王.1149 藤原定家.1162 九条良経.1169 藤原俊成女.1171? 後鳥羽上皇.1180 宮内卿.
源実朝.1192 (拾遺愚草.1216) 山口素堂.1642 田山敬儀.1776 大橋淡雅.1788/ 大橋淡雅.1795/
橘曙覧.1812 中島歌子.1845 伊藤左千夫.1864 明治〜平成時代歌人 明治天皇/ 昭和天皇/
秦 澄美枝/ 佐佐木信綱.1872 与謝野鉄幹.1873 島木赤彦.1876 窪田空穂.1877 与謝野晶子.1878
山川登美子.1879 会津八一.1881 斎藤茂吉.1882 前田夕暮.1883 四賀光子.1885 若山牧水.1885
柳原白蓮.1885 木下利玄.1886 植田多喜子.1896/ 佐藤佐太郎.1909/ 岡野裕彦/1924 馬場あき子.1928
永田和宏.1947 佐伯裕子.1947/ 小池光.1947 花山多佳子.1948 今野寿美.1952 栗木京子.1954
小島ゆかり.1956 北久保まりこ.1959/ 岩田亨.1960/ 俵万智.1962  東直子.1963/ 小島なお.1986
斉藤斎藤.1972/ 土岐善麿.1885.6/ 石川啄木.1886.2/ 土屋文明.1890/ 前川佐美雄.1903/ 坪野哲久.1906/
斎藤史.1909.2/ 宮柊二.1912/ 近藤芳美.1913/ 塚本邦雄.1920/ 中城ふみ子.1922/ 岡井隆.1928.1/
篠弘.1933/ 寺山修司.1935/ 奥村晃作.1936/ 小野茂樹.1936.12/ 佐佐木幸綱.1938/ 春日井建.1938.12/
高野公彦.1941/ 福島泰樹.1943/ 佐藤通雅.1943/ 三枝昂之.1944/ 大島史洋.1944/7 小高賢.1944/※
河野裕子.1946/ 小池光.1947/ 仙波龍英.1952/ 穂村弘.1962/△ 林あまり.1963/ 佐藤真由美.1973/
加藤千恵.1983/ 近藤芳美賞/ 現代歌人 NHK 介護百人一首/ 安森敏隆.1942/  
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和歌
この区分の下段に「短歌のブログ集」があります。 市女笠を脱いだ姿はないのか?・・というご要望にお応えして、七小町和歌朗詠奉納の時の様子です。 【あら可愛い】何となく癒される、日本の珍しい苗字  和歌(わか)さん
  和歌とは - コトバンク   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本で最も古くから行われている詩歌形態。「倭歌」とも書く。「やまとうた」と訓読することもあり,「大和歌」と書くこともある。『万葉集』の題詞で「和歌」と表記した場合の「和」は「唱和」の意に用いられているが,のちには「倭歌」「和歌」のいずれを書いても,漢詩に対する日本の歌を意味するようになった。
 
 
  和歌 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  和歌(わか)は、上代から日本で行われた定型の歌。 和歌とは漢詩に対する呼称で、やまとうた(大和歌・倭歌)、やまとことば(大和言葉)、あるいは単にうたなどともいう。長歌・短歌・旋頭歌、片歌の総称だが、狭義には31音を定型とする短歌のことを指すため、三十一文字(みそひともじ)とも言う。奈良時代には倭歌(わか)・倭詩(わし)と言った。  1 概要 / 2 歴史 / 3 修辞技法 / 4 脚注 / 5 関連書籍 / 6 関連項目 / 7 外部リンク
 
 
  短歌人   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  短歌人会は長い歴史を持ちますが、結社としてはいち早く主宰制度を廃止し複数選者による編集委員制を取り入れており、自由な空気を何より大切にしています。その空気の中で今までに現代短歌を代表し得る数多くの歌人を輩出してきましたし、現在でも先鋭的かつ文学作品として充実した作品を送り出そうと積極的に活動しています。
 
 
  和歌祭   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  和歌祭は毎年、5月第2週日曜日に行われる紀州東照宮の大祭の渡御の呼称です。別名、紀州の国祭、天下祭、権現祭とも呼ばれ、親しまれてきたお祭りの行列です。
 
 
  塔短歌会   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  塔短歌会は、故高安国世(京都大学教授、ドイツ文学)によって、昭和二九年に創設され、月刊誌「塔」を発行しております。現在は、永田和宏(京都大学教授)を主宰とし、この数年続けて新人賞作家を輩出するなど、活発な活動を展開しております。会員数は750名余、高校生から九十歳近い方まで、また、沖縄から北海道さらに海外まで、年齢的にも地域的にも幅広い会員を擁しております。
 
 
  短歌案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  古事記 風土記 日本書紀 懐風藻 万葉集.土佐日記 伊勢物語 枕草子 源氏物語 源氏物語の中の短歌 紫式部日記 大鏡 方丈記 徒然草.おくのほそ道 野ざらし紀行 鹿島詣
 
 
  やまとうた   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  WEBサイト「やまとうた」「波流能由伎(はるのゆき)」へようこそおいで下さいました。 これらのサイトは、主に古典和歌に関するデータを提供することを目的として始めたものです。「みそひと文字」からなる、このように簡素で古朴な、同時に極めて洗練された詩形式が、かくも永い歳月を生きてきたこと。そして今なお(呼び名は変わりこそすれ)生命力を保っているとは、なんという驚異、なんという喜びでしょうか。
 
 
  和歌 わか   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「和食」という言い方がいつから始まったのか知らないが、「洋食」という言葉が使われるようになったあと、それに伴って「和食」もできた、ということははっきりしている。それ以前は、日本人がふだん食べてきた「くいもの」「めし」を、事改めて「和食」などと名づける必要はなかったのだ。…  和歌の語源/倭歌の倭を和に取り替えたのが「和歌」である。/和歌の定義
 
 
  歌集 有情   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  京に生まれ京に居座る 片雲の風も誘はぬ一世なりけり  個人のホームページ(HP)を拝見しますと作者自身の個性そのものだと感じます。虚飾のない、だれにも犯されない作者の主張が守られていること、そしてそのことこそHPの命なんだと思います。近代的なメデイアを利用させてもらいながら一切の干渉をうけることなく自己主張ができる、そしてそれを人様に見聞して頂けるのなら、とても有難いことです。
 
 
  和歌文学会   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「古今集・新古今集の年」とは? 古今和歌集が作られた905年(延喜5年)から1110年め、新古今和歌集が作られた800年(元久2年)から1215年目に当たります。万葉集と並んで古典和歌を代表するこの二つの歌集の記念の年を祝い、古典和歌に関わる諸企画を集中的に催そうとするプロジェクトです。
 
 
  うたの歳時記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ☆秋あかね群れ飛ぶ里に 「もういいよ」忘れし言葉 つぶやきてみる ☆淡々と夢のきれぎれ 顕ちくるや もみじに 染まるふるさとの道
 
 
  古歌あれこれ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集 伊勢物語 百人一首 古典入門 恋の歌 ユーモア歌 京あれこれ 他
 
 
  和歌の玉手箱   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  一日一首を目標に、素人なりの和歌日記を綴っていきます。少しずつでも雅な雰囲気を出していければと思っています。好きな歌人は、和泉式部、伊勢、建礼門院右京大夫、後深草院二条などです。
 
 
  ★人徳の部屋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「二つの美しき名(J)あり、その一つはイエスキリストにして、その二は日本なり」…内村鑑三   一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。
 
 
  日本歌人クラブ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本歌人クラブは現在、約五千名近い会員を擁し、歌人相互の親睦を計り、歌壇の発展に寄与することを目的とした、日本で最も大きな歌人の団体です。
 
 
  倚子(いし)の会   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  5・7・5・7・7、じゃあない短歌......「新短歌」「自由律短歌」「口語短歌」などとも言われることもある。しかし、最近NHKラジオなどで流行し始めた「ケータイ短歌」とは似て非ざるものです。やはり、形は非定型・自由律なのです。
 
 
  短歌人  Tankajin   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「短歌人」は短歌を愛好する個人の集合体です。 それ以上でも以下でもありません。 特定の作歌理念のようなものはどこにも掲げません。 そういうことは各自が各自なりに考えること、と考える。 「短歌人」は「指導」も「干渉」もしません。 実作するものは実作するもの自身の考えと、工夫と、意欲がすべてです。
 
 
  HANI (埴短歌会)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  埴は新鮮な現代の詩情をめざし、短歌雑誌「HANI」(隔月刊)を発行している短歌集団で、広く参加者を歓迎する
 
 
  歌人 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌人(かじん)とは、和歌や短歌を作る人のことをいう。ただし、その中でも日常的に和歌・短歌を作り、何らかの手段でそれを発表している人を指す場合が普通である。なお、歌人たちにおける社会を歌壇(かだん)ということがある。
 
 
  歌人一覧 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌人一覧(かじんいちらん)は、著名な歌人の一覧。
 
 
  Category:歌人 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  カテゴリ「歌人」にあるページ: このカテゴリには 583 ページが含まれており、そのうち以下の 200 ページを表示しています。
 
 
  短歌人 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  短歌人(たんかじん)は、日本の短歌結社誌。 1939年(昭和14)4月に二・二六事件で禁錮5年の刑を受け仮出所したばかりの斎藤瀏が、当時所属していた「心の花」から独立する形で創刊した。初代発行人は木下立安。ちなみにこの頃は佐佐木治綱も顧問という形で参加していた。 1945年(昭和20)4月、印刷所の罹災により一旦休刊。翌1946年(昭和21)4月復刊。 1947年(昭和22)5月、小宮良太郎が編集・発行人に就任。 現在/外部リンク
 
 
  西王燦 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西王燦(にしおうさん、1950年12月29日 - )は、歌人。短歌結社誌『短歌人』の編集委員。 妻の武下奈々子も歌人で、1983年に短歌研究新人賞を受賞している。また、実娘は枡野浩一「かんたん短歌の作り方」の常連投稿者であった。  1 経歴 / 2 作品 / 3 関連項目 / 4 外部リンク
 
 
  竹下洋一・短歌通信   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  遠野津留太選評の作品を年別に掲載。君が代や愛国百人一首など含む短歌研究室も設置。
 
 
  短歌同人誌 『遊子』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声きけば わが身さへこそゆるがるれ (梁塵秘抄) 
 
 
  「しがらみ短歌クラブ」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「しがらみ短歌クラブ」はインターネットを通した「同人」です。みな、「素人」ですが、その心意気は、柿本人麻呂や与謝野晶子、石川啄木にも勝るとも劣らないものがあります。(言い過ぎ?)  さて、あなたも、一緒に「心の叫び」を31文字に託して詠ってみませんか。
 
 
  和歌歌集のデータベース   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  勅撰集21種すべて、万葉集をはじめ夫木和歌集などの私撰集及び主要な私家集の和歌についてデータベース化したものである。  作品集成立年順/作者名順/作品名順/語句検索
 
 
  土曜の夜はケータイ短歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  映像で知るケータイ短歌の最新情報!ケータイ短歌通信です。
 
 
  小林信也の短歌のページ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  短歌の基本は写実、と思うサラリーマン歌人のページ。 スポーツライター&カツラーとしてご活躍の小林信也(のぶや)さんとは別人です。私は(しんや)です。ヨロシク。   台風の過ぎ去りし朝真白なる雲が東へ動きゆくかな <第47回関西短歌文学賞>
 
 
  吟じ出し別索引 和歌 あ〜こ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  按針亭トップ / ご利用の前に / 吟題別索引 / 吟じ出し別索引 / 作者別索引 / 作品番号別索引
 
 
  和歌・短歌 日本文化いろは事典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  和歌とは、日本に古くから伝わる詩の形式です。 古くは短歌、長歌〔ちょうか〕、旋頭歌〔せどうか〕など数種類ありましたが、平安時代以降、事実上短歌のみとなりました。  日本人に愛されつづけている詩/万葉集の時代から現代まで/趣を表現する為に
 
 
  京都 冷泉家の800年 和歌の心   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  1000年の都京都、794年この地に都が築かれると、平安貴族達は天皇の住まう御所を中心に、雅な王朝文化を花開かせた。 そのきらびやかな宮廷生活になくてはならないもの、それがやまとうた(和歌)だった。
 
 
  掬粋蘭花 Vol−3 掲載歌 歌人 歌集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  春の苑紅にほふ桃の花した照る道に出で立つをとめ 大伴家持 万葉集  /  青丹よし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり 小野老 万葉集  /  あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかやの月 明恵 明恵上人歌集  /  古も今もかはらぬ世の中に心のたねをのこすことのは 細川幽斎 衆妙集  /  待つ人のいまもきたらばいかにせむ踏ままく惜しき庭の雪かな 和泉式部 和泉式部集
 
 
  「友情」や「友人」を詠んだ和歌や詩。 - 教えてgoo!   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上代、中古の文学作品で、「友情」や「友人」を詠んだ和歌や詩があれば教えてください。 日本人は、いつ頃「友情」という感情を持ち始めたのか、興味があって質問しています。 よろしくお願いします。
 
 
  皇居で新春恒例の「歌会始」 (2015/1/14)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  新春恒例の「歌会始」が、14日、皇居で行われました。 ことしの「歌会始」のお題は「本」で、全国と海外から合わせて2万1000首近くの短歌が寄せられました。 皇居・宮殿の「松の間」では、初めに入選した10人の歌が天皇皇后両陛下や皇族方の前で古式にのっとって披露されました。…
 
 
  短歌募集中! - 情報まるごと - NHK   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  毎週金曜日にお伝えする短歌のコーナー「やす短歌なお短歌」では、みなさんからの作品の投稿を受け付けています。 現在募集中の「お題」は、番組ホームページのトップページに掲載されています。 選者は歌人の小島なおさんです。優秀作品は番組で紹介します。
 
 
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  短歌のブログ集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  短歌人気ランキング
 
 
  短歌 - 角川文化振興財団   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  何年経っても忘れることができない8月15日。敗戦を身をもって経験した大正13年から昭和9年生まれのうたびと55人が「平和」な国・日本へ贈る心からのメッセージ。これだけはいま伝えたい――。
 
 
六歌仙・三十六歌仙.
三十六歌仙図屏風 光琳若冲まで  神坂雪佳木版画 六歌仙 6 poems 三十六歌仙絵屏風 詞 伝 近衛信尹筆・絵 伝 狩野
  六歌仙 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』の序文に記された六人の歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人を指す。ただし「六歌仙」という名称そのものは後代になって付けられたものである。  1 解説 / 2 後世への影響 / 3 脚注 / 4 参考文献 / 5 関連項目
 
 
  六歌仙   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「六歌仙」は、古今集仮名序において「近き世にその名聞えたる」として紀貫之が挙げた六人の歌人。ただし「歌仙」は、正しくは真名序で柿本人麻呂・山部赤人の二人に限って奉られた称号であって(「柿本大夫トイフ者有リ。…山辺赤人トイフ者有リ。並ビニ和歌ノ仙ナリ」)、貫之がこの六人を「歌仙」と呼んだわけではない。「六歌仙」は後世の呼びならわしである。
 
 
  六歌仙容彩   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸時代、歌舞伎の舞台から数多くの舞踊作品が生まれました。歌舞伎の場合、舞踊といっても踊りだけが単独で作られた純粋な舞踊は少なく、むしろ長い芝居の中に組み込まれた劇中舞踊や、芝居と踊りが一体化したものが多いのが特徴です。
 
 
  三十六歌仙額とは?   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  三十六歌仙?と思われる方は、多いのではないでしょうか? まず「三十六歌仙」と聞くと、有名な佐竹本三十六歌仙絵巻を思い出されるでしょう。この「佐竹本」というのは、江戸時代の佐竹藩(秋田)の持っていた三十六歌仙絵巻のことです。描かれた時代は、平安時代末から鎌倉時代初めと考えられています。絵師は、よく判らないとされていますが、似せ絵(肖像画)の名手といわれた、藤原隆信の子・信実が有力視されてきました。
 
 
  三十六歌仙 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)とは、藤原公任の『三十六人撰』に載っている和歌の名人36人の総称である。 三十六人の家集を集大成した現存する最古の写本は、西本願寺本三十六人家集である。 これに影響されて、中古三十六歌仙や女房三十六歌仙などが後世にできた。 なお連歌の形式で三十六句のものを「歌仙」と呼ぶのは、これにちなんだものである。  三十六歌仙一覧/関連書籍
 
 
  中古三十六歌仙 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)とは、藤原範兼の『後六々撰』に載っている和歌の名人36人の総称。三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属されなかったが秀でた歌人とそれ以後の時代の歌人が選ばれている。 一覧/関連事項
 
 
  女房三十六歌仙 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)は、鎌倉中期に成立した「女房三十六人歌合」に歌を採られた女性歌人三十六人を指す。当該歌合は、藤原公任の「三十六人撰」に模倣して作られ、左方に小野小町から相模までの中古歌人を、右方に式子内親王から藻壁門院少将までの中世初頭の歌人を配し、一人三首ずつ対戦させる形式。出詠歌人すべてが勅撰歌人である。  1 概要 / 2 女房三十六人歌合 / 3 脚注 / 4 参考文献 / 5 関連項目 / 6 外部リンク
 
 
  三十六歌仙画 鹿島神社   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  和歌と、それを詠んだ人物画で成っている  和歌の解釈ページへ
 
 
  三十六歌仙 「三十六人撰」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『三十六人撰』は、柿本人麿から中務まで、三十六人の歌仙の歌百五十首を撰出して結番した、歌合形式の秀歌撰である。藤原公任(966-1041)撰。『三十六人歌合』とも。人麿・貫之・躬恒・伊勢の巻頭四人、および平兼盛・中務の巻末二人は各十首、その他三十人は各三首を選抜している。
 
 
  中古三十六歌仙 『後六々撰』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  後六々撰』は、藤原範兼(1107-1165)による、歌仙歌合形式の秀歌撰である。いわゆる「中古三十六歌仙」は本書に拠る。
 
 
  三十六歌仙・天井画 (久城寺)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  三十六歌仙とは、その昔、藤原公任(きんとう)が古今の優れた歌人三十六人を選んだことに始まる。 この三十六人の歌詠みたちの絵姿が、その後著名な絵師たちによって、次々と描かれ、そうした歌仙図の中でも最高傑作とされるのが、佐竹本三十六歌仙絵巻である。
 
 
  三十六歌仙図屏風 光琳若冲まで    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ややくだけた歌人たち。なんだか男の肩にしなだれているような女性も見受けられる。この池田孤邨「三十六歌仙図屏風」は、酒井抱一の三十六歌仙図屏風(所蔵:ワシントン/フリーア美術館 Freer Gallery of Art)を模写したといわれるが、オマージュとしておこう。この酒井抱一を模写したのが、尾形光琳の「三十六歌仙図」といわれる。三十六歌仙とは、平安時代中期の歌人藤原公任によって選ばれた三十六人の歌道の名人たちだ。
 
 
  日枝(ひえた)神社三十六歌仙絵馬     TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  室町時代に、三十六歌仙の肖像に歌仙それぞれの詠じた和歌を書いて奉納することが流行した。日枝神社の三十六歌仙は、幕末期二本松藩士で絵師として名の知られた大原文林の歌仙像に、二本松藩士で国学者、歌人として知られた阿部井磐根が書を揮(ふる)った三十六歌仙の絵馬が社殿内に掲げられている。村指定文化財。
 
 
  板絵三十六歌仙図額 36面 - 松江   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  この図額は、殿町の城山公園内二之丸にある松江神社に所蔵されています。 元々江戸時代、今の西尾町にあった松江東照宮に松平直政が寄進したものと伝えられています。
 
 
  佐竹本「三十六歌仙」絵巻」切断事件!   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  現在も「佐竹本・三十六歌仙絵巻切断事件」が、なぜ話題になるのでしょう・・・? 有名な「佐竹本三十六歌仙絵巻」の切断・切り売りを報じた大正8年(1919)12月21日の『東京朝日新聞』の記事です。現在では、絵師は「信實が有力」と言われていますが、この当時は断定して書かれています。
 
 
  三十六歌仙絵札  絵札32面 奉納札1枚   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  絵札には、表面の上部に墨書による歌仙名と和歌一首が記され、下部に彩色が施された歌仙絵が描かれている。裏面には墨書による歌仙名、画家名の他、一部には、かつて拝殿に架けられていた際の配置を示す文字や表面の和歌が墨書で記されているものがある。三十六歌仙のうち小野小町、藤原敦忠、遍昭、素性の4枚を欠いている。奉納札から、江戸麹町の池田屋吉兵衛により奉納されたものであることがわかる。  小牧市指定有形民俗文化財/三十六歌仙絵札
 
 
  「六歌仙姿彩」ろっかせんすがたのいろどり   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌舞伎の諸作品の解説です。これ読んで見に行けば、どなたでも混乱なく見られる、はず、です。 平安時代の六歌仙、ひとりひとりをイメージした五つの踊りですが、なんで六歌仙なのに五つかというと、小野小町+男性歌人の踊りなので、小町単体の踊りがないからです。
 
 
  三十六歌仙切(朝忠)佐竹家伝来 - 石川県 文化財   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安時代中期に、藤原公任(966〜1041)が『万葉集』・『古今集』・『後撰和歌集』のなかから36人の歌人を選んだのが、三十六歌仙の始まりとされ、鎌倉時代に、歌仙尊重と似せ絵の流行によって、「三十六歌仙絵」が生まれたとみられる。
 
 
  三十六歌仙 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  三十六歌仙 の画像 - Google
 
 
  六歌仙 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  六歌仙 の画像 - Google
 
 
万葉集
万葉集 作品はおもに斉明・天智朝の公的な場面におけるもので、天皇の代理として、あるいは群臣の代弁者として歌を詠む専門的な宮廷歌人の最初といえます。 たのしい万葉集
  万葉集 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集(まんようしゅう)とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である。『萬葉集』が本来の表記であり、日本の文部省・国語審議会の漢字制限(当用漢字、常用漢字)後は「万葉集」と書く。  1 万葉集の成立 / 2 諸本と刊本 / 3 万葉集の構成と内容 / 4 万葉集の影響 / 5 万葉集の諸点 / 6 研究史 / 7 万葉集に由来する名前 / 8 脚注 / 9 関連項目 / 10 文献情報 / 11 外部リンク
 
 
  日本の神話   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の神話を物語として、著者 田中繁男が書き下ろす!日本の神話や万葉集を参考にメルマガも発行します! 古代日本を舞台に、万葉集、日本書紀、古事記を参考に、日本の神話、古代天皇物語を多彩な世界を表現します!
 
 
  万葉集入門   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ようこそ、万葉集の世界へ。今から、つかの間、古代への旅をお楽しみください  天皇から一般農民にいたるまで幅広い階層の人々の歌を集める。<万葉仮名>で書かれる。期間も古墳時代の歌から奈良時代まで四百年間と長期にわたっている。
 
 
  万葉集の貝   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集との出会いはいつだろう。小学校での山上憶良の歌でしょうか。出会いは定かではないのですが、万葉集などの古典との深い付き合いは高校時代でしょうか。今にして想うと恩師は、受験対策だけでく古典のすばらしさを講義していました。
 
 
  たのしい万葉集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集の入門サイトです:【成立】天平宝字3年(759)1月1日の歌が最新のもの。成立は8世紀末か。 【内容】全二十巻、約4500首。短歌・長歌・旋頭歌・仏足石歌など、形式も多様である。 【撰者】大伴家持(右図・因幡万葉歴史舘)が最終的な撰者と考えられる。後半はほとんど彼の歌日記的な内容といえる。 万葉集の成り立ち/歌の読み仮名などの研究/万葉集のテキストデータについて/参考資料・データ/ご連絡方法
 
 
  万葉集を携えて   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集には百数十種の花が詠われているといいます。 現在の花名と違うものも多く、はっきりこの花といえないものもたくさんありそうです。 でも、そんな難しいことは学者の方におまかせして、野原や山道でそっと咲いている花に出会ったときのあの喜びを伝えたくて編集してみました。 ですから、できるだけ「植物園」・「万葉公園」などではなく、野山に自生する花を求めたいと思っています。  万葉集に詠われた花々を紹介します  <花の紹介 113種>
 
 
  たのしい万葉集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  いらっしゃいませ、「たけち(男の子)」と「さらら(女の子)」です。「たのしい万葉集」は、とかく堅苦しく思われがちな「万葉集」を気軽にたのしみましょう、という目的で作っているページです。何も考えずにあちこちのページを眺めていただくだけでもとってもうれしいです。
 
 
  万葉集の成り立ち   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ねぇねぇ、万葉集には私たち(たけちとさらら)の歌も載っているんだけど・・・万葉集っていつできたのかしら。奈良時代の終わり頃ってきいたような気もするけど。
 
 
  『万葉集』  塙書房   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奈良には足掛かけ5年住んでいて、大学では『万葉集』の講義もあった。 出かける先々、奈良のいたるところに万葉集歌碑があり、『万葉集』はとても身近な存在だった。『万葉集』というと、全体的には、明るい春から初夏のイメージがある。 もちろん秋や冬の歌だってあるし、悲しい別れの歌もあるわけだが、歌風がおおらかで力強いので、明るく日が差している情景が浮かんでくる。
 
 
  高岡市万葉歴史館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持がみた越の国 富山県高岡市伏木一宮
 
 
  目で感じる万葉世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大和の地で詠われた万葉人の四季のうつろい、燃えたぎる相聞歌、身の引き裂ける挽歌心に響きわたる万葉歌1首1首に私の撮影した万葉風土の写真を添えてみました。
 
 
  北川研究室 万葉集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ようこそ。当研究室では、『万葉集』を中心に上代文学一般を研究対象としています。
 
 
  万葉集 〔古典に親しむ〕   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  二十巻からなる万葉集は、巻第一を原核とし、数次の編纂過程を経て成立したとされる。巻第一は、天皇の御代の順にしたがって歌を配列する構成がとられ、雑歌のみの巻である。作歌年代は、雄略天皇の時代から奈良の宮の時代まで。
 
 
  万葉の花とみどり=映像   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集ゆかりの里「埼玉県比企郡小川町」から・・・万葉集に詠み込まれた植物についての画像や記事を発信しています。
 
 
  萬葉集を讀む 正岡子規   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  四月十五日草廬に於いて萬葉集輪講會を開く。議論こも/″\出でゝをかしき事面白き事いと多かり。文字語句の解釋は諸書にくはしければこゝにいはず。只我思ふ所をいさゝか述べて教を乞はんとす。 「籠もよみ籠もち、ふぐしもよみふぐしもち、此岡に菜摘ます子、家聞かな名のらさね、空見つやまとの國は、おしなべて吾こそ居れ、しきなべて吾こそをれ、我こそはせとはのらめ、家をも名をも」  右は雄略天皇御製なり。・・・
 
 
  万葉散歩 フォトギャラリー   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  現代版 海石榴市(つばいち)フォト 丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)の秋祭りは600〜700kgもある太鼓台をかつぎ「よーいやさっさ、よいさっさ」の掛け声賑やかに境内せましと練り、そして疾走する勇ましい祭りです。  万葉散歩 / 飛鳥逍遥 / 年中行事・宿予約 / リンク集
 
 
  万葉集 紀の国の歌 紀州弁編   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  異国への憧憬、妹背の山、海の鮮烈、悲劇の皇子、白浜の海辺、女帝の行幸[いでまし]、神話の国、陽光ヒラメク癒しの国、草枕 旅に想いをはせた万葉歌
 
 
  万葉集に秘められた歴史の真実!   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  はじめに: 皆さんも、万葉集の歌にはいろいろな思いをお持ちのことでしょう。 私も、高校や大学で関係する書籍を購入したり、図書館で読んだりしたものです。 古代の人々が、31文字にその時の思いを込めてしたため、それを千数百年後の今、その詠み人の思いに触れることができることに大きな感動を覚えたものでした。 ただ、その当時は、それらの書籍に書かれていることに特に疑問を持つことはありませんでした。
 
 
  奈良の万葉集  奈良県立万葉文化館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「奈良」「山辺の道」「桜井・宇陀」「吉野・葛城・宇智」「飛鳥」「大和三山」「生駒・竜田・奈良盆地」「大和花万葉」
 
 
  訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  数年前、万葉集の学習のために、鹿持雅澄著『萬葉集古義』から万葉集本文のみを抜き出したテキストを入力作成しました。『古義』に示された訓に従って、本文を漢字ひらがな交じりの訓下し文に改めたものです。このたび知人の協力を得て、これに全面的な校正を施し、WEB上に公開します。
 
 
  万葉集と百人一首と歌の形が微妙に違うのは? - Yahoo!知恵袋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  教えてください。百人一首で「春すぎて夏来にけらし…」「田子の浦に…」が,もっと昔の万葉集では「春すぎて夏来たるらし…」「田子の浦に…」となっているのは何でですか。写し間違いなんでしょうか。
 
 
  百人一首の中に万葉集のうた?は含まれてますか?あれば教えてください!  - Yahoo!知恵袋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「万葉集」から”選ばれた歌”はありません。 ですが、元歌が万葉集に存在する歌はあります。 「百人一首」は勅撰集(天皇や上皇の命によって編纂された)から抜粋する方針で編まれていますので、“万葉集から選んだ”というわけではなく、時代とともに変化した万葉歌が勅撰集に収録され、それを百人一首に選んだという具合です。
 
 
  万葉集索引 - 塙書房   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  詳細: 本書は、木下正俊・佐竹昭広・小島憲之共著の『補訂版万葉集本文篇』を基として、木下正俊がさらに校訂を加えた本文を元にし、万葉集に見られる単語と、その用例をすべて抽出し、語彙の検索をできるようにした索引である。
 
 
  万葉集:本文篇 - amazon.co.jp   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集索引: 2003/3. 古典索引刊行会. 単行本 &middot; ¥ 23,760. 残り1点。 商品の詳細. 音感万葉集 (はなわ新書). 2010/4. 近藤 信義 &middot; 新書 ...商品の詳細 &middot; 万葉集の歌群と配列〈下〉 (古代和歌史研究). 1992/4. 伊藤 博 &middot; 単行本 &middot; ¥ 15,120.                      
 
 
  万葉集研究(シリーズ) - 塙書房   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集研究【第35集】 稲岡耕二監修/神野志隆光・芳賀紀雄編 A5判 384頁. 万葉集研究【第34集】 稲岡耕二監修 神野志隆光・芳賀紀雄編 A5判 312頁. 万葉集研究【第33集】 稲岡耕二監修 神野志隆光・芳賀紀雄編 A5判 264頁. 万葉集研究【第32集】
 
 
  補訂版 万葉集 本文篇 - 塙書房   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  補訂版 万葉集 本文篇 著者:佐竹昭広/木下正俊/小島憲之・共著. A5判 522頁 定価2205円(本体2100円+税) 1998年発行 定価:2268円(本体2100円+税)
 
 
  葛城古道を行く   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歴史ロマンを求めて、日本の街道てくてく歩き紀行. 古代王朝 ... 山麓の古道からは眼下に奈良盆地が広がり、万葉集に詠まれた大和三山も展望できるロマンの道でもある。 ロマンに浸りながら、古刹の橋本院の手前まで来ると「史跡高天原の石碑」があった。
 
 
  MANYOSHU の画像   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉人が旅の先々で歌を詠じたところ。 そんな場所は聖なる地です。 近くにそんなところがあれば行ってみませんか。 ひょっとすると柿本人麻呂や高市黒人や山辺赤人に会えるかもしれませんよ。 主な万葉地名。牛窓、相生、金ヶ崎、室津、家島、飾磨、姫路、稲美、魚住、藤江、明石、松帆、野島、浅野、慶野、黒岩、須磨、大和田、敏馬、有馬、名次、津門、猪名野、難波、星田、蒲生野、沙弥島、味真野、鞆、大津、筑波山、二上山、糸崎、風早、和歌の浦、白崎
 
 
  万葉集 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集 の画像 - Google
 
 
  ウォーク万葉 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「万葉を著す、諳じる、彩る、祝う、説く、奏でる、演じる、評する、食する、弾く、謡う、踊る、織る、染める、語る、舞う、味わう、企てる、祭る、護る、唱する、唸る、画く、歌う、巡る、園する、着る、拓する、集める、撮す、考える、薬する、碑する、姓する、写す、醸する、墨する、楽する、活ける、酌する、窯する・・・」人たちは、すべて「万葉を歩く」ことから始まるのでしょう。「ウォーク万葉」の創刊は1985年の1月。万葉集4,500余首に詠われた、およそ1,200ヶ所の故地を歩き、詳細に地図化して、60号で完結しました。
 
 
平安〜江戸時代歌人
凡河内躬恒 (おおしこうち の みつね)
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額田王
額田王
  額田王 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  額田王(ぬかたのおおきみ、生没年不詳)は、斉明朝から持統朝に活躍した、日本の代表的な女流万葉歌人である。また、天武天皇の妃(一説に采女とされる)。額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが、額田姫王(『日本書紀』)・額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも。『日本書紀』には、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、大海人皇子(天武天皇)に嫁し、十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世〜5世の皇族(王族)と推される。
 
 
  額田王   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山之辺の道をマラニックしていると道沿いにいくつかの万葉歌碑が目に止まります。 奈良からスタートしてコースも半ばを過ぎ、長岳寺から南へ1.5キロほど下ると三輪山が見えてきます。そこにこんな歌碑がありました。「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや 巻1−18 額田王」・・・。
 
 
  麗艶なり額田王   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  額田王は古代史上最も関心と謎の多い女性で、出自は諸説があり、まだ推察の域を出ませんが、当時の有力豪族であった「鏡王の娘」という説が一般的です。
 
 
  額田王終焉の地   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  桜井市忍阪から2鼠召蟷慨屬貌ったところ、音羽山の麓に粟原寺址はある。この地が額田王の終焉の地という。詳しいことは跡地に立つ説明文を引用する。「当地には額田王の終焉の地という伝承が遺されています。さすれば、国宝粟原寺三重塔露盤の銘文にある比売朝臣額田が、その人であるかも知れません。この事は史的考証ではなく、詩的確信です。数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩後の複雑な立場の拠り所をこの地に求めたものと想われます。
 
 
  〜額田王〜 系図   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  トップ / 著者プロフィール / 管理人プロフィール / 万葉集について / メルマガ / バックナンバー / 参考文献 / リンク集 / 古代史天皇著作について / 古代天皇シリーズ一覧表 / 日本書紀年表の構成との対比表 / 古代史換算表 / 日本武尊(上下) / 仲哀天皇 / 神功皇后(上下) / 応神天皇 / 仁徳天皇(上下) / 履中天皇
 
 
  額田王 千人万首   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本書紀には「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」とある。鏡王のむすめで、天武天皇の妃となり、十市皇女を生んだ。鏡姫王(鎌足の嫡室)の妹かともいう。斉明四年(658)十月、斉明天皇の紀温湯行幸に従駕し、歌を詠む(万葉集巻1-9)。
 
 
  蒲生野での出来事   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る この、あまりにも有名な贈答歌の舞台であるゆえに、蒲生野は『万葉集』研究の聖地の一つとなり、人々の幻想をかきたてる場所となった。
 
 
  額田王・恋ものがたり   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  飛鳥に咲いた一輪の花。スキャンダラスな謎多き女性・額田王(ぬかたのおおきみ)は、日本のクレオパトラと言ってもいいでしょう。彼女の恋ものがたりを読んでみてください。
 
 
  古典をたずねて 額田王   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  あかねさす紫草野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る 〔(あかねさす)紫野を行き標野を行って野守が見ているではありませんか。あなたが袖をお振りになるのを〕この歌には「天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時に額田王の作る歌」との詞書(ことばがき)がある。天智(てんじ)天皇七年(668年)の夏、蒲生野(今の滋賀県近江八幡市や八日市付近一帯)の禁野(きんや)で天皇が宮中の人々を大勢従えて狩をして遊んだとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に袖を振って恋しい心を表した場面を歌ったものである。
 
 
  今月の「いにしえ人」 ― 額田王―    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  神無月、すべての神様が出雲に集うと言う今月。秋と言う季節の中で、一番豊かさや深みを感じるのが今頃かな、と思う。そこで豊かなる秋のイメージから今月選んだいにしえ人は、万葉の時代を代表する女流歌人、額田王。額田王=秋、と言うイメージは、春山と秋山の趣きを競わせる宴が催された時、額田王が答えた歌からも浮かんでくる。
 
 
  万葉集  額田王(ぬかたのおおきみ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集の代表的歌人の一人です。最初は大海人皇子(おおあまのみこ:天武天皇)に嫁ぎ、のちに天智天皇に仕えました。有名なのに、生まれや身分などはよく分かっていないようです。額田王については、日本書記に「天皇(天武天皇のこと)、初め鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田王をめして、十市皇女(とをちのひめみこ)を生しませり。」とあるぐらいです。
 
 
  額田王 ぬかたのおおきみ  635〜715   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  この人も謎の多い歌人で生い立ちに関しては諸説入り乱れていますが、ここでは鏡王女の7歳年下の妹ということで進めていきます。この人もその美貌と才気のために激しく歴史の波に揉まれた一人です。
 
 
  日本最古の地名、忍坂街道、額田王の里   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上げ山(桜井皇子の古墳)/国史跡「桜井茶臼山古墳」/旧村社「宗像(むなかた)神社/真言宗「不動院」/延喜式内社「忍坂山口坐神社」/「忍坂山口坐神社」の大クス(楠)/延喜式内社「忍坂生根神社」/桜井市忍阪(おっさか)「玉津島神社」/舒明(じょめい)天皇押坂内陵/鏡女王(かがみのおおきみ)押坂墓/無宗派「石位寺(いしいでら)」/国史跡「赤坂天王山古墳」/倉橋溜池(竜吟鏡)/音羽山(倉橋山、標高851.7m)/国史跡「粟原(おおばら)寺跡」/半坂峠(標高約440m)の「男坂傳稱地」碑
 
 
  額田王 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみとも、生没年不詳)は、斉明朝から持統朝に活躍した、日本の代表的な女流万葉歌人である。
 
 
柿本人麻呂.660
柿本人麻呂
  柿本人麻呂 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃〜720年頃)は、飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれていないため万葉集が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見国の官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとされている。
 
 
  柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大和路マラニックを楽しんでいると、たとえば山之辺の道などで柿本人麻呂の万葉歌碑を時々目にします。人麻呂という名前は、高校時代の古文の授業で初めて知ったのであるが、そのときに出ていた歌が「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」であって、五七五七七調の語句の中に琵琶湖の大自然を叙情的に歌ったこの歌を今でも覚えています。
 
 
  銅像 柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『万葉集』に歌を残すのみで,閲歴は定かでない。晩年は地方官として石見(島根県)につかわされ、その地に没した説がある不明。おもな作品は持統-文武天皇の時代(690-707)につくられ、「万葉集」には人麻呂作と詞書のある長歌18首、短歌67首。また「柿本人麻呂歌集」所収の長短あわせて約370首が「万葉集」におさめられている。天皇を神格化し儀礼歌の様式を完成。自然、旅、死、恋愛などを歌材に枕詞、対句、比喩などの修辞を多用し、続く奈良朝の歌人が、常に人麻呂を意識し平安朝に下って歌聖とあおがれた。
 
 
  明石と柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『万葉集』には、地名〈明石〉を詠み込んだ歌が八首ある。そのうちの二首(見方によれぱ三首)が、人麻呂の作である。これに対して、地名〈明石〉を詠み込んだ『古今集』の歌は、巻九「羇旅歌」の次の一首だけである。 ほのぼのと あかしの浦の 朝ぎりに 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ(四○九) 人麻呂の代表作として喧伝されたこのよみ人しらずの歌は、古今伝授の秘伝歌の一つだという。
 
 
  柿本人麻呂  略伝   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集より、人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集を出典とする歌25首、計100首を載せる。また付録として、拾遺集と新古今集に人麻呂作として採られた歌より18首を抜萃して併載する。訓は主に伊藤博『萬葉集釋注』、佐竹昭広ほか校注『萬葉集』(岩波新古典大系)に拠った。カッコ内の数字は万葉集の巻数と旧国歌大観番号である。
 
 
  柿本人麻呂の秘密   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  古代日本最大の歌聖・柿本人麻呂は、また多くの謎に包まれた人物でもあります。晩年を石見地方で過ごした人麻呂の、依羅娘子とのロマンスや鴨山での死等、島根県に残る人麻呂の足跡を訪ねていきます。
 
 
  万葉集 柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集の代表的歌人の一人として有名です。出生などはわかっていません。万葉集の第2巻には、石見(いわみ)国で死に臨んだときの歌があります。この歌の直後に「寧樂宮 和銅四年・・・」の題詞があるので、人麻呂が亡くなったのは、それ以前ではないかと考えられます(ただし、はっきりとはしていません)。万葉集には、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の作とされている歌と、柿本人麻呂歌集に載っていたとされる歌があります。
 
 
  柿本人麻呂 生誕地   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  益田市の西方、戸田の集落を訪ねた。柿本人麻呂の生誕地という。静かな田園風景の小丘に生誕地の碑がある。伝承によると、3世紀この地方に大和から小野族が移り住んだ。延喜式に「美濃郡・小野天大神之多初阿豆委居命神社」があるが、その小野族であろう。この時柿本氏も移住し人麻呂の祖になるという。神社の宮司さんは綾部さんといい、綾部氏も共に移住した氏で代々語り部として社家を守ってきた。現在50代目という。この綾部家の女性と柿本家の男性の間に生まれたのが人麻呂という。
 
 
  3 柿本人麻呂の正体   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  従来の人麻呂像 / 柿本人麻呂水死刑説 / 忠臣三輪高市麻呂の諌言 / 高市麻呂と人麻呂の共通点 / 筑紫に下った人麻呂 / 人麻呂=高市麻呂の証拠 / 吉野行幸従駕の歌の注 / 『懐風藻』のヒント / 藤原万里の詩の秘密 / 巻七の例外=藤原卿の謎 / 『石見国風土記』の人丸
 
 
  柿本人麻呂とその時代   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集のみならず和歌史を代表し、ひいては日本文学史をも代表する柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、天武朝(てんむちょう)に活動をはじめ、平城京遷都を見ずに亡くなったと考えられている。
 
 
  石見の国・柿本人麻呂の旅   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  このサイトでは柿本人麻呂の文学の里をご紹介します。 人麻呂は言うまでもなく七世紀を代表する歌聖である。平成五年十二月、私は先輩とともに石見の地(現・島根県西部)を訪れた。目的は人麻呂の死に場所をこの目で確かめるということであった。
 
 
  万葉の里 江津 柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  数々の傑作を生み出した歌人、柿本人麻呂。しかしながらあまりにも謎が多く、現在にいたってもなお、そのロマンを追求する者は多い。人麻呂が石見の国を訪れた理由ははっきり分からないが、どうやら人麻呂はここ江津市で依羅娘子と出会い、二人は恋に落ちたらしい。しばし幸せな時間を共有しつつ、やがて人麻呂が都に帰る時が訪れる。愛する者同士、別れを惜しみ、切ない心情を歌に込めて詠み合う。
 
 
  熊野の歌>歌人 柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は万葉第二期の歌人。長歌(五七五七五七……七という形式の歌)・短歌(五七五七七)ともに優れ、皇室讃歌や亡くなった皇子皇女の死を悼む挽歌など儀礼歌を多く作っていることから、持統・文武両朝(687〜706)に仕えた宮廷歌人であったと考えられています。また恋の歌や旅の歌などにも優れた作品を数多く残しています。万葉時代最大の歌人で、平安時代以降、歌の聖として尊崇されました。
 
 
  柿本人麻呂・藤原京関連年表   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  672年 (天武元):壬申の乱。人麻呂も戦闘に参加か。飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に遷る。〜1219〜1221年 承久年間:現存最古の歌仙絵(かせんえ)「佐竹本(さたけぼん)」、このころ成るか。
 
 
  島根ゆかりの文学者 柿本人麻呂   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集の代表的歌人であり、今も歌聖として崇められる柿本人麻呂だが、その伝記や生没年は不詳だ。「いろは歌」の作者? そこに読み込まれた暗号とは……。柿本人麻呂にまつわる謎は尽きない。萬葉集巻二(223)『柿本朝臣人麻呂、石見國に在りて死に臨みし時に、自ら傷みて作る歌一首。鴨山の磐根し纏ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ』。人麻呂は晩年、石見国府の役人をし、そして石見国で死んだ。まさに、文学散歩には格好のミステリアスな人物である。
 
 
  柿本人麻呂の年表 - あしたね年表   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)に関する本・DVD   年月日/できごと/写真
 
 
  柿本人麻呂 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃〜720年頃)は、飛鳥時代の歌人。
 
 
  江津の万葉〜柿本人麻呂ゆかりの地〜   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉の歌碑めぐり 万葉歌人で有名な柿本人麻呂ゆかりの地として知られる江津市には多くの歌や伝説が伝えられています。また、江津市には万葉の歌碑が五基あります。これは全国にも例を見ない多さです。江津市へお越しの際には、ぜひ足を運んでみてください。
 
 
  柿本人麻呂社 岐阜県指定重要文化財   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉の歌人 、柿本人麻呂「八世紀前半」を祭神とする社殿。この社殿にまつわる伝承は口誦であり 詳細は不明であるが、伝承によれば文武の道を志す明智光秀が、遠山氏の信仰する八王子神社内に人麻呂社をまつり、社前に紅葉「楓」を手植えしたと伝えられる、尚この社殿には明智氏の家紋の桔梗が残されている。
 
 
  万葉の道 謎に包まれた柿本人麿の生涯   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「万葉集」の代表的な歌人として優れた歌を残し、また宮廷歌人として天武・持統の両帝に仕えた歌聖・柿本人麿は、古代の石見国と不思議な因縁で結ばれ、その生涯は多くの謎に包まれている。 殊にその「生と死」をめぐる謎には諸説あり、今もって古代史ファンのロマンをかきたてている。
 
 
  柿本人麻呂  朝日日本歴史人物事典の解説   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大和時代の歌人。微官であったらしく,『万葉集』に歌を残すのみで,閲歴は定かでない。作品は,数え方によって異なるが,人麻呂の作と記される長歌18首,短歌60余首,「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」などとされる長歌2首,短歌330余首,旋頭歌35首がある。
 
 
  柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ 生没年未詳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集より、人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集を出典とする歌25首、計100首を載せる。また付録として、拾遺集と新古今集に人麻呂作として採られた歌より18首を抜萃して併載する。
 
 
  柿本朝臣人麻呂 (かきのもとのあそみひとまろ)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  父母等は未詳。柿本朝臣は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする和邇(わに)氏の一族で、春日氏・粟田氏などと同族。大和国添上郡柿本寺(奈良県天理市櫟木町)付近の地名をウヂ名としたかという。姓ははじめ臣、天武十三年、八色の姓制定に際し、朝臣を賜る。
 
 
山上憶良.660
山上憶良
  山上憶良 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山上憶良(やまのうえのおくら、(660年)? - 天平5年(733年)?)は奈良時代初期の歌人。万葉歌人。従五位下。下級貴族の出身(中西進ら文学系研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている)で、姓は臣(おみ)。702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。帰国後は東宮侍講を経た後、伯耆守、筑前守と国司を歴任しながら、数多くの歌を詠んだ。
 
 
  山上憶良   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  下級貴族出身。遣唐使として、唐で最新の学問(儒教・仏教等)を学ぶ。帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた、大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。
 
 
  億良の悲しみ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  天平2年(730年)正月13日、大宰帥大伴旅人邸で梅花の宴が催された。太陽暦の2月8日、渡来の梅の花がほころぶ頃だ。大宰府中央官人や九州諸国の官人32名が会した。山上憶良がいる、小野老、沙弥満誓がいる、大伴百代もいる。主賓の大弐紀卿が、「正月たち春の来たらば・・・」(写真の歌碑)と詠い梅を客人に見立て先ずは宴の歓迎のあいさつ。・・・
 
 
  山上憶良  略伝   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  父母等は不詳。粟田氏の支族山上臣の出身。一説に、近江甲賀郡居住の粟田従属の百済系渡来氏族かともいう(中西進)。大宝元年(701)正月、第七次遣唐使の少録に任命される。この時無位で、名は山於億良とある。同年九月、文武天皇の紀伊国行幸の時の作と思われるものに長意吉麻呂の「結松を見て哀咽歌」(万2-143・144)があり、これに追和した憶良の歌がある(2-145)。
 
 
  山上憶良 辞世の句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山上憶良といえば、代表的な万葉の詩人の一人です。万葉の詩人といえば柿本人麻呂や山部赤人などがいますが宮廷詩人として名を馳せた人麻呂や自然を美しく歌った赤人と違って山上憶良は「貧窮問答歌」で有名なように人情を歌ったことで有名です。
 
 
  文学 66 山上憶良(1)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  12日付日経新聞の「春秋」は、わが国の出生率の低下を憂え、山上憶良(ヤマノウエノオクラ)に見習うべきではないかと書いています。そして憶良が「妻子が待っているので」と早目に宴席を辞したり、子どもを金銀珠玉よりも勝る宝としたことを紹介しています。この記事に関係する憶良の歌は次の通りです。
 
 
  文学 67 山上憶良(2)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  天平5年(733)に山上憶良が書いた「痾(ヤマイ)に沈みて自ら哀しむ文」のなかに年七十有四 とあるのを基準にして、憶良の略年表を作りますと次のようになります。
 
 
  山上憶良 短歌案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  いざ子どもはやく日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ・・・以下縦書き10首
 
 
  山上憶良と大伴旅人   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山上憶良(やまのうえのおくら)。万葉歌人。斉明6年(660)〜天平5年(733)頃没。出自は大和国添上郡出身の下級氏族、あるいは近江国甲賀郡に住んだ百済系の渡来氏族だともいわれます。大宝2年(702)、第7次遣唐使の一員として唐に渡り、神亀3年(726)に筑前守として、初めて九州の大宰府に赴任しました。
 
 
  暗号「山上憶良」目次   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  建国記念日が明かす日本史の秘密   建国の年を紀元前660年に設定した意図/倭国の極南界ではない倭奴国/漢委奴国王金印埋納地点が鬼門となる鏡山/暗号仕掛け人を割り出す手がかり
 
 
  山上憶良歌碑 嘉麻市   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  いまから、1300年前に編纂された万葉集は、わが国が世界に誇る文学です。天皇から名もなき庶民に至るまで、実に全20巻4516首に及ぶ歌がおさめられています。…
 
 
  山上憶良の『貧窮問答歌』    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  持統天皇の御製、「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天香具山」(万葉集) 天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。そして農民たちの生活がますます豊かになることを、和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。
 
 
  山上憶良歌碑 (筑豊エリア)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉の歌人・山上憶良が筑前国の国司として大宰府に赴任したころ、嘉摩の役所(現在の鴨生)にて三首の歌を詠んだと言われています。うち一首が有名な「銀も金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」。憶良苑にはこの歌を始め、憶良の歌碑5基が建立されています。
 
 
  稲築万葉散歩−山上憶良−   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  昨年9月に一人で嘉穂郡稲築町の万葉歌碑めぐりをした。稲築町の万葉歌碑は全て山上憶良のものである。主な短歌は次の三首である。  しろがねもくがねも玉も何せむにまされる宝子にしかめやも   憶良らは今はまからむ子泣くらむそれその母もあを待つらむぞ   世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
 
 
  山上憶良 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山上 憶良(やまのうえ の おくら、(斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?)は、奈良時代初期の歌人。
 
 
  HP暗号「山上憶良」で伝えたい事柄   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  常識の壁を崩壊させる用意/T氏からのアドバイスに関連して : 邪馬台国を示す地図/古代史の暗号の世界への入口/柿本人麻呂の正体/柿本人麻呂の歌の作者は誰か 
 
 
  万葉集 山上憶良 (やまのうえのおくら)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山上憶良(やまのうえのおくら)は斉明天皇6年(660)生まれと言われています。これは、天平5年(733)に書いたとされる第五巻に載っている「沈痾自哀(ちんあじあい)の文」の中に、「この時に年は七十有四にして」というところから逆算したものです。万葉集には、40を過ぎてからの歌が載っています。山上憶良の歌は、子どものことを想った歌が特徴だと思われます。また、病気や貧乏など、人生の苦しい面や、その時代の問題を扱っているのが特色でしょう。
 
 
  山上憶良 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山上憶良 画像 - Google
 
 
大伴旅人.665
大伴旅人(菊池容斎・画、明治時代)
  大伴旅人 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴 旅人(おおとも の たびと、天智天皇4年(665年) - 天平3年(731年8月31日)は奈良時代初期の政治家、歌人。大納言・大伴安麻呂の子。官位は従二位・大納言。神亀年間(724年-729年)には、大宰帥として九州の大宰府に妻と子(家持・書持)を伴って赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。漢詩集『懐風藻』に漢詩作品が収められ、『万葉集』にも和歌作品が78首選出されている。酒を讃むるの歌十三首を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られる。
 
 
  大伴旅人   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし  /  吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る    「吉野讃歌」や、妻を亡くした時の歌も名高いが、最も有名なのは「酒の歌」であろう。 憶良に息子、家持の家庭教師を頼む。 彼の志は家持に受け継がれる。
 
 
  大伴旅人・酒を讃むる歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉歌人の中で第一の酒好きと言われる旅人は、天智天皇の御世(665年)に生まれ、六十三歳の晩年に大宰帥として僻地・筑前に赴任。そのいかにも左遷されたとの思いの時期に詠んだのが「酒を讃むる歌十三首」です。
 
 
  大伴旅人:酒の讃歌 - 壺齋閑話   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。
 
 
  大伴旅人 万葉集を読む   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴旅人:酒の讃歌/大伴旅人:松浦川の歌と松浦佐用姫伝説/大伴旅人:梅花の宴(万葉集を読む)/大伴旅人:亡妻をしのぶ歌(万葉集を読む)
 
 
  藤原房前と大伴旅人・・・1   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  前回の記事で万葉集巻五にある大伴旅人と藤原房前の間に交わされた、一面の琴に関わっての書簡、並びに短歌について紹介した。そして、その末尾は次のように結んだ。
 
 
  大伴旅人 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴 旅人(おおとも の たびと、665年 - 天平3年(731年)7月25日)は奈良時代初期の政治家、歌人。
 
 
  万葉集: 大伴旅人(おおとものたびと)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集には、76首の歌が載っていますが、「酒を讃(ほ)むるの歌13首」というのが目立ちますね。お酒が大変好きだったようです。 万葉集以外に、「懐風藻(かいふうそう)」に五言一首が載っています。
 
 
  大伴宿禰旅人 おおとものすくねたびと   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  安麻呂の長男。家持・書持・留女之女郎の父。妻として大伴郎女が知られる。母は不詳であるが、伴氏系図に「母多比等女」としているのは「巨勢比等女(こせのひとのむすめ)」の誤りではないかと推測され(02/0102題詞脚注には巨勢郎女につき「大納言巨勢人(比等に同じ)卿之女也」とある)、田主と同母の巨勢郎女であったろうと推測される。
 
 
  大伴旅人 - 群馬県立土屋文明記念文学館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒をのむべくあるらし 『万葉集』   (作者紹介) : 665(天智4)年〜731(天平3)年。太宰府の長官を務め、大納言と言う高い位の官職にも就きました。大伴氏は元は軍事を司る氏族でした。万葉集の編者と言われる大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人の長男です。
 
 
  大伴旅人 おおとものたびと 天智四〜天平三(665-731)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  安麻呂の長男。家持・書持の父。坂上郎女の異母兄。万葉集には大宰帥大伴卿・大納言卿などの敬称で現れ、また自らは書簡文に淡等と署名しており、「旅人」の名は一度も見えない。続日本紀には「旅人」「多比等」とある。
 
 
  新選万葉集 第9巻 大伴旅人「賛酒歌」 [DVD]   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  いつの時代でも心に響く日本最古の歌集・万葉集の全4,500首の中から、宮人たちの歌をテーマに厳選した歌を収録した第9巻。万葉集を彩る歌人の中でも特に酒好きで、酒に関する秀逸な歌を多く詠んだことでも知られる大伴旅人の歌を収める。
 
 
山部赤人
山部赤人
  山部赤人 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山部赤人(やまべのあかひと、生没年不詳)は、奈良時代初期の歌人。三十六歌仙の一人。後世、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。『古今和歌集』『小倉百人一首』では山邊赤人と表記する。その経歴はあまり定かではないが、下級官人であり、聖武天皇朝の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したことが推測される。また、同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。
 
 
  山部赤人墓   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  あしひきの 山(やま)谷(たに)越えて 野(の)づかさに 今は鳴くらむ うぐひすの声 榛原町山辺、まさに巻17−3915の通りで、山谷を越えて野づかさ(山麓の傾斜地にある小高い所)に赤人墓と伝わる墓石が建つ。幾重にも連なる宇陀の山々が望める地である。
 
 
  山部赤人神社   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  津田神社内に山部赤人神社がある。「風吹けば浪がたたむとさもらひに都太の細江に浦がくりをり」とこの地を歌った。奈良中期の歌人である。
 
 
  山部赤人図絵   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  百人一首図絵 (田山敬儀 国文学研究資料館 タ2/208/1-3)/若鶴百人一首 (国文学研究資料館 ヤ5/196)
 
 
  山部赤人歌碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  富士市の田子の浦港。富士山の溶岩で柱状石をあしらった歌碑がある。「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」。だれもが知っている万葉集の代表傑作である。海と富士、万葉の時代から絶景の折り紙付き。
 
 
  6 山部赤人歌碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌番号 4 田籠の浦にうち出てみればしろたへの 不二の高嶺にゆきはふりつつ
 
 
  山部赤人  略伝   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奈良時代の歌人。制作年の知られる歌はすべて聖武天皇代の作である。神亀元年(724)の紀伊国行幸、同二年の吉野行幸・難波行幸、同三年の播磨国印南野行幸、天平六年(734)年の難波行幸、同八年の吉野行幸などに従駕し、土地讃めの歌を作る。伊予温泉や勝鹿真間、田子の浦などで詠んだと思われる歌もあり、広く各地を旅していたらしい。閲歴は全く不明であるが、下級官人であったろうと推測される。また故藤原不比等邸の「山池」を詠んだ歌があり、藤原氏との深い関係が窺われる。
 
 
  山部神社・赤人寺   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉歌人・山部赤人ゆかりの社寺 山部神社と、隣接する赤人寺は、ともに万葉の歌人、山部赤人(やまべのあかひと)ゆかりの社寺。山部赤人は、聖武天皇の時代に活躍した歌人で、経歴は不明ですが、広く各地を旅してまわっていたことが、残された歌からわかっています。赤人は、ここ、蒲生町下麻生の地で生涯を閉じたとされ、赤人を祭神と祀る山部神社境内には、赤人の歌を刻んだ石碑が残っています。 
 
 
  山部赤人 短歌案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける・・・以下縦書き10首
 
 
  山部の赤人の墓を訪ねる   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  以前から伊勢方面に自動車で出かける度に橿原市内を通過する時、「山部の赤人の墓」の案内標識を見ており、今回見に出かけた。
 
 
  高市黒人の連作と山部赤人の歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集に旅の歌18首を残す漂泊の歌人高市黒人の平明で、印象的な叙景歌は、自然歌人山部赤人の先駆をなすものといわれています。
 
 
  山部赤人 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山部 赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。
 
 
  敷島随想 山部赤人ー泊瀬のやまべ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集に依りますと、東は下総国真間から、西は伊予の伊社爾波の岡まで当時としては広範囲に行動した山部赤人の終焉の地は、彼の古里と想像される大和国東端「やまべの里」です。「山部」とは、古代大和政権の直轄の山林を守ることを職能とした部民の名前です。地名として記されているのは、現在の奈良市東部に位置する山辺郡で、都祁村や山添村が属しており、その南部に赤人の古里と推定される宇陀郡の榛原町ほか、二町三村が位置しています。
 
 
  山部赤人が詠んだ富士山の歌の秘密   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「大辞林」で、「拾遺和歌集」と「和漢朗詠集」を引くと、次のように解説してあります。ところが、 奇妙なことに、ほぼ同時代に成立した本であるにもかかわらず、「拾遺集」と「和漢朗詠集」とでは、次の歌は、作者が別人になっているのです。
 
 
  万葉集  山部赤人 (やまべのあかひと)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)。万葉集の中でその年号がわかっているのは、神亀元年(724)から天平八年(736)の間に紀伊、吉野、難波宮、印南野、そして再度吉野への行幸のときの歌です。それ以外には、下総、駿河、摂津、播磨などでの歌があります。万葉集には五十首載っています。その中でも、富士山の歌が有名ですね。
 
 
  山部宿禰赤人 (やまべのすくねあかひと)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  系譜など 未詳。山部宿禰は、山林の管理と産物を貢納する山部を管掌した伴造氏族。もとは連、684(天武13)年の八色の姓制定の時宿禰を賜わる。785(延暦4)年5月、桓武天皇の諱山部に触れるため山と改められた。
 
 
  講演要旨 (竹田美喜 氏 「山部赤人と伊予温泉歌」)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「318田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ 富士の高嶺に雪は降りける」の歌で有名な山部赤人は、この後、伊予の地を訪れ伊予の温泉歌を詠んだ。それが『万葉集』巻三・322と323である。この歌は他の万葉歌にはない、歴史的な事実を詠み込むという特徴がある。現在、この歌碑を建立する気運が盛り上がっている。そこで、この歌の価値、歌碑を建立するに当たっての留意点などについて述べてみたい。
 
 
  額井岳を背に、棚田を見ながらの農道を下ると前方に室生湖が・・・。   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  十八神社からの眺めを存分に楽しんだ後、目の前にどっしりと構える額井(ぬかい)岳の方へと歩を進める。大和富士とも呼ばれる額井岳の山裾を少し登ると、やがて薄暗い木立の中に、東屋が見えてくる。その奥には、万葉歌人山部赤人(やまべのあかひと)の墓が見えてくる。しかし、ここには説明書きが2つあって片方には「この墓が本当に山部赤人の墓であるかどうかは定かではないが、古くから村人たちは、山部赤人の墓だと信じている」と書かれている。しかし、この看板はなぜか「山辺赤人」となっている。↓
 
 
  田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  国守として東国に赴任することになった山部赤人は、一族郎党を引き連れて奈良の都から旅を続けていた。これまでは陸路であったが駿河の国、田子の浦からは海路をとり、さらに東を目指す。一行のほとんどの人間にとって初めての船旅ではあるが幸いにも海は穏やかで、時折り快い風が皆の間を吹き抜けて行く。
 
 
但馬皇女.678?
但馬皇女
  但馬皇女 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  但馬皇女(たじまのひめみこ、生年不詳 - 和銅元年6月25日(708年))は天武天皇の皇女。万葉集に四首の作歌が見え、歌経標式にも一首が残されている。高市皇子の宮にいたことが、万葉集の題詞にみえており、彼の妻ではなかったかとする説、また兄弟中最年長であった高市皇子に養われていたとする説がある。歌人としては穂積皇子を偲んだ歌などがあり、その内容からこの皇子と恋愛関係にあったとも言われるが、以上の説はすべて万葉集からの推測で、史書には誰と結婚したという記録はない。
 
 
  但馬皇女 - 古歌あれこれ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  秋の田の穂向きの寄れる片寄りに 君に寄りなな言痛くありとも  /  遺れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ 道の隈廻に標結へ我が背  /  人言を繁み言痛み己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る
 
 
  但馬皇女 たじまのひめみこ    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生没年 : ?〜708(和銅1)   系譜など : 天武天皇の皇女。母は氷上娘(中臣鎌足の女)。  略伝 持統十年(A.D.696)以前、「但馬皇女の高市皇子の宮に在す時、穂積皇子を思ふ御作歌」他3首(02/0114〜0116)がある。
 
 
  降る雪は あはにな降りそ 吉隠の   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「 但馬皇女(たぢまのひめみこ)薨(みまか)りましし後、冬の日雪の落(ふ)るに、遥かに御墓(みはか)を見さけまして、悲傷流涕して作りましし御歌一首 」 という題詞のついた歌です。
 
 
  但馬皇女 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  但馬皇女(たじまのひめみこ、生年不詳 - 和銅元年6月25日(708年))は天武天皇の皇女。母は氷上大刀自。
 
 
  「言しげき・・・」 但馬皇女と穂積皇子(1)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  但馬は幼なじみで異母兄の穂積皇子にひそかに心を寄せていたのです。 こんな歌を詠んでいます。  秋の田の穂向きの寄れる片寄りに 君に寄りなむ言痛(こちた)くありとも
 
 
  但馬皇女の年齢 - 天武天皇の年齢研究   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊藤博氏は691年持統5年の事件として、穂積皇子25歳と但馬皇女は23歳としています。
 
 
  人言繁き2 (但馬皇女の恋) - いとおしき日々   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  但馬は淋しい妻となった。 年若い但馬に 夫の心の機微など分かるはずもなく高市の胸に入っていけない 但馬の胸に穂積皇子の面影が忍び寄ってきた。… 幼くして母を亡くし、淋しく育った但馬が兄のように慕い 頼った穂積を 恋しく思ったとしても不思議ではない。 
 
 
  人言繁き3 (穂積皇子の愛) - いとおしき日々   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  但馬にとって 深い嘆きをともなった愛だった。 穂積との悲恋、よろこびも悲しみも 醜聞として世間に知れ渡った。 穂積も また但馬の情熱にこたえる事ができなった。…
 
 
  但馬皇女 たじまのひめみこ 生年未詳〜和銅元(708)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  天武天皇の皇女。母は氷上娘。万葉集に四首の作歌が見え、持統十年(696)以前、高市皇子の宮にいて穂積皇子を偲んだ歌などがある。和銅元年(708)六月二十五日、薨ず。同年冬、穂積皇子が詠んだ悲傷歌がある。
 
 
大伴家持.718
大伴家持
  大伴家持 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
 
 
  大伴家持像   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  三十六歌仙の一人であり、百人一首にも入集しているため、歌仙絵としての家持像は数限りなく描かれてきました。もっとも、同時代の肖像や容姿についての記録は一切残っていないので、家持がどんな顔や背格好をしていたのか、実際のところは全く不明です。
 
 
  大伴家持と富山   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  気呂犬瓩法伸恐隼と万葉集:万葉集は全部で二十巻、総歌数は約四千五百首にものぼるが、その成立や撰者については今日まで諸説がある。しかし、元々成立を異にした巻々が、大伴家持の手元で整理され、その後も後の人の手が加わって、今日のような形になった事は、大方の認めるところである。歌の数も 474首と最も多く、家持は、まさに万葉歌人中の第一人者である。/群隼の出自/険枌羲蕕箸靴討寮験茵伸垢修慮紊硫隼
 
 
  大伴家持の世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  全作品を小年期、内舎人在任期、越中守在任期、越中守離任以後の4つに分類し、一挙掲載。伝記や関連文献も読めます。 作品 / 伝記 / 秀歌撰 / 文献 / 「家持歌日記」を読む / オマージュ / 更新情報 / 和歌雑記 / 和歌日記 / サイトマップ / ご挨拶 / リンク / やまとうた / 訓読万葉集テキスト / Q&A集 / ゲストブック / 和歌投稿掲示板「花筵」 / 百人一首に唱和しよう / 新設 / ゲストブック過去ログ
 
 
  大伴家持論 (1.2)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  時代の流れに媚びず、自己の信じる所を貫いた家持。そういう男はいつの時代にもいる。今の言葉でいえば、ヘンコ、ツッパリ。反骨は損得などに関わらない。だからとても優しい心を持つ。男の強さと優しさを見るとき、憧れに似た心が動く。家持は感動的な男なのである。
 
 
  大伴家持と万葉集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老2年(718)といわれています。母が旅人の正妻でなかったのですが、大伴氏の家督(かとく)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられました。けれどもその郎女とは11歳の年に、また父の旅人とは14歳の年に死別しており、さらにたった一人の弟書持(ふみもち)とも越中守(えっちゅうのかみ)在任中に29歳で死別しています。
 
 
  大伴家持と能登の海   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  天平20年(748)の春、都から一人の青年貴族が伴の者を従えながら、現在の富山の高岡方面から、石川県と富山県の県境、志雄町と氷見市を結ぶ「臼ヶ峰往来」を越えて、羽咋の海岸へ出た。そしてさらに北へ向かおうとしていた。彼の名は、大伴家持(おおとものやかもち)、当時30歳を少し越えたばかりであった。
 
 
  大伴家持の作品鑑賞   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  万葉集の大伴家持の作品について、その解釈と鑑賞を自分なりに施してゆきます。作品の配列は年齢の順にしました。制作時期の不明のものは、何時から何時ぐらいの間との推測によっています。
 
 
  大伴家持(717〜785)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事」  大伴家持、42歳の新春の歌である。歌の意味は「新年を迎えためでたい今日、降りしきっている雪のように良いことが重なってくれ」という所であろうか?しかし家持の身辺はこの歌のような『良いこと』が重なるような状態ではなく、台頭してきた藤原氏により凋落していく。
 
 
  大伴家持の能登巡行とは   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奈良から越中にきた大伴家持/国守はどんな仕事?/越中で病気をした家持は…。/当時の税金/どんなところを見てまわったの?/どんなルートで見てまわったの?/どんな歌を残したの?/“能登巡行追体験の旅”とは/発会式でのパワーポイントによる説明/リハーサル説明会で配布した万葉関連の資料
 
 
  大伴家持と多賀城の酒 (一)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持には、ひとりぽつねんとしていて作った歌がわりと少ない。多くは人との贈答歌である。もっとも、実はその少ない方の中に、むしろ彼の代表作が見られるし、また時代をこえた新しさもあると思えるのだが、それはともかく、家持は人を相手に、あるいは人を集めて酒を酌みながらの歌作りが好きだったようだ。 
 
 
  大伴家持と多賀城の酒 (二)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  前篇「家持と多賀城の酒」(一)の中で私は、「家持が多賀城でどんな酒を飲んだかということより、どんな心で飲んだかということの方が、先ず気がかりになる…………」と書いた。しかし、その気がかりを解明してゆく上では、どんな酒を飲んだかということもやはり、ひとつの手がかりになると思われる。というのは、飲む酒がどんな酒であるかによって、そしてまた酔いの発し方によって、人間の心はさまざまに変るものだからである。
 
 
  大伴家持のみた日本海地域   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  1 大伴家持と越中国:万葉の歌人大伴家持が、越中国司として赴任したのは、天平18(746)年7月、北陸の野山に女郎花(おみなえし)や萩の初花が咲く頃であった。 2 越・越中の表記 3 大伴家持と「越」の四季 4 「古之(越)」の村々−万葉びとの活動舞台− 5 「古之(越)」の海と渤海使の往来
 
 
  群馬県立 土屋文明記念文学館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持 うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがり情悲(こころかな)しも独りしおもへば 『万葉集』  生没年、718年ころ〜785年。父は大伴旅人。越中守(富山県に能登半島を併せた地域の国司)として赴任した時代の歌が多く残されています。万葉集の成立に深くかかわっていますが、編纂者かどうかはっきりしていません。各巻によって編者が異なっても、家持の手によって20巻にまとめられたとする説が有力のようです。
 
 
  1.親友の死 〜大伴家持の憤死   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『万葉集』の編者されるこの男には文人のイメージが定着しているが、実は生粋の武人であった。そもそも大伴氏は、代々天皇家のボディガードを勤めた武門の名家であった。大伴金村(かなむら)失脚(「2002年10月号 日朝味 2大伴金村の出兵」参照)以降、最高権力者こそ輩出していないものの、家持の曽祖父・大伴長徳(ながとこ)は右大臣に、祖父・大伴安麻呂(やすまろ)と父・旅人(たびと)は大納言に昇っている。
 
 
  大伴家持の年表 - あしたね年表   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持(おおとものやかもち)に関する本・DVD
 
 
  万葉の歌人大伴家持越中を詠む   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持は七四六年(天平18年)二十九歳の時、現在の富山県と能登を含めた越中の国守としてこの地に5年間滞在した。その間、各地をまわり残した歌などを、1250年たった今現地から当時を振り返り紹介する。
 
 
  立山と富山(4) 大伴家持と池主   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持が天平十九年(七四七年)四月二十七日「立山の賦」長歌一首短歌二首を作ったのに唱和して、大伴池主は翌四月二十八日「敬和立山の賦」これも長歌一首短歌二首から成る大作を詠み上げた。池主は越中国掾(じょう)。家持は守(かみ)で今でいえば県知事級。これに対して副知事級が介(すけ)、総務部長級が掾という職制であった。同じ大伴姓だから一族一門の間柄。家持は都からはるばる越中へ赴任したが、そこに一族で旧知の池主がいたことは心強かったであろう。
 
 
  万葉集 大伴家持 (おおとものやかもち)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持(おおとものやかもち)は万葉集の成立に深くかかわっていたのですが、編纂者(へんさんしゃ)かどうかははっきりとはしていません。大伴家持(おおとものやかもち)の歌は、万葉集に479首も載っていますのでここでは抜粋を掲載させていただきますね。
 
 
  大伴家持 おおとものやかもち (?〜785)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奈良時代官人。従三位中納言。父は従二位大納言大伴旅人。妻は大伴坂上大嬢。弟に書持がいる。家持の誕生年については、霊亀2(716)年、養老2(718)年、養老3(719)年、養老4(720)年等諸説がある。「宿禰」姓。
 
 
  YouTube - 100百人一首 6 中納言家持(大伴家持)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  YouTube - japanese poem100百人一首 6 中納言家持(大伴家持)
 
 
  万葉の里・氷見線沿線 【大伴家持の越中守時代】   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『続日本紀』によれば、大伴家持は天平18年(西暦746年)6月21日、宮内少輔から越中国守に遷任されています。二十代最後の年も半ばを過ぎようとする頃でした。越中赴任というと、ひなびた僻地への左遷といったイメージを想い浮かべる方が多いかも知れませんが、実状は決してそのようなものではありませんでした。当時の越中国は、今で言えば富山県に能登半島を併せた大きな国でした。万葉集を見ると、目(さかん。国司の四等官)が2名いたことが知られ、官制上は大国(諸国を4等級に分けたうちの最上級)に近い扱いを受けていたと判ります。
 
 
  大伴家持 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持 画像 - Google
 
 
  魚津市 - 大伴家持の歌碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持は、日本最初の和歌集である万葉集の選者で、古代を代表する歌人、あるいは、越中国司として、著名な人物である。 魚津を詠んだものとしては、早月川の歌と片貝川の歌があるが、ここに記されているのは、家持が伏木の国府から越中国内の巡視に出て、馬で早月川を渡ったときに詠んだものとされる。
 
 
  大伴家持の歌碑  千里浜町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「之乎路から直越え来れば羽咋の海 朝なぎしたり船梶もがも」 万葉歌人・大伴家持が越中国守のころ、羽咋の海辺をゆきながら天平20年に詠んだものです。
 
 
  大伴家持の歌碑  [記念碑・像]   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  因幡万葉歴史館近くの集落の中に立つ。刻まれている「新しき…」の1首は万葉集の最後を飾る家持の歌。手前は、万葉集の研究家でもある佐佐木信綱の歌碑だ。
 
 
  二上山の大伴家持像 - 富山県   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  二上山の大伴家持像 - 富山県
 
 
  大伴家持:池主との交流と山柿の門   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大伴家持が越中国守として赴任したとき、越中国衙の官人たちの中に大伴池主の姿があった。池主の出自については確かなことはわかっていないが、北山茂夫は大伴氏の同族、それも大伴田主の子ではないかと推論している。もしそうだとすれば、田主は旅人の弟であるから、池主は家持にとっては従兄弟にあたる。
 
 
  大伴家持大賞   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  短歌部門・一般の部 / 短歌部門・児童生徒の部 / 絵たんか部門 /  講評
 
 
喜撰法師.743?
喜撰
  喜撰 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  1.平安時代の歌人。六歌仙の一。喜撰法師とも呼ぶ。 喜撰(生没年不詳、伝不詳)は平安時代初期の僧・歌人。六歌仙の一。宇治山に住んでいた僧であるという事以外は不明で、下に掲げる二首の歌以外はなんら今日に伝えるところがない。なお、紀貫之の変名という説もある。古今和歌集仮名序には、「ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評されている。
 
 
  喜撰法師 千人万首   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり  -  わかいほは みやこのたつみ しかそすむ よをうちやまと ひとはいふなり
 
 
  喜撰法師 (生没年不明)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安時代のはじめ頃の人といわれ、六歌仙のひとりですが、詳しい 経歴はわかっていません。出家して京都郊外の宇治に住んでいたと伝えられています。後に仙人となり、雲に乗って飛び去ったという伝説が残っています。
 
 
  喜撰 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  喜撰(きせん)平安時代の歌人。六歌仙の一。喜撰法師とも呼ぶ。本項で説明する。「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」という喜撰の歌から、茶(宇治茶)の銘柄名。また茶の隠語。『六歌仙容彩』の第三幕。 ---より)喜撰(生没年不詳、伝不詳)は平安時代初期の僧・歌人。六歌仙の一。
 
 
  喜撰法師とお茶の関係 - 教えて!goo   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  秋篠永忠(えいちゅう、ようちゅう)京出身の僧侶。 743年〜816年  宝亀4年 (770) 遣唐使と共に入唐し、仏法を学び延暦24年 (805) 空海、最澄と入れ替わり帰国。 梵釈寺の初代寺主となる。 のち大僧都。
 
 
  喜撰法師:隠されたメッセージ: 和歌を訪ねて   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  おすすめの和歌 : いはばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも   志貴皇子
 
 
  歌仙人形 百人一首 喜撰法師 きせんほうし    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生没年・伝未詳。六歌仙のひとり。作品として確かなのはこの一首のみで、その生年・没年・系譜などすべて不明。平安後期以来疑問の人物。
 
 
僧正遍照.816
僧正遍照
  遍昭 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  遍昭(へんじょう、遍照とも表記、弘仁7年(816年) - 寛平2年(890年2月12日))は、平安時代前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。桓武天皇の子・大納言良岑朝臣安世の八男。885年(仁和元年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。『古今集』以下の勅撰集和歌に約35首入集。家集に『遍照集』がある。円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、869年(貞観11年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。霊験あらたかな僧であった話が『今昔物語集』や『続本朝往生伝』に記されている。
 
 
  僧正遍照(そうじょうへんじょう)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  *平安初期の僧、歌人 *生没年:弘仁七〜寛平二(816-890)  *俗名:良岑宗貞  *号:花山僧正  *父:大納言・良岑安世 *子:素性法師 *六歌仙、三十六歌仙 *多選家集『遍照集』 *勅撰集入集歌は計36首
 
 
  僧正遍照 - 古今和歌集の部屋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  遍昭とも書かれる。僧になる前の名前が良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。真名序では 「華山僧正」と書かれている。 素性法師の父。
 
 
  六歌仙の1人 僧正遍昭(百人一首の僧侶たち2) - つらつら日暮らし   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  先日、とある方と六歌仙についての話になりまして(このような話が、今回の連載の発起に影響しています)、「そういえば、坊さんがいたよなぁ」という内容になったわけです。…
 
 
  僧正遍照 天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  www.manabu-oshieru.com/hyakunin/012.html
 
 
  遍昭 へんじょう 弘仁七〜寛平二(816-890) 俗名:良岑宗貞 号:花山僧正   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  桓武天皇の孫。大納言良岑朝臣安世の八男。素性法師は在俗時にもうけた息子。名は遍照とも書かれる。 承和十二年(845)、従五位下に叙せられ、左兵衛佐となる。蔵人・左近少将等を経て、嘉祥二年(849)、蔵人頭の要職に就く。翌三年正月、従五位上に叙されたが、同年三月二十一日、寵遇を受けた仁明天皇が崩御すると、装束司の任を果たさず出家した。
 
 
  僧正遍照 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  僧正遍照 画像 - Google
 
 
在原業平.825
在原業平
  在原業平 - Wikipedia   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  在原 業平(ありわらの なりひら、天長2年(825年) - 元慶4年5月28日(880年7月9日))は平安時代初期の歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり、また伊勢物語の主人公とみなされる。平城天皇皇子の阿保親王第五王子。母伊都内親王は桓武天皇の皇女で、業平は桓武天皇の孫にあたる。別称の在五中将は在原氏の五男で従五位上、右近衛権中将であったことからくる。
 
 
  在原業平同盟   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  遠い昔に生を享けた、ひとりの男、死してその生涯は伝説化され、今尚、人々を魅了してやまない。彼の名は、在原業平朝臣…… ここは、そんな在原業平を愛する人々の同盟です。
 
 
  在原業平邸址   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  在原業平(825〜80は,平安初期の代表的歌人で六歌仙の一人。父は平城天皇の皇子阿保親王,母は桓武天皇の皇女伊都内親王であったが,2歳の時,在原を名乗り臣籍に降った。『伊勢物語』の主人公に目され,その邸は左京四坊三町にあったと伝えられる。この石標は在原業平邸の跡を示すものである。
 
 
  在原業平 絵図   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  百人一首図絵 (田山敬儀 国文学研究資料館 タ2/208/1-3)/若鶴百人一首 (国文学研究資料館 ヤ5/196)
 
 
  在原業平のこと   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  このページでは、古今集中、店主最愛の歌人在原業平について、読みかじり聞きかじりの知識を総動員してご紹介いたします。彼の歌は古今集に30首採られており、六歌仙・三十六歌仙のひとりに数えられ、人となりは「体貌閑麗 放縦不拘 略無才学 善作倭歌」(三代実録)と評されました。『伊勢物語』の「昔、男」に擬せられて、そのエピソードは広く知られています。
 
 
  在原業平 住居跡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  御池通りホテルギンモンドの西側に立っている、小さな石碑 私の歴史上の好きな人物二大巨塔のうちの一人、在原業平様です。伊勢物語の主人公「むかし、男ありけり」のモデルだと言われています。と、いうのも新古今和歌集に載せられている在原業平様の歌とほぼ重なるからです。
 
 
  在原業平のページ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安時代の貴公子、在原業平の登場です。能ですと「小塩」「雲林院」「井筒」「杜若」「隅田川」、歌舞伎には「六歌仙容彩」、狂言にも「業平餅」・・・ 古典芸能にも数々の材料を提供してくれている人物ですし、融の大臣とも縁のあった人物のようです。
 
 
  在原業平伝説と宝珠寺   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  業平塚は,平安時代に六歌仙の一人に数えられ,『伊勢物語』の主人公となった在原業平を祀ったものとされる五輪の供養塔である。伝説によると,業平が東国に下るとき,この地にたどり着いた。このことを聞いた女官が,京から後を追ってきたので,業平はとっさに椎(しい)の木に登り身を隠した。しかし,根元にあった井戸の水鏡に映った業平の顔を見て,女官は我を忘れて井戸に飛び込み死んでしまった。これを憐れんだ業平はこの地にとどまる決心をした。業平の死後,彼らの霊を弔うために五輪の供養塔を建て,「業平さま」と呼んで大切にしたという。
 
 
  ふたつの在原業平の墓   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  京都の西郊・大原野の十輪寺(西京区大原野小塩町)へ、「塩竈清祭」を見に行きました。十輪寺は、平安時代の歌人で『伊勢物語』の主人公在原業平(825〜880)が晩年に隠棲したと伝えられる寺です。在原業平は、難波の海水を運ばせ、塩焼きの風流を楽しんだといわれ、寺の裏には塩竃の跡が残っています。中世以降、業平信仰が生まれ、業平は陰陽の神としてあがめられます。塩竈からあがる煙にあたることにより、良縁成就、心願成就、芸事上達に御利益があると信じられてきました。
 
 
  在原業平関係人名辞典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安のプレーボーイ・在原業平をとりまく人々。 絶世の美男子にして平安のプレーボーイ。六歌仙・三十六歌仙の一人で和歌の名手。父・母とも天皇の子でありながら、生まれて間もなく在原の姓を与えられ、臣籍に降下する。849年、従五位下。以後、右馬頭・右近衛権中将などを経て、879年、蔵人頭に至る。
 
 
  在原業平 - 平安大辞典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  918〜880年5月28日 絶世の美男子として、また伊勢物語の主人公(また作者とも)として有名。桓武天皇および平城天皇の孫。六歌仙・三十六歌仙の一人で和歌の名手。父・母とも天皇の子でありながら、生まれて間もなく在原の姓を与えられ、臣籍に降下する。
 
 
  業平(なりひら)の河内通い   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安時代のプレイボーイとして名高い「在原業平」(ありわらのなりひら)の恋物語は近畿の各地に残っている。この話は在原業平の河内通いで知られる十三街道にあった茶屋の娘との物語。この話は「井筒」という題名で能の演目として今に伝わる。
 
 
  Vol.5 「筆頭」だった在原業平   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌人としてだけでなく、希代の色男としても名を残す在原業平だが、相撲の強さもなかなかだったようだ。『大鏡』という平安時代の歴史書によると、「宇多天皇が王侍従だった頃、業平と相撲を取って勢いあまって椅子の肘かけを折ってしまった」とある。
 
 
  在原業平 ありわらのなりひら   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  (825〜880)平安時代前期の歌人。▽在五中将の名で知られ,六歌仙(6人のすぐれた歌人)の1人。皇族の出で,宮中に仕えて近衛(このえ)中将になったが,藤原氏とは相いれず,政治的には不遇であった。美男として知られ,多くの女性との恋愛を情熱的によんだ歌が『古今和歌集』にのせられている。◇『伊勢物語』は,業平を主人公にしたものといわれている。
 
 
  在原業平 高貴・美男子・歌人   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊勢物語の主人公は在原業平をモデルにした物語であると伝えられております。 「名にしおはヾいざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」
 
 
  古今和歌集の部屋 在原業平   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  在原行平の弟。 在原棟梁と 在原滋春の父。 真名序では「在原中将」と書かれている。相模権守の後に美濃権守になっているがその時期は不明。 父である阿保親王は平城天皇の第一皇子。
 
 
  女を見て和歌をよむ・・・在原業平   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今は昔。例年五月六日には、右近の馬場において騎射が行われていました。在原業平(ありわらのなりひら)という中将が自分の席に着座したときのことです。風が吹き、近くに止まっていた女人の牛車の下簾が吹き上げられたのです。在原業平は、その女の顔を見て心をひかれました。 そして早速、女のもとに使いをよこし、歌を届けたのです。・・・
 
 
  在原業平 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  在原 業平(ありわら の なりひら、天長2年(825年) - 元慶4年5月28日(880年7月9日))は平安時代初期の貴族。
 
 
  在原業平朝臣 825〜880 千人万首   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  17 ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは 【私解】神々の霊威で不可思議なことがいくらも起こった大昔にも、こんなことがあったとは聞いていない。龍田川の水を美しい紅色に括(くく)り染めするとは。
 
 
  奈良の昔話 ―不退寺と在原業平―   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  佐保路(一条通り)に奈良市立一条高校がある。この運動場の拡張工事の折、柱跡や溝状の遺構が発見され、緑釉の瓦などが出土したというのも、この辺り一帯に貴族の邸宅が建ち並んでいたことを物語っている。日本最初の公開図書館とされる芸亭(うんてい)も、この辺りにあったのではないかと推定される。
 
 
  京の歴史マップ/在原業平の足跡を訪ねて    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大原や 小塩の山も けふこそは 神世のことも 思出づらめ 在原業平が、かつての恋人・藤原高子(二条の后)の大原野神社行幸に供奉した際に詠んだ歌である。表面上后の行幸を祝賀する歌のように聞こえるが、その裏には高子に対する深い思慕の念が込められているように感じる。
 
 
  三十六歌仙・天井画(久城寺) 在原業平 絵図   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし (古今 53)
 
 
  伊勢物語を語る〜 「在原業平」とは何か(前編)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「伊勢物語」の主人公には、さまざまな立場の「おとこ」が登場するものの、多くのの段において推定し得る主人公が、この「在原業平」です。明らかに業平の物語ではない段も「伊勢物語」には存在しますが、大概は実名が推定不可能な「おとこ」として記述されています。記述者によるこの意図が、業平像を主人公に仮託していると推定することは間違いありません。
 
 
  伊勢物語を語る〜 「在原業平」とは何か(中編)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「在原業平による「事件」の一つに着目することによって、私たちは「伊勢物語」の語りの深さを享受することができました。さらにもう一つの「事件」に着目することによって、さらなる語りの深層を期待することは、決して不当ではないはずです。
 
 
  伊勢物語を語る〜 「在原業平」とは何か(後編)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  どうやら私たちは、「在原業平」という人物の語りについて注目することで、「伊勢物語」における深層を見出すことができたようです。 高子との「事件」では、業平と高子と基経の関係をめぐる語りに、伝統的な「異人」の物語の構造を顕わにすることができました。また、恬子内親王の「事件」では、「在原業平」という神話的な主人公を登場させることで、王権に危機をもたらす逸脱した恋愛が、むしろ王権を強化する物語になるという逆説を読み取ることができました。
 
 
  在原業平 (ありわらのなりひら) 天長二〜元慶四(825-880)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった
 
 
  在原業平 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  在原業平 画像 - Google
 
 
小野小町.825?
小野小町
  小野小町 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。 小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。 だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。 系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子で出羽郡司・小野良真の娘とされ、生没年は825年〜900年となっている。
 
 
  小野小町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  神秘のとばりに包まれた伝説の美女  平安の歌人小野小町は、出羽の国福富の荘桐木田(小野字桐木田)の地に生まれました。 たいそう美しい娘で13歳にして都へのぼり都の風習や教養を身につけ、その後20年程宮中に仕えたといいます。 容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶものがないといわれ、数々の逸話や伝説を残し、晩年は、世を避け、香を焚きながら自像を刻み92歳で世を去りました。
 
 
  小野小町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小野小町、生誕と終焉の伝説の地秋田県湯沢市雄勝町を訪ねて : 小町伝説概要: 秋田県湯沢市雄勝町は小野小町の生誕と終焉地とされています。周辺には沢山の小野小町の伝承、伝説の史跡が密集していま。
 
 
  小野小町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小野小町というのは本名ではなく、「小野家の美女」という意味のニックネームです。彼女を知る資料は古今集の歌だけですので、どの女性なのかと、昔から色々推察されています。こうして、小野家の関係がある土地や、小野という地名を持った地では、女が生まれたり死んだりした伝説があると、みんな小野小町になってしまったのです。そうした伝説をいくつか紹介しましょう。
 
 
  Area 小野小町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  六歌仙(在原業平・僧正遍昭・大友黒主・小野小町・喜撰法師・文屋康秀)の一人  花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに
 
 
  あきた小野小町伝説   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  −秋田県湯沢市小野に伝わる小野小町伝説の紹介−  当サイトは、秋田県湯沢市小野地区に伝わる小町生誕の地伝説を紹介する個人サイトです。
 
 
  小野小町 (おののこまち)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安時代初期の歌人。 820年代後半の生まれか。 六歌仙、三十六歌仙の一人。 父は、小野篁という説と小野良真(小野篁の息子)であるという説がある。 小町の活動時期はほぼ仁明朝(833年〜850年)と推定され、仁明天皇の更衣・小野吉子と同一人物とする説もある。
 
 
  小野小町の足跡を訪ねて   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  花の色は移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に  絶世の美女と謳われ、六歌仙の一人として艶麗な歌を残した小野小町。深草の少将をはじめ多くの貴公子達からの求愛にもなびかず、宮仕えを辞した後は全国各地を渡り歩き、衰えた美を嘆きつつ亡くなったという・・・。
 
 
  小野小町 画像検索 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小野小町 画像検索 - Google
 
 
  日本各地 小野小町ゆかりの地   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  全国28都道府県余りにに及ぶ「小野小町ゆかりの地」は日本中の誰もが、「小町」を記憶の一端に留め、語り継がれた「小町」を大切にし、 「小町」を世界の美女と認め、折りに触れて、平安時代の世界へ誘われるゆえんでしょう。
 
 
  小野小町ゆかりの門跡寺院  隨心院   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  一千有余年の時を経て 人々を魅了し続ける 謎の美女 小野小町  小野小町ゆかりの地 大本山隨心院 執事長 亀谷英央師の文章と京都を代表する写真家の一人 北奥耕一郎氏の幻想的な写真で謎に包まれた小野小町の生涯を ここに解き明かします
 
 
  小野小町  おののこまち 生没年不詳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  出自不詳。『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあり、『小野氏系図』には篁の孫で、出羽郡司良真の娘とある。ほかに出羽守小野滝雄の子とする説などもある。 経歴等も明らかでないが、仁明朝(833〜850)・文徳朝(850〜858)頃、後宮に仕えていたことは確からしい。
 
 
  小説 小野小町伝説 (単行本)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  直木賞作家の新王朝絵巻。歴史上謎の多い小野小町の生涯を、残された歌を元に大胆に再構築。歌人としての真実に迫る。
 
 
紀友則.845
紀友則.
  紀友則 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀 友則(き の とものり、承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))は、平安時代の歌人。父は宮内権少輔・紀有友(有朋)で、子に清正、房則がいる。紀貫之の従兄弟にあたる。三十六歌仙の一人。紀貫之・壬生忠岑とともに『古今和歌集』の撰者となったが、完成を見ずに没した。『古今和歌集』巻16に友則の死を悼む紀貫之・壬生忠岑の歌が収められている。『古今和歌集』の47首を始め、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計70首入集している。家集に『友則集』がある。
 
 
  紀友則の短歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべには遣る  /  きみならで誰にか見せん梅の花色をも香をも知る人ぞ知る  /  色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける  /  み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける  /  久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
 
 
  よもつ文 : 紀友則の歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上田秋成の「菊花の約」というのがあり、約束を果たす為に自らの命を断ち、魂を飛ばして友に会いに行く物語なのだが、命を断ってまでの出会いは一瞬だ。… ただし紀友則の歌は、命を断つというものではなく、命をかけて愛する女性に逢いに行くというもの。
 
 
  紀友則 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀 友則(き の とものり、承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))は、平安時代の歌人。三十六歌仙の一人。父は宮内権少輔紀有友(有朋)で、紀貫之の従兄弟にあたる。六位・大内記。子に清正、房則がいる。
 
 
  紀友則 きのとものり 生没年未詳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宮内少輔紀有朋の子。貫之の従兄。子に淡路守清正・房則がいる(尊卑分脈)。 系図 四十代半ばまで無官のまま過ごし(後撰集)、寛平九年(897)、ようやく土佐掾の官職を得る。翌年、少内記となり、延喜四年(904)には大内記に任官した。
 
 
  紀友則 : 久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  【私解】日の光がやわらかにふりそそぐ今日――風もなく穏やかなこの春の日にあって、落ち着いた心なしに、どうして桜の花が散ってゆくのだろう。
 
 
  紀友則(きのとものり)|百人一首033番 百人一首ガイド(音声付き   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小倉百人一首を挿絵と音声とともに紹介しています
 
 
  久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ   紀友則   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  この和歌は、貫之と共に「古今集」の選者に選ばれた祝賀の宴のときに詠まれたと伝えられています。 自然の風情と営み、そして心の機微がとてもよく伝わってくる和歌です。   現代意訳 : こんなにも日の光が降りそそいでいるのどかな春の日であるのに、どうして落着いた心もなく、花は散っていくのだろうか。
 
 
  紀友則 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀友則 画像 - Google
 
 
大伴黒主
大伴黒主
  大友黒主 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大友 黒主(おおとも の くろぬし、生没年不詳)は平安時代の歌人・官人。姓は村主。六歌仙の一人。『古今和歌集目録』に「大伴黒主村主」、また『天台座主記』第一巻安慧和尚譜に「(滋賀郡)大領従八位上大友村主黒主」とあることから、出自は大友村主とされる。 鴨長明『無名抄』に没後近江国志賀郡に祭られたとの記事がある。 大友村主氏は諸蕃(渡来人の子孫)で、『続日本後紀』では「後漢献帝苗裔也」とある。『後撰和歌集』『拾遺和歌集』等の勅撰和歌集に11首の和歌が収録されている。
 
 
  草紙洗(そうしあらい)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宮中の歌合で小野小町の相手と決まった大伴黒主は、前日小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きする。
 
 
  小野小町と大友黒主伝説地・草紙洗い   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  京都市上京区東堀川通一条東入ル(一条戻橋のすぐ東)に「小野小町雙紙洗水遺跡・小野通」と書かれた石碑がありました。 小松帯刀の寓居跡を探していたときに道を隔てて向かい側にあったのがこの大変小さな石碑です。 昔、小野小町が草紙洗いに使ったという伝説にまつわる井戸があり、小町伝説地なのです。
 
 
  大伴黒主 おおとものくろぬし 生没年未詳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伝不詳。姓は大友とも。『本朝皇胤紹運録』によれば大友皇子の裔で、大友姓を賜った与多王の孫。都堵牟麿の子。 歌からは近江国や同国志賀と縁が深かったことが窺われる。鴨長明『無名抄』によれば、黒主は神になり、近江国志賀郡に明神として祀られたという。
 
 
  関兵衛(せきべえ)  実は 大伴黒主(おおとものくろぬし)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  映像のように関兵衛は、自ら本性を明かすと同時に、肩のあたりで止められている糸を引き抜き、上半身の衣裳を前に垂らして、瞬間的に衣裳を変えます。
 
 
  春雨のふるは涙かさくら花 散るを惜しまぬ人しなければ  大伴黒主   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  六歌仙の中で、小倉百人一首の撰からはずれたただ一人が、この大伴黒主である。伝不詳といわざるをえない。大友黒主と書く説もある。
 
 
  大伴黒主 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大友 黒主(おおとも の くろぬし、生没年不詳)は平安時代の歌人。六歌仙の一人。従八位上・滋賀郡大領。
 
 
  大伴黒主 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
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紀貫之.866
紀貫之
  紀 貫之 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀 貫之(きの つらゆき、貞観8年(866年)、または貞観14年(872年)頃? - 天慶9年(945年))は、平安時代前期の歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。紀友則は従兄弟にあたる。男性。905年、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した。古今和歌集の序文には漢文による「真名序」と平仮名による「仮名序」の二つがあるが、仮名序を書いたのも紀貫之である。また、『小倉百人一首』にも和歌が収録されている(人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける)。
 
 
  土佐日記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  あの紀貫之さん大湊の船上で呑んで喰って暮れから七日正月まで過ごした。ホントに風待ちだったのでしょうか? 毎日はなむけ!! 神饌の神様のまします湊ですから、お酒もきっと美味しかったのでしょう。
 
 
  紀貫之 <書籍>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  我が国最初の仮名文日記『土佐日記』の作者、また、『古今和歌集』の編者で、その代表的歌人、紀貫之。国風文化を隆盛に導いた平安期文人は、いかなる生涯を送り、日本文学史にどんな刻印を残したのだろうか。余情妖艶な風趣、花鳥風詠の和歌、彫琢された日本語。日記文学研究の第一人者が、先学の論考と著作を踏まえ、独自の視点から日本人の美意識誕生の秘密を解き明かす。
 
 
  紀貫之の歌碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「土佐日記」の作者で有名な紀貫之が、土佐の国司の任期が終わり京都に帰る途中、この土佐泊に寄港しました。その時詠んだ歌  「としころを住みし所のなにしおえはきよる浪をもあわれとぞ見る」  の歌碑があり、市の文化財に指定されています。
 
 
  古文-土佐日記1   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  土佐国府の碑/土佐国司館跡/船戸 紀貫之舟出の地/桂浜/大湊(前の浜)/奈半の泊(奈半利)/室津/室戸岬
 
 
  紀貫之 千人万首   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  望行(もちゆき)の子。母は内教房の伎女か(目崎徳衛説)。童名は阿古久曽(あこくそ)と伝わる(紀氏系図)。子に後撰集の撰者時文がいる。友則は従兄。幼くして父を失う。若くして歌才をあらわし、寛平四年(892)以前の「寛平后宮歌合」、「是貞親王家歌合」に歌を採られる(いずれも机上の撰歌合であろうとするのが有力説)。昌泰元年(898)、「亭子院女郎花合」に出詠。 
 
 
  土佐日記 紀貫之   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
 
 
  「土佐日記」Part 2   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「紀貫之の遺跡 廖屬墓」 愛媛県の城川町で発見!! 「紀貫之のお墓がありました」と、メールが飛び込んできました。しかも町指定文化財の説明文まで付いているんです。愛媛県城川町の久保田さんからのメールです。
 
 
  紀貫之と土佐日記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  我が国最初の日記文学「土佐日記」。紀貫之(872〜945?)が国司の任を終えて京の都に帰るまでの旅程を、女性の筆に託し、仮名文字で書いたものです。華やかな平安日記文学が花開くさきがけとなった、古典文学史上たいへん重要な意義をもつ作品です。
 
 
  『土佐日記』 紀貫之   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅で、ちょうど55日にわたる。貫之はこの55日間の出来事を(たった一行の記録という日も少なくないものの)、とりあえずは1日ずつすべてを記録にのこした。それが『土佐日記』である。
 
 
  古今和歌集の部屋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生年は872年(貞観 十四)か。没年についても 「古今和歌集目録」では、946年(天慶 九)とされている。ただ、872年生れとすると土佐守赴任が五十九歳、従五位上を賜ったのが七十二歳ということになるので、高齢すぎるような気がするが、安倍清行のような例もあるので何とも言えない。
 
 
  紀貫之 きのつらゆき   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安中期の歌人・文学者 醍醐天皇から「古今和歌集」の選定を命じられて従兄(いとこ)の紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)とともに編集に従事するが、筆頭選者の友則が病死したため、最年少の貫之が選定の中心となり、有名な仮名序を執筆した。
 
 
  紀貫之 きのつらゆき   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  (?〜946)平安時代中期の歌人。▽三十六歌仙*の1人。905年に醍醐(だいご)天皇の命を受け,撰者の筆頭として,『古今和歌集』を編さんした。貫之の歌は101首おさめられており,優美で理知的なうたいぶりは,古今調を代表する。また,仮名で書いた『古今和歌集』の序文は,わが国最初の歌論として有名。
 
 
  紀貫之 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀 貫之(き の つらゆき)は、歌人・随筆家。
 
 
  紀貫之(きのつらゆき)(Kino Tsurayuki)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代初期の官人・歌人・随筆家で、「古今和歌集」の撰者、「土佐日記」の著者
 
 
  兵庫文学館 兵庫県ゆかりの作家 紀貫之   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀望行の子。後撰集撰者の時文の父。土佐守を勤めたのは有名で、従五位上木工権頭に至る。古今集撰者の一人で同仮名序の作者でもある。『新撰和歌』の編者、『土佐日記』の作者で、家集『貫之集』がある。『是貞親王家歌合』『寛平御時后宮歌合』、『亭子院女郎花合』、『亭子院歌合』などに参加し、多くの賀歌や屏風歌を詠んだ。古今集以下の勅撰集に、約四五〇首ほど入集する。
 
 
  群馬県立土屋文明記念文学館 -文学館通信-   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀貫之 年ごとにもみぢ葉ながす龍田川(たつたがは)みなとや秋のとまりなるらん 『古今和歌集』  生没年872年頃〜945年頃。平安時代前期の歌人・随筆家。三十六歌仙の一人。紀友則とは従兄弟どおしとなります。
 
 
  きのつらゆき【紀貫之】 学習百科辞典 キッズネット   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  (?&#12316;945?)平安時代中期の歌人。三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の1人。905年に醍醐天皇(だいごてんのう)の命を受け,撰者(せんじゃ)の筆頭として,『古今和歌集(こきんわかしゅう)』を編(へん)さんした。貫之(つらゆき)の歌は101首おさめられており,優美(ゆうび)で理知的(りちてき)なうたいぶりは,古今調を代表する。また,仮名(かな)で書いた『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の序文(じょぶん)は,わが国最初(さいしょ)の歌論(かろん)として有名。
 
 
  紀貫之 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紀貫之 画像 - Google
 
 
文屋康秀.885?
文屋康秀
  文屋康秀 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  文屋 康秀(ふんや の やすひで、生年不詳 - 仁和元年(885年)?)は、平安時代前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。『古今和歌集』仮名序では、「詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし」と評される。『古今和歌集』に5首、『後撰和歌集』に1首入集するが、「古今集」の2首は子の朝康の作ともいわれる。小野小町と親密だったとされ、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったと言われている。小町の答えは「誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」と好意的であったという。
 
 
  文屋康秀(ふんやのやすひで)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  www.100karuta.com/030karuta3/022.html
 
 
  小倉百人一首 022  文屋康秀   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ   文屋康秀(ぶんやのやすひで/生没年不明)は平安時代初期の人で、貞観二年(860年)刑部中判事、陽成天皇の時の元慶元年(877年)山城大掾、同三年縫殿の肋に任ぜられた事などが伝えられていますが、詳しいことは分かっていません。 しかし、歌人としては有名で、在原業平や小野小町たちとともに六歌仙に数えられています。
 
 
  文屋康秀 - 古今和歌集の部屋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  8番と 445番の詞書から、二条の后・藤原高子が 「東宮の御息所」であった 869年(貞観 十一)から876年(貞観 十八)の間に五十歳前後とすると、生れは 820年代か。没年に関しては不明。
 
 
  YouTube - 百人一首22 文屋康秀   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  YouTube - 百人一首22 文屋康秀
 
 
  文屋康秀 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  文屋 康秀(ふんや の やすひで、生年不詳 - 仁和元年(885年)?)は、平安時代前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。縫殿助・文屋宗于または大舎人頭・文屋真文の子。子に文屋朝康がいる。正六位上・縫殿助。
 
 
  文屋康秀 ふんやのやすひで 生没年未詳 号:文琳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  縫殿助宗于の息子。子の朝康も著名歌人。古今集真名序では「文琳」と称される。 西暦九世紀後半、官人としての事蹟がみられる。『中古三十六歌仙伝』によれば、貞観二年(860)、中判事。元慶元年(877)、山城大掾。元慶三年(879)、縫殿助。仁寿元年(851)、仁明天皇の一周忌に歌を詠む(古今集)。
 
 
  吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ   文屋康秀   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  【私解】吹いたはしから秋の草木が萎れてしまうので、なるほど山から吹き下ろす風を「あらし」と言うのだろう。
 
 
  文屋康秀 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  文屋康秀 の画像 - Google
 
 
紫式部
紫式部
  紫式部 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は平安時代中期の女性作家、歌人である。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙の1人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。 紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は平安時代中期の女性作家、歌人である。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙の1人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
 
 
  源氏物語.1008   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  →「01文学全般」/源氏物語.1008
 
 
  源氏物語の和歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  源氏物語には約800首の和歌が出てきます。そして世の高校生を苦しめます。 和歌を見るのも好きな私は苦しみませんでしたが、それでも源氏の和歌は難しかった。 紫式部は和歌を詠む人物に合わせて、巧拙や表現法を変えるというテクニシャンなことをなさいまして、それはとってもスゴいのです。
 
 
  紫式部 和歌を訪ねて   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  源氏物語や古典和歌をわかりやすく紹介してます。
 
 
  紫式部と武生(たけふ)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『源氏物語』の作者として有名な紫式部が、都を離れて越前の国に向かったのは、長徳2年(996年)の夏であったとされています。官途から遠ざかっていた父の藤原為時が、春の除目で帝に文を奉り、やっと大国である越前の国守に任じられ、式部はその父とともに国府があった現在の福井県武生市にやってきたのです。
 
 
  紫式部さまはお慶びです   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紫式部は『源氏物語』を書いた平安時代の女流作家として高名ですが、実は歌人の才能も豊かでした。 藤原為時の娘として生まれました。その家は代々すぐれた歌人や学者を出している家系でありました。 紫式部も幼いときから学問を好み、和歌・音楽・仏典などの教養を身につけ、22歳のころ藤原宣孝(のぶたか)の妻となり1女をもうけましたが、間もなく宣孝が急死。 夫を失った悲しみを乗り越えて、紫式部が『源氏物語』を書きはじめたのは、このころと伝わっています。
 
 
  紫式部 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紫式部(むらさきしきぶ、生没年不明)は、平安時代中期の女性作家、歌人。源氏物語の作者と考えられている。中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
 
 
  紫式部・和歌 −『紫式部集』&補遺−   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紫式部の残した歌(『紫式部集』とその補遺)を自分なりに解釈したものです。
 
 
  紫式部思想 : 和歌は何故一人称詩か   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  源氏物語などに何故主語がないか。 それはイマジネーションの世界だから。 西欧は真理の世界を求めた。・・・
 
 
  日本史の中の女性(10) 紫式部と清少納言   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  称徳天皇の後、皇位は再び天智天皇の血筋に戻り、桓武天皇は都を平安京に移して平安時代が始まります。藤原家にも優秀な人材が続出、中でも道長・頼通親子の時代には安定した権力構造ができていました。 その中で宮中には何人もの優秀な女性の作家や歌人が出現、中でも評価の高いのが清少納言と紫式部でした。
 
 
  紫式部ゆかりの花の寺 石山寺   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「平安時代寛弘元年(1004)紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていた。村上天皇皇女選子内親王がまだ読んだことがない珍しい物語を一条院の后上東門院に所望したが、手許に持合わせのなかった上東門院が女房の紫式部に命じて新作の物語を書かせようとしたので式部は祈念のため籠ったのである。
 
 
  源氏物語ゆかりの地をめぐる - 松浦なる鏡の神 鏡神社   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紫式部の歌集『紫式部集』には、筑紫の肥前へ下った女友達との贈答歌が数首、掲載されています。 紫式部は父が越前守(えちぜんのかみ)になったことにともない、短い間ではありますが京から離れて越前国(えちぜんのくに=現在の福井県北部)で過ごしたことがあります。
 
 
  紫式部の代表的な和歌「めぐりあへてみしやそれともわじかぬまにくもがくれにしよはのつきかな」ってどういういみなんですか?   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」は、 新古今集 に収められた歌で、百人一首でも有名ですね。
 
 
  紫式部集新注  新注和歌文学叢書 <歌集>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安朝から鎌倉期までの特色ある作品群をとり上げ古典和歌の心を現代に伝えるシリーズ。平安中期の一私家集「紫式部集」を取り上げ、的確な注釈とともに、源氏物語作者の魂の軌跡をたどる。
 
 
  賀茂保憲女集・赤染衛門集・清少納言集・紫式部集・藤三位集 (和歌文学大系) (単行本)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本巻には平安中期の五人の女歌人の家集、すなわち賀茂保憲女の『賀茂保憲女集』、赤染衛門の『赤染衛門集』、清少納言の『清少納言集』、紫式部の『紫式部集』、大弐三位の『藤三位集』の五集を、この順に収載した。
 
 
  →源氏物語.1008    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「01古典文学」/源氏物語.1008
 
 
中務
  中務 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  中務(なかつかさ、912年(延喜12年)頃 - 991年(正暦2年)頃)は、平安時代中期の女流歌人。三十六歌仙のひとり。父は、宇多天皇の皇子敦慶親王で、親王が中務卿であったことから、この名がついている。母は、女流歌人の伊勢。中務は、「後撰和歌集」「信明集」「元輔集」「源順集」などの歌集に作品が載っている。多くの公達と関係があり、特に源信明との関係は深かった。他に元良親王、常明親王との恋や、関白藤原実頼、藤原師氏、藤原師尹との関係が知られる。家集に「中務集」がある。
 
 
  中務 なかつかさ 延喜十二頃〜正暦二頃(912?-991?)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  敦慶(あつよし)親王(宇多天皇の皇子)と伊勢の間の子。「中務」の名は、父が中務卿であったことに因る。 藤原実頼・同師輔・元長親王(陽成院の皇子で元良親王の弟)・常明親王(醍醐天皇の皇子)ほかとの恋を経て、源信明(さねあきら)と結婚か。
 
 
伊勢.989?
伊勢大輔
  伊勢大輔 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊勢大輔(いせのたいふ/いせのおおすけ、永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃?))は、平安時代中期の女流歌人。父は大中臣輔親。… 中古三十六歌仙の一人。1008年(寛弘5年)頃に一条天皇の中宮上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部・紫式部などと親交し、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった。 1049年(永承4年)の内裏歌合、1056年(天喜4年)の皇后宮寛子春秋歌合に出詠している。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約50集が入集。家集に『伊勢大輔集』がある。
 
 
  61 伊勢大輔   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
 
 
  伊勢姫 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊勢姫(いせひめ、生没年不詳)は、戦国時代の女性。上野国平井城主千葉采女の娘。
 
 
  伊勢大輔  画像検索 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊勢大輔  画像検索 - Google
 
 
  小倉百人一首 六十一番 伊勢大輔   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「一条院の御時、奈良の八重桜を人の奉りてはべりけるを、その折、御前にはべりければ、その花をたまひて、歌詠めと仰せられければ、詠める(詞花集詞書)」
 
 
  伊勢大輔 いせのたいふ 生没年未詳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  神祇伯正三位大中臣輔親の娘。能宣は祖父、頼基は曾祖父にあたり、大中臣家重代歌人の系譜に連なる。子の康資王母(やすすけおうのはは)・筑前乳母・源兼俊母も勅撰集歌人。 寛弘四年(1007)または翌年頃から上東門院彰子に仕える。新参の頃、「いにしへの奈良の都の八重桜…」の歌を奉って人々の賞讃を得た(『伊勢大輔集』『三十六人伝』『袋草紙』など)。その後、高階成順(たかしなのなりのぶ)と結婚。
 
 
  伊勢大輔   いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重に匂いぬるかな   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奈良から僧都が、八重桜を奉った時に、紫式部が今年の新参者が受取役だと言って、新人に受取役をさせた。この受取役が伊勢大輔であった。
 
 
  伊勢/宮内卿/左衞門督通光/紫式部/寂然法師/前中納言匡房   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊勢 : いせ平安前期の女流歌人。伊勢守藤原継蔭の娘。三十六歌仙の一人。宇多天皇の寵愛を受け、伊勢の御と呼ばれた。 宮内卿/左衞門督通光/紫式部/寂然法師/前中納言匡房
 
 
西行法師.1118
西行法師
  西行 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西行(さいぎょう、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。… 勅撰集では『詞花集』に初出(一首)。『千載集』に十八首、『新古今集』に九十四首(入撰数第一位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。
 
 
  西行法師小伝   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本稿では伝説的歌人である西行法師について扱う。ただし、西行法師は歴史上、文学史上の有名人であり、関連文献や研究書もたくさんある。そこで概略についてはこれら既往の文献、研究書その他に譲り、ここでは桜との関わりなど、伝説や民俗学的な分野を主に取り上げることとする。
 
 
  西行法師旧跡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西行(1118〜90)は,俗名佐藤義清。徳大寺家に仕え,鳥羽上皇(1103〜56)の北面の武士となり,出家して鞍馬に住み,ついで東山山麓や嵯峨に草庵を結んだ。この地もその隠遁地の一つである。
 
 
  西行法師の歌碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』   ここ弘川寺境内には、西行法師の歌碑のほか、西行を詠んだ歌碑や句碑が沢山建てられている。 西行法師は1118年(元永元年)田仲の庄(現和歌山県那賀郡打田町)で武家の家に生まれ、佐藤義清(のりきよ)という。
 
 
  西行法師 - 河南町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ”願はくは花の下にて春死なむ”  と自ら詠んだ歌のとおり、河内国南葛城(現在の河南町)弘川寺で入滅した。  文治六年(1190)春、桜が咲く二月十六日
 
 
  西行法師 - 熊野の歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西行法師(1118〜1190)。俗名佐藤義清(のりきよ)。1118年、現在の和歌山県那賀郡打田町に生まれます。平将門の乱を平定した鎮守府将軍・俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、義清は俵藤太秀郷の九代の裔にあたります。同じく秀郷の流れをくむ奥州藤原氏とは遠縁になります。
 
 
  西行法師と戸隠の子供   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  この戸隠に修行に、あるいは参拝に訪れた人の中に、親鸞聖人や、西行法師がいます。親鸞聖人の発見したという念仏池からは、今でもぶつぶつと念仏を唱えるように音をたてて、奇麗な水が湧き出しています。聖人がお使いになったと言われる、「アカザの杖」も、伝えられています。
 
 
  西行 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西行(さいぎょう、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
 
 
  西行法師 一覧 百人一首図絵   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  百人一首図絵 (田山敬儀 国文学研究資料館)/若鶴百人一首 (国文学研究資料館)
 
 
  第5回 鼓が滝と西行法師 - 川西市   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「鼓が滝」にまつわる、こんな民話があります。 八百年余り前、西行法師が和歌の道を志して間もなくのころ、山を越え、猪名川のほとりに着きました。見事な滝をながめていると一首の歌が頭に浮かびました。 『はるばると鼓が滝にきてみれば岸辺に咲くや白百合の花』
 
 
  【 あの人の人生を知ろう 〜 西行法師 】   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本名佐藤義清(のりきよ)。生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。『新古今和歌集』には最多の94首が入選している。宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
 
 
  平安の歌人−西行法師 さいぎょうほうし    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  東西を結ぶ東海道にある小夜の中山は、『古今和歌集』『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』『後撰和歌集』など20余りの歌に出てくる歌枕であり、峠付近には数々の歌碑、句碑が残されています。
 
 
  西行 (1118年-文治6年(1190年)2月16日)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平安末・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清(のりきよ)。法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の武士。23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録。家集「山家(さんか)集」。
 
 
  西行 さいぎょう 元永元〜建久元 (1118〜1190)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。
 
 
  嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なる我が涙かな  西行法師   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  作者は俗名佐藤義清。北面の武士だった彼は23歳の時に妻子を捨てて突如出家する。衣にすがる4歳になる子を縁から蹴落として出奔したという伝承さえも残る。出家の理由は、いろいろと憶測されているが、様々に語られている諸説も実のところは憶測の域をでていない。 以来50年、歌と旅の人生を過ごす。
 
 
  西行法師 北行抄 (文庫)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西行はなぜ出家したのか。奥州衣川への度重なる旅に秘められた思いとは――。老いた西行が愛弟子に胸奥の真実を語る異色の力作小説。
 
 
寂連法師.1139
寂連法師(じゃくれんほうし)
  寂連法師   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  村雨の露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ
 
 
  百人一首「寂連法師」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  父は藤原俊海、幼名を定長といった。 十二歳の時伯父藤原俊成の養子となったが、十年後俊成に実子定家が生まれそれを機会に俊成の元を離れ、二十三歳で出家寂連と名乗った。西行・定家と共に、所謂「三夕(さんせき)の歌」の歌人として有名である…
 
 
  寂蓮法師 - 僕の感性   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  パラパラッと降って過ぎていく雨・・・暗緑色の槙の葉に、村雨がおいていった露、そして木の肌を濡らす霧、水墨画のような墨色の濃淡が滲んだり、ぼやけたり霧は絶え間なく流れていく・・・ 秋から冬へと移り変わる心に沁みる歌ですね。この寂連法師の歌は当時から評判の高い歌で、今も百一首中、一番という人もいるようです。
 
 
  右4 寂 連法師(?〜1202)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  暮れて行く 春の湊は 知らねども 霞に落つる 宇治の柴舟
 
 
  平平点描 (百人一首随筆集)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  百人一首の中では、二八番歌「山里は」(源宗于)と四七番歌「八重葎」(恵慶法師)で「山里の寂しさ」や「宿の寂しさ」を詠んでいます。特に四七番歌とは「宿」「さびし」「秋」と三語も共通語を有していることになります。  この二首の「混合歌」としては、次の通りでしょうか。
 
 
  敷島随想 (百人一首歌人旅)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  寂蓮法師の父は、醍醐寺の阿闍梨俊海で、藤原俊成の兄弟になります。したがって彼は12,3歳の頃、俊成の養子となりました。 7年ほどしてから、俊成の実子定家が歌道の和歌を継げると見て、養子を辞して出家し、嵯峨に住み、西行法師、寂然法師などとも歌の上で交流したとされています。
 
 
  仮名 『さびしさは・・・』寂連法師   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  寂連法師の歌 : 『さびしさは そのいろとしも なかりけり まきたつやまの 秋の夕暮れ』  見渡す光景は一様にさびしく、どの様子がとくにそうだというでもない。 槇の立っている山の、この秋の夕暮れよ。 この歌は、まだ暑い今の季節の情景ではないが、彼岸を過ぎれば、すっきりした空も・空気も味わえるだろう。
 
 
  寂連法師(じゃくれんほうし) - 百人一首ガイド   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ  藤原俊海の子で、名前が藤原定長です。 父の兄にあたる人に養子に入りましたが、養父に実子が生まれたため、23歳で出家しました。 六百番歌合で、六条家の藤原顕昭と論争し、対立した逸話は有名です。 「古今和歌集」の選者の一人ですが、完成を待たずに亡くなりました。
 
 
  歌仙人形 百人一首 寂連法師 じゃくれんほうし   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  保延五年(一一三九)頃〜建仁二年(一二〇二)。叔父の藤原俊成の養子となったが、俊成に定家が生まれたあと出家。新古今集の撰者のひとりであったが、撰歌途中で没した。
 
 
  寂蓮 じゃくれん 生年未詳〜建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。 官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。
 
 
式子内親王.1149
式子内親王
  式子内親王 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第3皇女、母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。賀茂斎院として萱斎院・大炊御門斎院などと号された。法号承如法。歌人として新三十六歌仙の1人に数えられている。
 
 
  源平の黄昏 ー式子内親王ー   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  式子内親王、『しきし』とも『しょくし』とも読まれるようですが、『のりこ』が正式な読み方のようです。生年は1153年頃で、父は後白河天皇、母は藤原季成の娘の成子です。高倉三位とも呼ばれていました。彼女の同母弟に以仁王がいます。また異母兄弟としては二条天皇、高倉天皇らがいます。当時の内親王の御多分に漏れず生涯を独身で過ごしました。
 
 
  Princess Shikishi  式子内親王   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  式子内親王ってご存じでしょうか。百人一首で割と有名ですからご存じの方も結構多いでしょう。雅灯庵は彼女が大好きです。NHKあたりがお金かけて(衣装代に経費がかかるでしょうね)ドラマにしてくれないかなーって思っているのですが。
 
 
  式子内親王 (1149−1201):浄土宗   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  承(聖・正とも)如房(承如法の宛字)。加茂斎右大炊御門斎院(おおいみかどさいいん)とも称す。また「式子」は“しきし”“しきこ”と読むことも。 また「しやう如ばう」とも書かれている。母は高倉成子、内親王は賀茂の斎院になり、大炊御門(おおいのみかど)の斎院といった。 後白河天皇の第3皇女式子内親王のことで、正女房36歌仙の1人。
 
 
  式子内親王 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、平安時代末期の皇族。
 
 
  後白河院の娘(2)式子内親王(6)式子の出家と法然   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  石丸晶子著「式子内親王伝〜面影びとは法然」によると、浄土宗の開祖法然は北条政子、九条兼実の正室、熊谷直実への返書など幾つかの消息文を残しているが、その中の言葉使いから見て高貴な女性に対するものであろうと推測される「正如房」宛の返書が一体誰に書かれたものか長い間不明であった…
 
 
  式子内親王 しょくしないしんのう 久安五〜建仁一 (1149〜1201)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。 後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。生涯独身を通した。… 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。
 
 
  伝・式子内親王墓   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  玉の緒よ 絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする   百人一首で知られるこの歌は、後白河天皇の第3皇女で賀茂の斎院をつとめた式子内親王のものです。忍ぶ恋のこの歌をどのような気持ちで詠まれたのか。
 
 
  式子内親王 (文庫)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへばしのぶることのよわりもぞする」の歌に代表されるように、式子内親王の作品には、鬱と激情の交錯する、特異な審美性にあふれた作品が多い。その個性的な詠嘆の底には、どのような憂鬱の生涯がひろがり、いかなる激情にあやなされた思慕があったのか。―歌と生涯を辿りつつ、沈鬱と激情の歌人、式子内親王の内面に鋭く迫る。
 
 
  式子内親王・永福門院 (文庫)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  “人間を超えるものの認識なしにこうした歌が読めるであろうか”。式子内親王の三つの「百首歌」、少い贈答歌等への細やかな考察を通し、詩人の特性、女として人としての成長、歌境・表現の深化・醇化を“思うままの作品鑑賞”で綴る。三十一文字に自己の心と想念を添わせ、独創的な視点と豊かな感性で展開する「式子内親王」「永福門院」「いま一章、和歌について」を収録。平林たい子賞受賞。
 
 
  式子内親王 <文庫> 馬場 あき子 著   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  〈忍ぶる恋〉に特色づけられる式子内親王の歌と生涯を辿りつつ、一つの時代の終焉を詠(なが)めざるを得なかった女の内面を掘り起こす。
 
 
藤原定家.1162
藤原定家
  藤原定家 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) - 1241年(仁治2年))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。新古今調の歌人。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に大きな影響を残した。勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。秀歌撰に『定家八代抄』、歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』、歌集に『拾遺愚草』、また『小倉百人一首』を撰じた。
 
 
  藤原定家:熊野の歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  藤原 定家(ふじわらのさだいえ、1162年〜1241年)は、鎌倉時代初期の公家、歌人。 2つの勅撰和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の選者。家集に『拾遺愚草(しゅういぐそう)』。 『小倉百人一首』の撰者だといわれます。
 
 
  藤原定家(1162-1241)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  定家が生まれたのは平治の乱が終わった3年後。武士の政治が始まろうとして
 
 
  藤原定家百人一首.net   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「百人一首」で知る日本の伝統文化。百人一首を様々な形で楽しめる。京都嵐山にある「小倉百人一首」をテーマにした体験型学習施設「時雨殿」。「時雨殿」で触れることができるかるた勝負や、百人一首の技を鍛えることができるミニゲームなど、DSならではの機能で伝統文化の魅力を堪能することができます。また、タッチペンで調べる京都案内も収録しています。
 
 
  藤原定家の『近代秀歌』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌論書。1巻。藤原定家の著作として最も信頼すべきものの一。1209年(承元3)成立。元来、源実朝のための作歌指導書で、詞ことばは古きを慕い、心は新しきを求めるべきことを主張、経信・俊頼以下の近代歌人の秀歌を挙げる。後に定家は、例歌を入れかえた。(広辞苑第五版より)
 
 
  藤原定家:超新星と陰陽道   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  太陽より8倍以上の重い星は最後に超新星爆発をおこし、その一生を華々しく終えます。現在、かに星雲(M1)として知られる星雲はそのような爆発の残骸で、違った年に撮影した写真を比べると今も膨張しているのが分かります。その超新星の記録が中国、そして日本の藤原定家の日記『明月記』などに残っていて、爆発の起きた年が1054年と特定されています。
 
 
  藤原定家の日記 『明月記』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  皆さんは日記を付けていますか。日記といえば「三日坊主(みっかぼうず)」という言葉がすぐに思い浮ぶほど続けるのはむずかしいものですね。 でも、養老(ようろう)4年(720)に完成した歴史書『日本書紀(にほんしょき)』はそれ以前に書かれていたいろいろな日記を参考にして作られたといいますから、かなり古くより日記をつけていた人がいたことになります。どんな日記だったのでしょうか。
 
 
  Category:藤原定家 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  カテゴリ「藤原定家」にあるページ  以下にこのカテゴリへ属しているページ 11 件中 11 件を表示しています。
 
 
  藤原定家(フジワラノ・サダイエ)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  応保2年(1162)〜仁治2年(1241)8月20日。後鳥羽院に認められ和歌所寄人、『新古今集』選者となる。承久の乱直前には後鳥羽院から退けられるが『新勅撰和歌集』を編纂し中世を代表する歌人であり、古典を校訂し後世に伝えた人でもある。宣長が歌人の中でも最も尊んだ。次に引くのは24歳の時の文章だが心酔の様子がよく分かる。
 
 
  藤原定家 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) - 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。
 
 
  【 あの人の人生を知ろう〜藤原定家 】   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  鎌倉初期の歌人。父は千載和歌集を撰進した歌人藤原俊成。幼少の頃から父に歌の指導を受け、また西行法師や平忠度らと親交を持ち、天性の歌心に磨きをかける。1178年、16歳で初めて歌合(うたあわせ、和歌バトル)に参加。1180年(18歳)、源氏が挙兵し源平の争乱が勃発。この年から定家は日記『明月記』を73歳まで56年にわたって書きつづる。
 
 
  藤原定家  ふじわらのさだいえ(-ていか)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  仁安元年(1166)、叙爵し(五位)、高倉天皇の安元元年(1175)、十四歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めた。治承三年(1179)三月、内昇殿。養和元年(1181)、二十歳の時、「初学百首」を詠む。翌年父に命ぜられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信して感涙したという。
 
 
  歌人・藤原定家(「小倉百人一首」の撰者)の忌日   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今日(8月20日)は、「小倉百人一首」の撰者と言われている鎌倉時代の歌人・藤原定家の1241(仁治2)年の忌日。(新暦では、年9月26日) 藤原 定家は、鎌倉初期の歌人藤原道長の玄孫、御子左家の出身。1162(応保2)年 、父は藤原俊成(当時は顕広),、母は美福門院加賀=藤原親忠の娘)の子として生れる。官位は正二位権中納言に昇った。
 
 
  800年の謎、不明の文意判明 「藤原定家筆歌合切」断簡発見   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  鎌倉期の歌人で新古今和歌集の選者だった藤原定家(1162−1241年)が、定家のめいで当時を代表する女流歌人、俊成女(むすめ)(生没年未詳)の歌を書き取った新しい断簡(原本の1ページ)が旧伯爵家の旧蔵品から見つかった。
 
 
  藤原定家の著作と平安朝古典籍の書写校勘に関する総合データベース   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の古典文学を、いつでも、どこからでも、誰でもが、自由に読めたらいいな、そんな思いで作りました。まずは読めるテキストを。そして、使えるテキストを。古典文学には本文校訂という基礎作業が必要です。…
 
 
  藤原定家の熊野御幸 (文庫)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  歌人藤原定家の苦難の熊野詣紀行、22日間にわたる苦行は何だったのか。 熊野詣は、苦しければ苦しいほど来世の御利益が約束される非常に困難な旅であった。二流貴族である定家が不平不満を抱きながら後鳥羽院に同行した折の記録からは定家の人間的側面がよく見えてくる。
 
 
九条良経.1169
九条良経
  九条良経 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  九条 良経(くじょう よしつね、嘉応元年(1169年) - 元久3年3月7日(1206年4月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。後京極 良経とも呼ばれる。摂政・関白九条兼実の次男。従一位・摂政・太政大臣。後京極殿と号す。良経は和歌や書道、漢詩に優れた教養人であった。特に書道においては天才的で、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。また、良経の歌壇活動は『新古今和歌集』へと結実していく新風和歌を育成、大きな役割を果たす。
 
 
  九条兼実・良経   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  鎌倉時代初期の公卿。書道家でもある。父は摂政関白九条兼実。母は従三位藤原季行の女。治承三年(一一七九)、元服、文治元年(一一八五)、従三位に叙せられる。同四年、長兄良通が早世したため嫡子となる。権中納言を経て、正二位に叙せられ、文治五年権大納言に転じ、建久六年(一一九五)、内大臣となるが、翌七年十一月、土御門通親・丹後局らの策謀により父兼実とともに政界を追われ籠居する。正治元年(一一九九)、左大臣として復帰する。
 
 
  きりぎりす(九条良経)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ  後京極摂政太政大臣
 
 
  九条良経ー3 - 天気晴朗なれど〜   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  熊野本宮焼失 : 建長六年(1254)成立の橘成季編著の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に熊野本宮が焼失した火災のことが書かれた話があります
 
 
  九条良経 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  九条 良経(くじょう よしつね、嘉応元年(1169年) - 元久3年3月7日(1206年4月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。後京極 良経とも呼ばれる。摂政・関白九条兼実の次男。従一位・摂政・太政大臣。後京極殿と号す。
 
 
  [我が九条]我が九条(その2)−九条良経   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  良経(よしつね)は源義経(よしつね)と読み方が一緒なので、義経が謀反人として討伐される時には良経を憚って義経を勝手に改名したようだ。『吾妻鏡』文治三年二月十日条には「前伊予守義顕日来隠住所々」とある。「前伊予守義顕」が義経のこと。
 
 
  九条良経 - かもめうかぶ なみぢはるかに   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  良経は1190年頃から本格的に和歌を詠み始めたようだ。しかし良経の学識の広さといい、初期の歌の完成度といい、むしろ定家の方が良経に多くを学んだ感がある。「秋篠月清集」に収められた良経の初期の歌には、さまざまな試みが見られる。例えば、古代では舟旅は心細く危険なもの、忌避したいものであった。その海路に浪漫を見出して詠ったのは、良経のまったく新しい感性の産物と思う。
 
 
  定家:九条良経の知遇〜『松浦宮物語』(1)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  定家が殿上で悪口を言われ、かっとして相手を紙燭で殴って謹慎となったこと、ほぼ三ヶ月後に、父の俊成が歌で宮中に取りなしてくれたことで、やっと謹慎が解けたこと、は、定家の伝記を扱う本には必ず出てくる話ですね。
 
 
  九条良経 くじょうよしつね 嘉応元〜建永元 (1169-1206)