018 【文芸押 俳句:松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶・正岡子規
 日本が誇る短文文学の世界。感性と情緒の世界をご一緒に楽しみませんか。ここには、あまりにも有名な万葉集はじめ、古今和歌集から始まる二十一代集、著名な歌人の足跡なども余すことなく掲載されています。また、皆さまに親しまれている、NHK短歌・俳句・川柳など、句会、投句のホームページもあります。 五行で綴る自由で幅広い表現ができる五行歌の世界、大変楽しく素晴らしいものです。どうぞ、ごゆっくりご覧ください。

俳句 なんと歳時記 photo俳句 俳人一覧 西行法師.1118.2/ 斎藤徳元,1559/
西山宗因.1605/ 伊藤信徳.1632/ 井原西鶴.1642/ 松尾芭蕉.1644 河合曾良.1649  池西言水.1650/
向井去来.1651 服部嵐雪.1654 内藤露沾.1655/ 森川許六.1656 越智越人.1656 椎本才麿.1656/
上島鬼貫.1661 宝井(榎本)其角.1661 志太野坡.1662 内藤丈草.1662 各務支考.1665 中川乙由.1675/
立花北枝.〜1718/ 加賀千代女.1703 炭 太祇.1709/ 与謝蕪村.1716 遅月上人.? 大島蓼太.1718/
三宅嘯山.1718/ 川上不白.1719/ 黒柳召波.1727/ 加藤暁台.1732/ 蝶夢.1732/ 井上重厚,1738/
加舎白雄.1738.10/ 岩間乙二.1756/ 高桑蘭更,1798没/ 夏目成美.1749/ 建部巣兆.1761/ 小林一茶.1768
常世田長翠.1791/ 井上井月.1822/ 野沢凡兆.1840/ 内藤鳴雪.1847/ 森 鴎外.1862.2/ 村上鬼城.1865/
夏目漱石.1867.2/ 幸田露伴.1867.8/ 正岡子規.1867.10 松瀬青々.1869.5/ 大野洒竹.1872.11/ 泉 鏡花.1873/
河東碧梧桐.1873 高浜虚子.1874 西山泊雲.1877.4/ 松根東洋城.1878.2/ 寺田寅彦.1878.11/ 臼田亞浪.1879
鈴木花蓑.1881/ 種田山頭火.1882 前田普羅.1884/ 尾崎放哉.1885 富安風生.1885 飯田蛇笏.1885
原 石鼎.1886 長谷川零余子.1886.5/ 中塚一碧楼.1887 竹下しづの女.1887/ 久保田万太郎.1889  山口青邨.1892
水原秋桜子.1892 芥川龍之介.1892/ 高野素十.1893 後藤夜半.1895/ 川端茅舍.1897 富田木歩.1897.4/
阿波野青畝.1899 橋本多佳子.1899.1/ 三橋鷹女.1899.12/ 杉田久女.1890 永田耕衣.1900 中村汀女.1900
西東三鬼.1900/ 西東三鬼.1900.5/ 日野草城.1901 中村草田男.1901 山口誓子.1901 秋元不死男.1901.11/
富澤赤黄男.1902 皆吉爽雨.1902.2/ 芝不器男.1903 星野立子.1903.11/ 大野林火.1904 加藤楸邨.1905
松本たかし.1906/ 鈴木真砂女.1906/ 篠原鳳作.1906.1/ 鈴木真砂女.1906.11/ 中川宋淵.1907/ 石橋秀野.1909/
石橋辰之助.1909.5/ 石川桂郎.1909.8/ 高屋窓秋.1910.2/ 篠原梵.1910.4/ 石田波郷.1913 古沢太穂.1913
渡辺白泉.1913.3/ 木下夕爾.1914.10/ 桂信子.1914.11/ 吉野義子.1915.7/ 角川源義.1917/ 森澄雄.1919
金子兜太.1919 眞鍋呉夫.1920.1/ 飯田龍太.1920.7/ 三橋敏雄.1920.11/ 楠本憲吉.1921 飯島晴子.1921.1/
高柳重信.1923.1/ 藤田湘子.1926.1/ 飴山實.1926.12/ 川崎展宏.1927.1/ 宮津昭彦.1929 加藤郁乎.1929.1/
鷹羽狩行.1930  有馬朗人.1930.9/ 稲畑汀子.1931 平井照敏.1931.3/ 上田五千石.1933/ 宇多喜代子.1935
黒田杏子.1938 角川春樹.1942.1/ 坪内稔典.1944/ 大西泰世.1949/ 大屋達治.1952/ 対馬康子.1953
長谷川櫂.1954/ 小澤實.1956 夏井いつき.1957.5 坊城俊樹.1957.7/ 蛇笏賞/ 飯田龍太賞/
NHK全国俳句大会/ 吟行・即吟        
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俳句
俳句王国 この項の下段に「俳句のブログ集」があります。
  俳句 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句(はいく)は正岡子規が提唱した近代文藝としての短詩であり、それは江戸末期の月並俳諧の批判から成立した。もともとは俳諧の連歌の発句が独立したものであり、それゆえに季語・切れ等の制限が生まれた。芭蕉の発句と子規の俳句を同じものとみなすことはできない。
 
 
  歳時記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  これは便利!- 1月〜12月の季語   お探しの季語、例えば「流燈」でしたら、上の「ら」をクリックして下さい。
 
 
  詩歌の里   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言葉ありき」とあります。ここでの「言葉」を「詩」としてうけとめることができます。詩」は、私たちの理知を超えたところから、働きかけてくるもの、その美を通して存在の意味を示すものです。そして、私たちのたましいを浄化するものだと思います。詩歌とは、そうした「詩」のみなもとをたずね、自らを葦笛となす「表現即体験」と言うべきいとなみです。「詩歌の里」では、身近に出会った歌びとの葦笛の響きをお伝えしたいと願っています。
 
 
  俳句の森   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  わたくし竹内睦夫の、全く個人的な趣味のサイトです。このサイトではネット句会のようなものはいたしません。既に俳句は多過ぎます。私が面白いと思ったものを載せてみるだけです。もしこのサイトにポリシーと似たようなものがあるとすれば、「役に立たない」ということでしょうか。
 
 
  右脳俳句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  21世紀、産業社会から情報化社会へ変遷する超ルネッサンスの時代とされています。私たち一人一人の脳はそれぞれの人にとっての宇宙の写像であります。私たちが意識して何かを見つめ続けるとき、やがて脳は対象と響き合います。そのときのイメージを、言葉や概念でひねくり回すことなく、素直に俳句に表現してみましょう。
 
 
  俳句逍遙   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  当サイトはタイトルに有りますように「俳句」に特化したページです。俳句には様々な形式があり、どれひとつも否定するものではありませんが、私は石田波郷を理想とし、師系もそうであるが故、有季定型、花鳥諷詠を基本とします。 私は「俳画」にも関心があり、「デジタル俳画」というものを作っております。俳句、俳画に関してお便りをいただければ幸いに存じます。
 
 
  ホトトギス   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳誌「ホトトギス」は創刊が明治30(1897)年で、百年以上休む事なく刊行され続けられてきた月刊誌です。正岡子規、高濱虚子等によって培われてきた正しい俳句「花鳥諷詠」を、この類を見ない伝統ある小誌で学んでみませんか。真の俳句とは、ベテラン、初心者を問わず、四季を愛でる日本人の心があればどなたでも素晴らしい作品を生み出す事が出来るのです。この機会に是非御購読をお待ち申し上げております。
 
 
  こころ俳句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句への入り口はどこであれ、たどり着くところは、感動する心の表現、砕かれた心で詠む 心の俳句 新自由律俳句でありたい。
 
 
  俳句INDEX   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  昨今の情報技術(IT)の進歩に伴い、インターネットを通じた俳句文学の普及と関連情報へのアクセスを容易にするためにこのサイトを開きました。現在このサイトでは、俳人、俳句結社、各種団体等を検索できるサービスと供に、俳句関連イベントやホームページの案内を行っています。
 
 
  俳句の箱庭   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  箱庭」に吹く風の微粒子のなんと大粒なことよ。「俯瞰」も「凝視」も「箱庭」のためにある言葉だ。 透次。
 
 
  俳句甲子園    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  誰でも口ずさむことができ、フランス人に「生きる芸術」と呼ばれた俳句。P.ピカソが「広々とした自由」と呼んだ俳句。現在全国の俳句愛好者は500万人を越え、いまや「俳句の時代」といわれるほど、この小さな詩形は、日本人の日々の暮らしに溶け込んでいます。・・・ 各地から俳句に親しむ高校生が一同に参集し俳句を楽しみ交流することは、本来「座」に集う人々の共同の文芸であった俳句にふさわしく、そこから生まれる人間的な交流は、高校生にとって国語教育の一環としてのみならず、新鮮で貴重な社会的経験となり、豊かな人間性を育むであろうと考えます。
 
 
  景色の肖像   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ボクにはどうしても描かなければならない一枚の絵があります。ボクにはどうしても描かなければならない一枚の絵があります。鳥肌立たせる、漠然とした景色の残像が妄執となって居座り続けるようになりました・・・
 
 
  俳句論争史   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  なぜ「俳句の歴史」や「俳句発展史」ではなく「論争史」なのでしょう。それは簡単!他人が和気藹々としているのを見るより喧嘩しているのを見る方が面白いからです。 このページは、石寒太「現代俳句の基礎用語」(平凡社)を参考にして作成しました。出来事を古い年代のものから並べています。
 
 
  俳句スクエア   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句は、僕が知っている詩の形式の中で一番美しいものだと思う。   ・・・ジョンは「俳句」のことをポエム(poem)と言わずにポエトリー(poetry)と表現している。このことは、彼が「俳句」の特性をよく理解していたことの証左と言える。 by John Lennon
 
 
  俳句のサロン   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  トップページ/巻頭句一覧/歳時記/句集図書館/瀧春一館/俳句を書く/句集のサロン/リンク
 
 
  ★俳句の世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西村我尼吾が、愛媛県で経験した感動を俳句と映像で綴ります。 西村我尼吾と大政穂積が、四月の高知でスケッチと吟行の旅を試みました。大政穂積の作品は、九月に高知で個展が、開催されます。我尼吾の書も御覧になれます。奮って御覧ください。
 
 
  旅人の愛唱句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  井原西鶴/松尾芭蕉/野沢凡兆/池西言水/与謝蕪村/正岡子規/内藤鳴雪/夏目漱石/芥川龍之介/河東碧梧桐/村上鬼城/高浜虚子/臼田亜浪/前田普羅/富安風生/飯田蛇笏/原石鼎/竹下しづの女/久保田万太郎/杉田久女/山口青邨/水原秋桜子/高野素十/後藤夜半/三橋鷹女/橋本多佳子/阿波野青畝/永田耕衣/川端茅舎/中村汀女/西東三鬼/中村草田男/山口誓子/秋元不死男/芝不器男/星野立子/大野林火/加藤楸邨/篠原鳳作/松本たかし/中川宋淵/高屋窓秋/石田波郷/渡辺白泉/木下夕爾/桂信子/角川源義/森澄雄/金子兜太/飯田龍太/三橋敏雄/飯島晴子/高柳重信/藤田湘子/飴山實/川崎展宏/有馬朗人/鷹羽狩行/平井照敏/上田五千石/黒田杏子/角川春樹/坪内稔典/大西泰世/長谷川櫂/皆吉司/石川桂郎/加藤郁乎/石橋辰之助/眞鍋呉夫/篠原梵/三好達治/吉野義子/戸坂康二/鈴木真砂女/吉川英治/大屋達治/黒柳召波/和田誠/奥村三千丈
 
 
  温泉百句論争   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  明治36年10月虚子は「ホトトギス」に「現今の俳句界」という文を書き、その中で「今の俳壇は殆ど碧梧桐に代表されるといってよい。」と述べ碧梧桐の実力を認めている。しかし虚子はこの碧梧桐が前号に発表した「温泉百句」を取り上げ、技巧的に過ぎる点を指摘している。
 
 
  現代俳句協会    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  オンラインで現代俳句が満喫できる画期的なサイトです。便利なマイページを作って現代俳句の美味しいところを皆で共有しましょう。俳句会へのご参加お待ちしております。   分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火 
 
 
  3Bの歌人たち   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  3年B組(平安時代ならさしずめ「ろ」組でしょうか)の歌会へようこそ!生徒たちが詠んだ自慢の一首をご自身で吟味してください。吟味のパターンは3つです。  生徒の作品はいかに?/雅号はたれ(誰)ぞ名乗る?/筆つき、いみじうめでたし
 
 
  俳句雑誌 春星   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『春星』は、松本島春(とうしゅん)が主宰の、実作を中心とする月刊俳句雑誌。 1946年7月、広島県三原市にて、松本正氣(1904〜1991、青木月斗に師事)が、「和而不同」「作句第一義」を旗印に創刊した。
 
 
  俳句王国 <BS2>     TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句の楽しさをたっぷり詰め込んだ「俳句王国」。俳句の都、松山に俳人たちが集まり匿名で句を披露しあう、という趣向の番組で、内容はとても濃密です。 日本語の美しさ、こまやかな季節感を堪能できるのは俳句の持つ力でしょう。 土曜 BS2  午前 11:00 〜 11:53
 
 
  お得区俳句案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  お得区俳句案内
 
 
  SimGさんの草庵   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  アニメーションとじいさんの一言で味わう小林一茶の俳句世界です。
 
 
  俳句のくに・三重   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『奥の細道』などで知られる俳聖・松尾芭蕉は、伊賀の国(現在の三重県伊賀地域)で生まれ、30歳頃江戸へ移り住むまで主にこの地ですごしています。 その後も、折にふれてふるさとに帰り、「古里や臍のを(緒)に泣としのくれ」などふるさとを詠んだ句も残しています。 伊賀では今も「芭蕉さん」をしのぶ催しがおこなわれ、桑名や伊勢などでも句が詠まれています。
 
 
  俳句ステーション   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句をみんなで楽しむページです。
 
 
  俳句をはじめよう   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句は17文字の自分詩、そして1日1行の自分史。ちょっとオシャレな自分史を作り上げるのが俳句の世界です。誰にでもいつからでもはじめられる、これが俳句の大きな特徴です。さあ、俳句を始めましょう。
 
 
  俳句ニューデリー   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ここは俳句を愛する如月美樹による個人運営のwebです。 『俳句年鑑2006年度版』(角川書店)に掲載されました(自選句はなし……いつか依頼されたいね)。/『俳句研究年鑑2006年度版』(富士見書房)に自選5句が掲載されました(いつもご依頼ありがとうございます)。
 
 
  子ども俳句歳時記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  世界規模で広まって行く「子ども俳句」歳時記の原典。 数百万の子ども俳句の中から厳選された秀句を、四季別・テーマ別に編集した唯一の「子ども俳句歳時記」。
 
 
  インターネット俳句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  世界でもっとも短い詩である、俳句を紹介しているコーナーです。 伝統的な俳句の世界を、ごゆっくりと.....。 「インターネット俳句」は、インターネット上で俳句を楽しむために、開設されました。オンラインでの句会を定期的に実施し、成果は本ホームページに随時掲載されます。
 
 
  インターネット句会   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  サークルの趣旨 : 初心者のためのトレーニング句会です。互いに切磋琢磨して作句の基本を習得するのが目的です。「必ず投句する」「必ず選句する」「選句の感想を書く(一言でも可)」がルールです。当句会で俳句の基本を体得された方々が、さらに新たな句会で活躍されることを期待しています。
 
 
  角川全国俳句大賞   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  誰にでも詠める俳句・・・この世界一短い一行詩を21世紀に輝かせたく、「俳句の角川」が2005年新たに」角川全国俳句大賞」を創設しました。あなたの想いや、その時に感じた一瞬を五・七・五のリズムにのせて詠んでみませんか。
 
 
  Yukuko's Homepage   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  返り花旧き歌曲のとりどりの:詩のことばが心に沁みる。竹久夢二の「母」など、特に。初めて聴く橋本国彦の「舞」は深尾須磨子の詩。パンフレットの裏に書いてあったので、読んでおいたから、聞き取れた・・・
 
 
  俳画と俳句のページ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  夫婦は本来他人の集合体にすぎません。共通の目的を失ったとき、元の他人同士に戻ってしまう危険性を持っています。せっかく巡り合ったのですから、生涯打ち込める共通の何かを見つけようとして思いついたのが「俳画と俳句」でした。まだまだ、稚拙な作品ばかりですが私達の世界をご覧いただければ幸いです。
 
 
  ゴスペル俳句の世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  私こんにちは、やまだみのるです。このWebページへご訪問くださってありがとうございます。このWebページは営利を目的としたものではなく、みのる個人が自分の趣味として公開している読者参加型の俳句サイトです。興味のある方ならどなたでも歓迎しますので、初めての方もお気軽に参加してください。
 
 
  南風 100句 - 歳時記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  南風吹くカレーライスに海と陸 櫂未知子/南風の船ゆく手に朱の厳島 能村登四郎/南風に使うてにんげんの髪の筆 岡井省二/南風吹く気根伸ばせし鉢の蘭 丸山南石/素もぐりの足鰭をどる南風の波 木下ふみ子
 
 
  無季俳句「永田耕衣機   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大空に田がひらめけり甘茶佛
 
 
  ★現代俳句アンソロジー   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『無形を視る秀句』/『新・無形を視る秀句』/『海の見える俳句』/『Midnight Owl(梟俳句)』
 
 
  炭俵 8巻 (すみだはら)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  炭俵_上巻 歌仙[うめがかに:芭蕉] / 炭俵_上巻 歌仙[けんかうも:嵐雪] / 炭俵_上巻 歌仙[そらまめの:孤屋]/ 炭俵_上巻 百韻[こははだか:利牛] / 炭俵_下巻 歌仙[あきのそら:其角] / 炭俵_下巻 歌仙[みちくだり:桃隣] / 炭俵_下巻 歌仙[ふりうりの:芭蕉] / 炭俵_下巻 歌仙[ゆきのまつ:杉風]
 
 
  インターネット俳句センター   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  インターネット俳句センターは、水煙発行所によって開設制作され、「俳句雑誌水煙」と「インターネット俳句センター」は、相互に緊密な関係を持って結ばれ、支援し合う組織です。 私たちの組織は、感性の共同体といったもので、新しい時代の精神的な力を与えてくれるものと、願っています。
 
 
  木に関する俳句 木と季語   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  木に関する俳句 木と季語
 
 
  至遊さんの 句あれば楽あり   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  吟行文/俳句入門/随想・報告/俳論/鑑賞
 
 
  大人を楽しむ  俳句を楽しむ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶/与謝蕪村/尾崎放哉/種田山頭火/松尾芭蕉/
 
 
  秋尾敏 - 秋尾敏の俳句世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規の世界/近代俳句の世界/明治俳諧の世界/俳句学のすすめ :俳句学は、俳句を分析の対象とする学です。それは、国文学、国語学、言語学、心理学、哲学、社会学、歴史学、宗教学など、さまざまな学の際に成立します。俳句は文芸であり文学であるとともに、文化であり社会現象です。
 
 
  鈴木伸一の空っ風俳句ランド   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  新聞でわたしが選者を務めるジュニア俳句も、たくさん紹介しています。「ジュニア俳句のひろば」には俳句の歴史や作り方、Q&Aなどもあります。お子さんと一緒に、ご家族のみなさんや先生方もぜひご覧ください。
 
 
  蛙(かわず、かはづ) 三春 ♪    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蛙は、田に水が張られるころ、雄は雌を求めてさかんに鳴き始める。昼夜の別なくなき続
 
 
  すみだわら【炭俵】 - Yahoo!辞書   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳諧撰集。二巻。志田野坡(しだやば)・小泉孤屋(こおく)・池田利牛共編。1694 年刊。歌仙・百韻・発句を収める。芭蕉最晩年の「かるみ」の境地をよく表した集。俳諧七部集の一。
 
 
  初心者のための 俳句入門講座    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句ブームと言われています。というよりも、俳句ブームと言われ続けている、と表現したほうが正しいかもしれません。10年も20年も前から俳句ブームと言われておりますし、俳句ブームは終わったなどという言葉も聞いたことはありません。仮に、「俳句ブームは終わった」、ということが言われるとすればもてはやされて膨張する時期を過ぎ、作品の充実を図る時期が来た、ということであろうと思われます。
 
 
  俳句庵 うたのいほ ホームページ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今月の俳句/今月の短歌/Episodisme(ブログ)
 
 
  俳句の歴史 (10人の俳人とその作品)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  15世紀の日本では、「連歌」と呼ばれる詩の形式が隆盛を迎えていた。 連歌は複数の作家の共同作業によって制作される詩である。17音(5音・7音・5音)から成る詩行と、14音(7音・7音)から成る詩行を、参加メンバーが交互に継ぎ足していき、通常100行の詩を完成させるものである。・・・
 
 
  現代俳句名句選 季節別作品選/秋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  いま、窓の外はミンミン蝉がうるさく鳴いています。立秋間近の暑い暑い土曜日の午後です。今年は梅雨が長く、横浜では8月になる直前に明けました。梅雨明けから立秋まで1週間とちょっと。なんだか損をしたような、でもそれもまあ面白いか、といった不思議な気持ちです。
 
 
  俳画と俳句(HAIGA & HAIKU:English Version)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  このサイトでは、俳句、俳画などの自己表現と外国語学習に光を当てながら、e-Learning教材の開発と利用を進めています。  
 
 
  心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  目次 泉鏡花句集 → 総振仮名版「花鏡別莊 泉鏡花極美総振仮名付俳句集」 → 縦書版鏡花先生発句縦書
 
 
  現代俳句データべース - 現代俳句協会   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  現代俳句データべース
 
 
  現代俳句協会ホームインターネット俳句会俳句入門   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句を始めたいと思うきっかけは、みなさんそれぞれでしょうが、この本を手にとられたあなたは、俳句というもっとも短かくて奥行きのある文学にふれたことになります。この機会を生かすも生かさないもあなたしだいです。 あるひとは、日記を書くように俳句を作りたいと思い俳句を作り始めました。またあるひとは、友だちや職場の同僚から「面白いから」と誘われたから始めたということもあります。またなんとなく文化的な雰囲気にふれたいとカルチャー教室に入ったなどでしょうか。・・・
 
 
  社団法人 日本伝統俳句協会 ようこそ俳句の世界へ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  藤垂れて今宵の船も波なけん 高濱虚子  私どもは日本古来からある伝統的なリズムを守る俳句、そして日本での人間と 自然界の風物との脈々たる係り合いを詠う俳句、つまりは花鳥諷詠を基礎とし た俳句を拠り所にし、そしてその中には人間界の営みも広く包含する新しく、 しかも伝統的な俳句についての活動を目指しております。
 
 
  日本現代詩歌文学館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  わが国唯一の現代詩歌専門の総合文学館  詩歌の本や雑誌は全国で膨大な種類のものが発行されていますが、それぞれの部数はほとんどがごくわずかなものです。ですから時間がたってしまうとほとんど手に入れることができなくなってしまいます。 そのような状況のなかでもっと優れた詩歌に触れたい、もっと研究を深めたいという人たちがたくさんいて、その声が結集して「詩歌」文学館ということになったのです。… ちなみに詩歌専門の総合文学館というのは全国で唯一のものですし、おそらく世界的に見ても例がないのではないでしょうか。
 
 
  社団法人 俳人協会・俳人文学館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  社団法人俳人協会は、会員14,500名を擁する公益法人であり、俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、わが国文化の向上に寄与することを目的にしています。
 
 
  俳句古志 <書籍>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句雑誌「古志」(1993年10月創刊)のホームページ(2002年4月開設)です。
 
 
  俳句のブログ集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句人気ランキング
 
 
  俳句大使に前EU大統領 (2015/6/2)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  外務省は2日、日本と欧州連合(EU)間の俳句による交流を促進しようと、愛好家で知られるファンロンパイ前EU大統領を「日EU俳句交流大使」に任命し、岸田文雄外相が東京都内の関連レセプションで委嘱状を手渡した。 ファンロンパイ氏はあいさつで「西洋が日本を理解する上で橋渡し役を担うのが俳句だ」と述べ、俳句を通じた交流への意欲を強調した。…
 
 
  元禄名家句集略注 伊藤信徳篇 単行本(ソフトカバー)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳諧史上元禄の名家と呼ぶにふさわしい六名、伊藤信徳・山口素堂・小西来山・池西言水・椎本才麿・上島鬼貫。 多くが初の注釈となるシリーズの第一篇は伊藤信徳。略歴、解説つき。
 
 
  正岡子規の未発表5句見つかる 自画像2点も (2017/8/22)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今年生誕150年を迎えた俳人・正岡子規(1867〜1902)が、死の前年の正月に詠んだ俳句5句と自画像2点などが載った冊子が見つかった。全集などにもなく、晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。 表紙に「明治卅(さんじゅう)四年一月一日 歳旦帳」と記された和とじの32ページの冊子(縦24センチ、横16センチ)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。長い間所在不明で「子規庵(あん)」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった。…
 
 
  赤福の俳句、子規じゃない? 店は困惑「誰か情報を」(2017/8/31)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「到来の赤福もちや伊勢の春」。伊勢土産として有名な和菓子「赤福餅」の包み紙に長年書かれてきた俳句がある。販売元の赤福(三重県伊勢市)によると、松山市出身の俳人・正岡子規(1867〜1902)による作品と伝えられてきたが、今年になって「裏付け資料が見つからない」と指摘された。赤福側は「情報を持っている方がいれば教えてほしい」と呼びかけている。 赤福は江戸時代の1707(宝永4)年創業。当初からあんころ餅を売り、お餅の上にこしあんをのせた赤福餅で知られる。…
 
 
なんと歳時記
  なんと歳時記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今日の俳句 - 季節の俳句をお楽しみ下さい  季語詳細(春・夏・秋・冬)/作者:貞門(貞門派およびそれ以前の作者)・談林(談林派の作者)・薫風(薫門の作者)・文明(文明時代を中心とする中興俳諧の作者)・幕末(江戸時代後期の作者)・近代(明治時代以降の作者)
 
 
photo俳句
俳句をやらない人でも知っている15の名句 +1 秀逸フラッシュ 俳句・ことわざ・反対語 DVD 俳句−十七字の世界
  photo俳句 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  各画像のクリックでそのHPに飛びます。そのHPタイトルをクリックしますとそのHPが開きます。
 
 
  俳句をやらない人でも知っている15の名句 +1   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句をやらない友人たちとの酒の席であったにもかかわらず、なぜか俳句の話で場が盛り上がってしまったことがあります。 この時、知ってる俳句を銘々に挙げていくと言うゲームが始まり、私は、その俳句が正しいかどうか判断する審査員に祭り上げられました。 ただ、俳句に全く興味の無い彼らがどんな俳句を挙げるか、たいへん興味深かったので、内心わくわくしながら、その場の成り行きを見守ることにしました。 その結果、誰もがすぐに思い浮かぶ俳句、あるいは、誰かに言われると、「知ってる、知ってる」となる俳句が存在することがわかってきました。…
 
 
  ga007: 俳句−十七字の世界−   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  この講座には「通常コース(無料)」「反転学習コース(有料)」「反転学習コース 高校生特別枠(無料)」の3種類のコースがあります。
 
 
  photo俳句 - NAVER まとめ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紫陽花の藍染色の雨の音 七変化役者のごとし煌めけり  健康長寿研究所
 
 
  おもしろコラム   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  イラスト入りコラムを約650点収録しています。コラムニストも随時募集中!ニュースレター制作のご相談も承ります。
 
 
  PHOTO俳句ブログ (2017/2/19)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  シャングリラ浮世忘るる枝垂梅 ←この一句と拡大写真
 
 
  PHOTO俳句の流れとルール - しゃれん句会   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  <流れ>写真をブログにアップ⇒全員が俳句を詠み、名前を入れずにブログにアップ⇒選句をそれぞれがアップ⇒選句が出揃った時点で、ひとつでも選が入ったら名乗りを上げる。⇒写真と俳句を一対にしたページをブログとしゃれん句会のホームページに掲載⇒次の写真をアップ <ルール>以下
 
 
  秀逸フラッシュ 俳句・ことわざ・反対語 DVD   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  幼児教室などで取り入れられている「フラッシュカード学習法」を映像化したDVDシリーズ。右脳を優先的に使っている幼児は、目にしたものを写真に撮るように丸ごと覚えてしまう「パターン認識能力」に優れています。そのため、速いスピードでめくられるカードの文字や絵を認識し、記憶することができるのです。脳を刺激する音楽やリズム、「おもしろいな」「きれいだな」と感情に訴えるCGなど、学習効果をあげる工夫が盛りだくさん。無限の可能性を秘めた子どもたちに贈りたい、能力開発プログラム。
 
 
  写真と俳句を組み合わせた新しいアート フォト×俳句 - 信濃毎日新聞特集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  寒紅(かんべに)引く 強い女になりたくて 古庄たみ子さん  佐賀県基山町 2017年2月16日掲載  選評: 芸に身を置くのは生半可なことではない。きりりと寒紅を引いた芸者衆。その姿に接し、自分の気持ちのあいまいさを引き締めるような作者の心情が表れているようだ。(中谷吉隆)             
 
 
俳人一覧
たますだれ/9月の花
  俳人の一覧 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳人の一覧は、主要な俳人・俳諧師の一覧である。
 
 
  Category:俳人 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  カテゴリ “俳人” にあるページ : 242 件中 200 件を表示しています。
 
 
  Category:俳人   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  このカテゴリには 15 の項目があります。
 
 
  俳人関係ホームページ - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳人関係ホームページ(NAVER まとめ関連HP) - Google検索
 
 
  「俳句のまち」を後世に  -山陽日日新聞   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  千光寺公園  尾道で「狩」25周年記念全国大会  俳句のまちにまた1つ名所が−。俳壇を代表する俳人協会会長鷹羽狩行氏(横浜市在住)=「狩」主宰=が少年期を過ごした尾道の千光寺公園に、このほど自身が揮毫した句碑「海からの風山からの風薫る」が完成。鷹羽氏を招き26日、市立美術館から展望グリルに登る坂道右側にある東屋ひろぱで除幕式が行われた。
 
 
西行法師.1118.2/
  「西行法師」検索   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西行法師 - Google
 
 
斎藤徳元,1559/
     
西山宗因.1605/
     
伊藤信徳.1632/
元禄名家句集略注 伊藤信徳篇 単行本(ソフトカバー) 伊藤信徳とは - 美術人名辞典 Weblio辞書 元禄名家句集略注 伊藤信徳篇
  伊藤信徳とは - コトバンク   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸中期の俳人。京都生。通称助左衛門、号は梨子園・竹犬子。初め貞徳に学び、後西武・梅盛に師事する。談林の作家との交流もあった。著書『七百五十韻』は芭蕉の讃辞を得た。元禄11年(1698)歿、66才。
 
 
  伊藤信徳 の画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
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  元禄名家句集略注(伊藤信徳篇) [ 伊藤信徳 ]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  【新品】【本】元禄名家句集略注 伊藤信徳篇 田中善信/著
 
 
井原西鶴.1642/
     
松尾芭蕉.1644
松尾芭蕉
  ⇒奥の細道.1702   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「005 【文芸ァ 近世文学:奥の細道:雨月物語:東海道中膝栗毛」 ⇒奥の細道.1702
 
 
  松尾芭蕉 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
 
 
  芭蕉 DB   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉年表 / 芭蕉文集 / 芭蕉句集 / 芭蕉七部集 / 書簡集 / 受信書簡集 / 関係人名集 / 関係文書一覧 / 芭蕉補遺 / 芭蕉用語集 / 掲載句碑一覧 / 参考文献
 
 
  芭蕉記念館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江東区は、松尾芭蕉”ゆかりの地”です。芭蕉は、1680年それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や”奥の細道”などの記行文を残しています。
 
 
  松尾芭蕉と庄内    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也』から始まる「奥の細道」は、紀行文学の最高傑作である。この古典文学は、荒廃していた日本人の心に安らぎを与え、日本の未来へ希望を与えてくれた。そして今また、庄内地方の文化の底流に、松尾芭蕉の影響が燦然と輝いていることに気が付いたのである。
 
 
  松尾芭蕉と村上   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉は、元禄2年(1689)の3月26日、曽良を伴って、「耳に触れていまだ目に見ぬ境」をたずねるため、江戸から奥羽の地へと旅立ちました。これが、あの「奥の細道」の旅で、半年にも及ぶ長旅になるわけですが、村上へも6月28日(今の暦では8月13日)に立ち寄り、2泊3日を過ごしました。
 
 
  芭蕉庵ドットコム   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース / 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡  学校教育教材・生涯学習教材提供サイト
 
 
  松尾芭蕉の書簡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奥の細道の旅出発直前に書かれた芭蕉の手紙は、わずか二十行の、しかし紛れもない芭蕉直筆の手紙で、これまで不明ないし疑問とされてきたいくつかの問題点について、実に明快な解答を提供してくれた。
 
 
  芭蕉句集&句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊賀句集&句碑/三重句集&句碑/滋賀句集&句碑/奈良句集&句碑/大阪句集&句碑/京都句集&句碑/和歌山句集&句碑/岐阜句集&句碑
 
 
  芭蕉句碑を訪ねて   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  旅を愛し、旅に朽ち果てた漂泊の俳人 芭蕉の生涯/芭蕉翁略歴年譜/俳句
 
 
  松尾芭蕉 千人万句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊賀国上野の生れ。農業を営む松尾与左衛門の二男。母は梅。俳号は初め宗房、後に桃青を名のる。若くして伊賀国上野(津藩)の侍大将藤堂新七郎良精(よしきよ)に仕える。やがて北村季吟に師事して俳諧を学び、江戸に下って職業的な俳諧師となる。深川に草庵を結び、芭蕉庵と名付けた。生涯の多くを旅に費やし、紀行文『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』などがある。元禄七年(1694)十月十二日、大坂で客死。享年五十一。大津膳所の義仲寺の木曽義仲の墓の隣に葬られた。
 
 
  俳句の歴史・松尾芭蕉   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉(1644〜1694) 松尾芭蕉は、俳諧(俳句)の歴史における最初の偉大な作家として知られる。当時流行していた語呂合わせや冗談を多用した作品を、彼も初期には書いていたが、1680年ごろから俳諧における(特に発句における)思想性を重視し始めた。芭蕉は荘子の思想の影響を強く受け、発句の中にしばしば「荘子」のテキストを引用した。
 
 
  松尾芭蕉 関山中尊寺   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。芭蕉46才、曽良41才の春です。江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。
 
 
  松尾芭蕉(1644〜1694)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉は、俳諧(俳句)の歴史における最初の偉大な作家として知られる。当時流行していた語呂合わせや冗談を多用した作品を、彼も初期には書いていたが、1680年ごろから俳諧における(特に発句における)思想性を重視し始めた。芭蕉は荘子の思想の影響を強く受け、発句の中にしばしば「荘子」のテキストを引用した。
 
 
  松尾 芭蕉  Basyo Matsuo    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  Sight-seeing Japan  伊賀上野(三重県)/芭蕉が生まれ育った故郷〜成田山(千葉県)/芭蕉の句碑がある・・・22箇所の写真画像
 
 
  『おくのほそ道』 松尾芭蕉   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  さあ、芭蕉である。どう書こうかとは何も想定しないで、いま書きはじめた。できれば、「漢」の表現文化に習熟していた露伴(983)が、晩年には「和」の芭蕉七部集に傾注していったように、いつかはそういうことをしたいと思うけれど、なかなかその機縁に没しきれないで数十年がすぎた。朝にも夕べにも芭蕉が出入りするような日々があれば、いつかまたそういうことも試みたい。
 
 
  熊野の歌  松尾芭蕉の俳諧   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉(まつおばしょう。1644〜1694)。 古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと  閑(しづか)さ岩にしみ入(いる)蝉の声  夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡  などの句が有名で、現在、芭蕉の句を刻んだ句碑が全国に数百と存在するという、伝説と化した誹諧師。
 
 
  俳聖 松尾芭蕉と句碑めぐり   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  漂白の詩人、松尾芭蕉の句碑を訪ねてみませんか? 芭蕉句碑(大橋橋詰)  松尾芭蕉は、50年の生涯の中で、記録上二度、この阿波の土地に足を踏み入れている。一度目は、上野からの新大仏寺参拝で、二度目は、久居からの長野峠越えである。   「からかさに 押しわけみたる 柳かな」
 
 
  のぶさんの奥の細道徒行記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  奥の細道本文/曾良の随行日記  1.深川〜千住〜春日部〜25.関が原〜大垣  旅の注意  終わりに  参考文献、HPなど
 
 
  松尾芭蕉の総合年譜と遺書   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  【1】伊賀上野時代の松尾芭蕉/【2】東下から深川居住までの松尾芭蕉/【3】第二次芭蕉庵完成までの松尾芭蕉/【4】「おくのほそ道」までの松尾芭蕉/【5】「おくのほそ道」後の松尾芭蕉/【6】第三次芭蕉庵から晩年までの松尾芭蕉/【7】俳聖 松尾芭蕉、堕落(お)つ/松尾芭蕉の遺書
 
 
  巡礼記 『おくのほそ道』 目次   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  第1章  『おくのほそ道』の作意/第2章  「別天地」への道/第3章  「別天地」の名残/  第4章  まとめ→本文へのリンク/  第5章  『おくのほそ道』超訳詞篇(最新版)
 
 
  三重の文学 - 松尾芭蕉の謎   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  さまざまな説が浮かぶ、芭蕉「奥の細道」。伊賀が生んだ俳聖、松尾芭蕉。彼の代表作『奥の細道』には、じつにミステリアスな箇所が多い。それは、46歳という当時としては高齢の芭蕉が、フルマラソンの距離を驚異的な速さで踏破したとか、29日しかない月の記録に30日の出来事が記してあるなど、注意深く読めば、随所に隠れているのだ。
 
 
  芭蕉と伊賀 - 芭蕉生誕360年   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  古くから「伊賀の国」として知られる伊賀地域は、紀伊半島の中心であるその位置関係から、関西と中部の両方の文化・経済の影響を受け、三重県でありながら独自の歴史・文化を育んできました。
 
 
  岐阜県 松尾芭蕉の句碑巡り   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  美濃路へ数回訪れたと言われている俳人松尾芭蕉の岐阜県内の句碑紹介です 場所やコメントもつけましたので是非訪れてみて下さい
 
 
  松尾芭蕉 (門人1) 蕉門十哲   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕉門十哲(しょうもんじってつ)とは、芭蕉のおもな門人10人をいう。孔子の孔門十哲にちなむ言い方で、許六の『師の説』(「本朝文選」所収)が元になっている。ただし、許六は具体的な名前をほ示さなかったので、蕪村筆「蕉門十哲」に書かれた名前を挙げる。
 
 
  17 松尾芭蕉と岩佐又兵衛(1)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
   1689年(元禄2)3月、松尾芭蕉は、曾良をともない奥州・北陸を巡る旅に出発します。8月10日、加賀大聖寺町を出て坂井郡吉崎浦に至り、ここから浜坂浦に渡って汐越の松を訪れました。さらに金津、丸岡とまわり、松岡天龍寺でかつて江戸で親交のあった木夢和尚と会っています。…
 
 
  Sight-seeing Japan 松尾 芭蕉   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  見たい写真または場所名をクリックしてください。
 
 
  松尾芭蕉 - あの人検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。
 
 
  松尾芭蕉は水道工事をしていた!   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  春風に誘われて、東中野から神田川に沿って歩いた。そのおり同行の女性から「松尾芭蕉は水道工事をしていた。」と聞かされて驚いた。そういえば椿山荘のふもとに芭蕉庵というのがあるがあれは何だろうと思っていた。インターネットで芭蕉と神田川について調べる。
 
 
  松尾芭蕉句碑めぐり 都留市役所   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉の新境地(わび)を開眼させた地 都留 : 思わぬ災難により江戸を離れた松尾芭蕉が、谷村(都留市)で過ごした5ヶ月間は、旅に明け暮れた彼の生涯の中で一番長い逗留となりました。 江戸に比べ冬の厳しい郡内(谷村藩)の自然と霊峰富士を間近に見る感動が、不惑の年を越えたばかりの芭蕉に大きな心境の変化を与えました。
 
 
  松尾芭蕉の句碑  田原市観光ガイド   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「鷹一つ見つけてうれし伊良湖崎」 伊良湖シーサイドゴルフ倶楽部の入口近くに芭蕉の句碑があります。 芭蕉が貞享四年(1687年)11月、保美の里に隠棲していた愛弟子の杜国を訪ね、伊良湖崎を清遊した時に詠んだ句です。
 
 
  ★☆俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生涯DB / 芭蕉年譜 / 付属文学館 / 文学館映写室 / 絵図展示室 / 芭蕉像展示室 / リンク集 / 松尾芭蕉「おくのほそ道」本文入り壁紙   [現代語訳付きで読む松尾芭蕉の旅] ◇野ざらし紀行(甲子吟行) ◇鹿島紀行 ◇おくのほそ道 / 目次を開く   序文現代語訳  ◇自筆本の序文  ◇「草の戸も」句碑  ◇深川絵図  ◇芭蕉庵絵図  ◇「おくのほそ道」諸本
 
 
  芭蕉.com 俳聖 松尾芭蕉ポータルサイト   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉元禄の街 大垣 / 奥の細道シリーズ / おすすめ情報 / デジタルフォトコンテスト2006 / 芭蕉特選サイト
 
 
  【 あの人の人生を知ろう〜松尾 芭蕉 】   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本名、松尾宗房(むねふさ)。伊賀国上野(三重県)出身、幼名金作。6人兄妹の次男。井原西鶴、近松門左衛門と並んで、元禄3文豪に数えられる(西鶴は2歳年上、近松は9歳年下)。松尾家は準武士待遇の農民。12歳の時に父が逝去。18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕える。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり、芭蕉も良忠から俳諧の手ほどきを受けて詠み始めた。・・・
 
 
  芭蕉のふるさと伊賀上野  芭蕉翁記念館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句への道をきづいた松尾芭蕉は天保元年(1664年)三重県伊賀市上野赤坂町に生まれました。このホームページは生誕地伊賀市の排蹟や芭蕉さんをしのぶ行事などをご紹介します。
 
 
  NPO法人 芭蕉翁 おくのほそ道ネットワーク   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  4年歳月をかけて 俳聖松尾芭蕉の自然とこころを探る「おくのほそ道の大学と旅」日光道中、奥州路、出羽路、北陸路を経て、 大垣さらには 伊賀上野まで 関連地域、自治体、さらにメディアと連携を図り、遂行していく予定です
 
 
  伊賀上野の町並みのクチコミ -松尾芭蕉の生家   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  伊賀上野の風情ある街並みの中に、かの有名な松尾芭蕉の生家があります。生家は、大通りに面していて、その建物は格子構えの古い町家です。なんとも趣のある家です。中に入ると、玄関から奥まで通り土間となっています。古い歴史ある部屋がそのまま残されていました。
 
 
  松尾芭蕉 (まつおばしょう) −「蕉風」発祥の地が名古屋の栄に存在−    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳諧(はいかい)は連歌から生まれたものだが,当初は洒落(しゃれ)や滑稽(こっけい)を主とする言葉遊びに過ぎない存在であった。1684年(貞享元)に松尾芭蕉(まつおばしょう)は,故郷の伊賀上野(いがうえの)から江戸へ向かう途中に名古屋に立ち寄る。この時に岡田野水(おかだやすい)ら名古屋の青年俳人らと芭蕉は,連句の会を興行した。
 
 
河合曾良.1649 
河合曾良
  河合曾良 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河合 曾良(かわい そら (1649年)慶安2年 - (1710年6月18日)宝永7年)は江戸時代の俳諧師。松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)に生まれる。長じて江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行。宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年に壱岐国(現長崎県壱岐市翌年に壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で病没。)で病没。享年62。
 
 
  蕉門の俳人 河合曽良   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  慶安2年(1649年)、信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)に生まれる。両親が亡くなったため伯母の養子となり、養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚に引き取られる。 深川の芭蕉庵近くに住み、芭蕉の世話をした。
 
 
  河合曾良の俳諧 - 熊野の歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉(まつおばしょう。1644〜1694)の門弟、河合曾良(かわいそら。1649〜1710)。
 
 
  河合曽良の生涯と墓所正願寺   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  曽良は、深川芭蕉庵の近隣に居を構え、芭蕉とは朝夕なく来往する間柄であった。元禄2年(1689年)に「おくのほそ道」の旅の同行者に選ばれ、その2年前にも、宗波とともに鹿島への観月の旅に同行している。元禄7年(1694年)5月、伊賀上野に帰郷する芭蕉を箱根まで見送ったが、これが芭蕉との最後の旅となった。
 
 
  河合曾良 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日))(しかしこの日に彼が死んだという記録が巡遣使随員の日誌に無いため、正確な没年月日はわかっていない。
 
 
  河合「曽良」忌300年祭を迎えて 勝本町   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳人、河合「曾良」が勝本のの知で没して、今年で=平成21年5月22日で300年回忌を迎える。… 日本を代表する松尾芭蕉と共に、河合曽良の名前も全国に知られている。その意味では全国に、壱岐を観光アピールするのは欠かせない人物である。
 
 
  河合曾良 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河合曾良 画像 - Google
 
 
  奥の細道行脚―『曾良日記』を読む [単行本]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  元禄二年におこなわれた芭蕉の奥羽北陸行脚。のちに『奥の細道』として結実するこの旅の様子を、随行者曾良は具に記録していた。日記全文の精緻な読解を通して、二人の旅の実相に迫る。
 
 
池西言水.1650/
     
向井去来.1651
向井去来
  向井去来 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  向井去来(むかい きょらい 慶安4年(1651年) - 宝永元年9月10日(1704年10月8日)))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。儒医向井元升の二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれる。堂上家に仕え武芸に優れていたが、若くして武士の身分をすてた。京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、松尾芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された。
 
 
  落柿舎と向井去来   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  落柿舎(らくししゃ)は嵯峨野観光の
 
 
  蕉門十哲 向井去来   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  長崎の生まれ、蕉門十哲の一人。  芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。  貞亨5年(1688年)5月15日、去来の妹千子(ちね)没  辞世 もえやすく又消やすき螢哉
 
 
  向井去来 生誕地/生誕地碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕉門十哲の一人として知られる向井去来は、儒医向井元升の次男として生まれています。記念碑は被爆建物として知られる新興善小学校の裏手にあります…
 
 
  向井去来 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  向井去来(むかい きょらい 慶安4年(1651年) - 宝永元年9月10日(1704年10月8日)))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。儒医向井元升の二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれる。堂上家に仕え武芸に優れていたが、若くして武士の身分をすてた。京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、松尾芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された。
 
 
  向井去来 「落柿舎記」(落柿舎の記)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持來らず、代がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王弔志にもはぢよ、若鳶烏にとられなば、天の帝のめぐみにももれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月の末、かしこにいたりぬ。
 
 
  向井去来 - 長崎んことばかたらんば   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  向井去来(1651年(慶安4)〜1704年(宝永元)9月10日)は、長崎聖堂を建立したことで知られる儒学者の向井元升(げんしょう)の次男として後興善町(現 興善町)で生まれた。幼名は慶千代、のち兼時、通称を平次郎といった。字を元淵、号を去来。
 
 
  芭蕉と去来 - ガイドブックにない長崎   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』。初秋の夕日が照りつけ残暑は衰えないが、風は秋の涼しさが感じられるという情景を詠んだ松尾芭蕉(1644〜1694)の句です。季節の変わり目を描いたこの句は、今時分の長崎にぴったりきます。すでに秋めいている北国とは違い、「長崎の秋は、くんちが終わってから」と言われ、本格的な秋の到来まで、もう半月ほど待たなければなりません。
 
 
  向井 去来 - 古典籍総合データベース   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  向井 去来 - 古典籍総合データベース
 
 
  落柿舎の去来 - Spice of Life 京の街角   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  商人『この庭の柿、全部買い取らせてもらいます』  その日の夜、盛大に風が吹き… そしてその翌朝  去来『あれま、柿の実全部落ちてしまいよった…』 商人『こりゃあきまへんな(笑)』  以来、向井去来は自分の句の最後にこう署名した
 
 
  向井去来 慶安4年(1651)〜宝永元年(1704.9.10)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
   肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生。生年の月日は不祥。本名向井平次郎。父は当代切っての医学者で、後に京に上って宮中儒医として名声を博す(現代の宮内庁病院長といったところか)。去来も、父の後を継いで医者を志す。 兄元端も宮中の儒医を勤める。
 
 
  向井去来の墓   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
   落柿舎(京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20)の北側にひっそりと佇む。「去来墓」の表示が無ければ分からないほど小さく目立たない墓である。  鴨川や 月見の客に 行きあたり
 
 
  向井去来 <関連書籍>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  向井去来 <関連書籍>
 
 
  向井去来・野沢凡兆 (単行本)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉七部集を代表する「猿蓑」の共編者である去来と凡兆。世に知られている去来の400句の中から200句、凡兆の130句からは100句を選び、それぞれの句に注解を付す。
 
 
  落柿舎 - 向井去来遺跡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  落柿舎について=落柿舎(らくししゃ)は元禄(げんろく)の俳人向井去来(はいじんむかいきょらい)の遺跡(いせき)である。去来は芭蕉(ばしょう)の門人にて師翁(しおう)の言葉に、「洛陽(らくよう)に去来ありて、鎮西(ちんぜい)に俳諧奉行(はいかいぶぎょう)なり」と称(たた え)られた。去来が落柿舎を営んだのは、 貞享(じょうきょう) 四年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄二年(1689)、 併(あわせ)て三度来庵す。元禄四年には四月十八日から五月四日迄滞留(までたいりゅう)し、その間に『嵯峨日記(さがにっき)』を誌(しる)した。 現在の落柿舎は、蝶夢ちょうむ門下の井上重厚じゅうこうが、明和めいわ 七年(1770)に再建したものにて、当時すでに去来墓は現在地にあった。重厚は嵯峨の人にて向井家の支族(しぞく)と云いう。…
 
 
服部嵐雪.1654
服部嵐雪  早雲禅寺
  服部嵐雪 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。江戸湯島生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。 服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であった。
 
 
  雪中庵服部嵐雪   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  雑司ヶ谷の鬼子母神表参道は、今日「みちくさ市」ってぇのが開催されていて鬼子母神の混雑が予想され作戦変更。 法明寺をやめ法明寺の東墓地があるという音大B館を目指す。
 
 
  蕉門十哲  服部嵐雪   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸の人。名は治助(はるすけ)。通称、彦兵衛。別号、雪中庵。   富二花月一  草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり    両の手に桃と桜や草の餅     元禄5年(1692年)3月3日、桃の節句に詠まれた句である。
 
 
  服部嵐雪 - 俳句案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  元日や晴てすずめのものがたり  /  正月も廿日に成て雑煮哉  /  ほつほつと喰摘あらす夫婦かな  /  三ツの朝三夕暮を見はやさん  /  初空や烏をのするうしの
 
 
  服部嵐雪の墓 - じゃらん   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸中期の俳人。芭蕉門下十哲の一人で,榎本其角と並び称された。芭蕉の死後,其角と江戸俳壇を二分し,門下に有名な俳人を多く出している。
 
 
  服部嵐雪 - 京都通百科事典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  服部嵐雪(はっとりらんせつ)は、江戸時代前期の俳諧師で、松尾芭蕉の高弟、雪門の祖とされる  芭蕉三哲・芭蕉十哲の一人  禅の修行を続け、内向的で柔和な温雅さな人柄が句にも表れ、質実な作品が多い  嵐雪の門(雪門)からは優れた俳人が輩出し、大島蓼太の時代には勢力を著しく拡大した
 
 
  服部嵐雪 - あのひと検索 spysee   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。江戸湯島生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。
 
 
  服部嵐雪 - Web書画ミュージアム   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸湯島に淡路出身の武家服部喜太夫高治の長男として生まれる。幼名、久馬之助。通称、孫之丞、彦兵衛など。別号、嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。ど武家奉公を続けながら延宝元年(1673年)松尾芭蕉に入門。元禄2年(1689)頃、武士を辞め俳諧宗匠となる。芭蕉没後、黄檗山下済雲方丈に参禅し「雪中庵不玄峯居士」となる。編著に『つちのえ辰のとし歳旦』『若水』など。
 
 
  服部嵐雪筆  「胡塞記(こさいのき)」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本作品は、芭蕉の高弟で武士であった服部嵐雪が、貞享2年(1685)から翌年の春にかけて井上相模守の御番の供として越後騒動後の越後高田城の警護に当たった折に、したためた紀行俳文の原本である。
 
 
  服部嵐雪(はっとり・らんせつ) 俳句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  服部嵐雪 梅一輪一輪ほどのあたたかさ 「玄峰集・庭の巻」(江戸前期)
 
 
  嵐雪・朝叟『その浜ゆふ』 - 熊野旅行記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉の門弟、嵐雪(らんせつ。服部嵐雪。1654〜1707)と朝叟による『その浜ゆふ(其浜木綿)』。
 
 
  服部嵐雪 (はっとりらんせつ) - 関心空間   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉の高弟のひとり。 この時期になると必ず口の端に上る一句、   梅一輪一輪ほどのあたたかさ  の作者である。200年以上前の人だと思うと少し不思議な感じがする。亀戸天神などでもそろそろ梅祭りの始まるころ。
 
 
  服部嵐雪 沙魚釣るや水村山廓酒旗の風   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  角川名句百選かるたに収められた服部嵐雪の「沙魚釣るや水村山廓酒旗の風」の指導案。
 
 
  梅一輪 一輪ほどの あたたかさ 服部嵐雪   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  服部嵐雪は、承応三(一六五四)年、江戸の生まれ。服部家は淡路出身の武家で、嵐雪も仕官のかたわら俳諧をたしなんでいたが、蕉門に入り、俳諧一途の道を志した。芭蕉は「草庵に桃桜あり、門人に其角、嵐雪あり」と称えた。温和な人柄が、そのまま平明な句風のなかにあらわれていると言われる。
 
 
  服部嵐雪 <蝸牛俳句文庫>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉の弟子であり、叙情豊かで技巧を弄さない、多彩な俳体を見せた服部嵐雪。よく知られる嵐雪の発句三百句を選び、注解を加える。  その他、服部嵐雪関連書籍 : 服部/嵐雪記1/嵐雪記3/嵐雪記5
 
 
内藤露沾.1655/
     
森川許六.1656
森川許六
  森川許六 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  森川 許六(もりかわ きょりく、明暦2年(1656年10月1日) - 正徳5年(1715年9月23日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士。蕉門十哲の一人。名は百仲。別号を五老井・無々居士・琢々庵などと称した。はじめ、和歌や俳諧を北村季吟などに学び、談林派の俳諧に属していた。その後、松尾芭蕉の門弟で蕉門十哲の一人である榎本其角に師事して蕉風に傾いた。俳諧のほか書や絵画など諸芸に秀でていた。
 
 
  森川許六 俳句案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  けふの春雪ふつたる事もあり  /  一きほひ六日の暁や打薺  /  古猫の相伴にあふ卯杖哉  /  三条のはしを越たる御慶かな  /  から鮭のゑぞは古手で御慶哉
 
 
  許六(その1)〜(その3)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  1) 卯の花に芦毛の馬の夜明けかな : 「卯の花が咲き乱れる野を馬が一頭走っていく。 芦毛の白い姿が遠くの地平から差す朝日にくっきりと浮かび上がってきた」という情景が湧いてくる 夜明けという言葉が示す空間と時間的な奥行きを背景に、卯の花と葦毛の馬という同じ白のイメージながら静的なものと動的なものを対照させ、そこに朝日の差し込む様子を描いた見事な句になっている。
 
 
  森川許六句碑 滋賀 永源寺 (6)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  途中に、森川許六句碑という大きな自然石の句碑がある。  この碑には「白雲に までも染め入る 紅葉かな」と刻まれている。まさにこの季節の美しい紅葉にふさわしい句である。
 
 
  森川許六 - 金沢美術工芸大学   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸時代前期の蕉門俳人。本名は森川百仲(ひゃくちゅう)、近江彦根藩士で三百石を領した。別号は五老井・風狂堂・碌々庵・菊阿仏など。生来多能にて槍剣・漢詩、特に絵画に優れ、俳諧は初め季吟流のちに常矩門に学んだという。家族の死なども原因して、元祿二年(一六八九)頃から閑寂美を専らとする蕉門俳諧への傾倒を強め、同五年江戸深川で芭蕉と対面。その軽みの境地を高く評価され『白砂人集』の相伝を受ける。
 
 
  森川許六 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  森川 許六(もりかわ きょりく、明暦2年8月14日(1656年10月1日) - 正徳5年8月26日(1715年9月23日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士。
 
 
  森川 許六 - 古典籍総合データベース   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  12件 検索語:[森川 許六]
 
 
  森川許六 - プロフィール - Yahoo!人物名鑑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  森川 許六(もりかわ きょりく、明暦2年8月14日(1656年10月1日) - 正徳5年8月26日(1715年9月23日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士。蕉門十哲の一人。名は百仲。別号を五老井・無々居士・琢々庵などと称した。はじめ、和歌や俳諧
 
 
  俳諧問答集 [文庫]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳諧問答集 (岩波文庫 黄 207-1) [文庫]   森川 許六 (著), 向井 去来 (著), 横沢 三郎
 
 
  俳諧問答 [古書] [文庫]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳諧問答 (1954年) (岩波文庫) [古書] [文庫]   森川 許六 (著), 向井 去来 (著), 横沢 三郎 (著)
 
 
  風俗文選 [古書] [文庫]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  風俗文選 (1949年) (岩波文庫) [古書] [文庫]   森川 許六 (著), 伊藤 松宇 (著)
 
 
越智越人.1656
越智越人
  越智越人 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  越智 越人(おち えつじん、1656年(明暦2年) - 1739年(元文4年)頃?)は、江戸時代前期の俳諧師。別号に槿花翁。尾張蕉門の重鎮で、蕉門十哲の一人。「更科紀行」の旅に同行した。 著作に不猫蛇(ふみょうじゃ)、猪の早太(いのはやた)、編集に鵲尾冠(しゃくびかん)、庭竈集(にわかまどしゅう)など。 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺」にある。名古屋市の史跡に指定され、同寺の境内入ってすぐに由緒書きがある。墓石には「負山氏越人叟之墓」と刻まれている。
 
 
  越智越人 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  越智 越人(おち えつじん、1656年(明暦2年) - 1739年(元文4年)頃?)は、江戸時代前期の俳諧師。別号に槿花翁(きんかおう)。尾張蕉門の重鎮で、蕉門十哲の一人。「更科紀行」の旅に同行した。
 
 
  越智越人 - うらやまし思ひきる時猫の恋   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  北陸に生まれ、名古屋で染物屋を営む。本名(通称?)は十蔵。別号は芦友、槿花翁、負山子など。越人という号は彼自身が「北越の人なれば越人と称す」としたためといわれる。 蕪村は彼を芭蕉十哲の一人に挙げている。事実、芭蕉の『更級紀行』に同行するなどし厚い信頼を得た人物であろうがその経歴は不明確である。彼が芭蕉に入門した時期やその行動、没年など諸文献を繙いても諸説、あるいは詳らかでない。
 
 
  越智越人 おち えつじん (明暦2年(1656)〜没年不詳)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  北越の人。越智十蔵。別号、負山子、槿花翁など。『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮。『更科紀行』に同行し、そのまま江戸まで同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場する。 『鵲尾冠』・『猫の耳』など。 芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。
 
 
  うらやまし猫の恋―越人と芭蕉 (単行本)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  うちつどい興じるさんざめきのまにまに、尾張・伊良湖・更科・江戸深川…夢のような旅路の果てに芭蕉に捨てられた男の歯軋りが聞こえる-。蕉門十哲のひとりとされる有力俳人・越智越人の数奇な生涯をたどる。
 
 
椎本才麿.1656/
     
上島鬼貫.1661
上島鬼貫 - 与謝蕪村筆鬼貫像
  上島鬼貫 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上島 鬼貫(うえしま おにつら、万治4年(1661年5月2日) - 元文3年(1738年9月15日))は江戸時代中期の俳諧師。摂津国でも有数の酒造業者の三男として生まれた。25歳で医学を志し大坂に出る。やがて仕官を求めて出仕した。松尾芭蕉とも親交を持つようになり、作風に芭蕉の影響を少なからず受けた。享保3年(1718年)『獨言(ひとりごと)』を刊行、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称された。平成3年(1991年)より、「鬼貫賞」が設けられ俳句コンテストが行われている。
 
 
  上島鬼貫   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上島鬼貫(万治四年(1661)〜元文三年(1738)は伊丹の有力な醸造家に生まれ、早くから俳諧に親しみました。 25歳で大坂に出て、筑後の三池藩などに経済担当として仕えました。 俳諧については、当時流行の伊丹風にあきたらず、「まことの外に俳諧なし」と主張。 東の芭蕉、西の鬼貫と並び称されています。
 
 
  上島鬼貫   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  竹のこや雪隠にまで嵯峨の坊  /  鶯の鳴けば何やらなつかしう    摂津伊丹の人。名は宗邇(むねちか)、幼名竹松、秀栄(ひでのり)。通称を与惣兵衛、利左衛門。晩年は平泉惣右衛門と称す。
 
 
  鬼貫の句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  鬼貫の句碑は生地の伊丹市内には数多く見られるが、大阪で確認出来たのは西区・四ツ橋跡、天王寺区・浄国寺、北区・鶴満寺、豊中・服部天神の4ヶ所であった。
 
 
  伊丹の歌碑めぐり   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  月なくて 昼は霞むや こやの池  上島鬼貫 自筆集字 「鬼貫句選」より
 
 
  上島鬼貫 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上島 鬼貫(うえしま おにつら、万治4年4月4日(1661年5月2日) - 元文3年8月2日(1738年9月15日))は江戸時代中期の俳諧師。
 
 
  上島鬼貫 - 鰻谷にゆかりの元禄期の俳人   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸前期の俳人、攝津伊丹の人。名は宗邇(むねちか)別号、仏兄・槿花翁など。松江重頼・池田宗旦に学びまた芭蕉の影響を受けた。「誠の外に俳諧なしと」大悟。伊丹風の中堅となった。  姓は上島(出自からいうと「かみしま」呼称は「うえしま」晩年は平泉姓に改めた 昭和17年7月8日発行「鰻谷中之町の今昔」より抜粋。本書は皇紀二千六百年を記念して発刊されました。
 
 
  俳人・上島鬼貫(うえしまおにつら) - 伊丹市   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉と並ぶ俳人で「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた上島鬼貫は、伊丹出身です。… 鬼貫の遠い祖先は武士の名家だったため、武士になりたいと熱望した鬼貫は、諸藩への短期間の武家奉公を繰り返します。 しかし鬼貫は、「誠のほかに俳諧なし」という言葉どおり、俳諧には真摯な態度を貫き、芭蕉と並ぶ評価を受けました。
 
 
  上島鬼貫(うえしま おにつら) 1661−1783   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  鬼貫とは〈鬼の貫之〉、即ち紀貫之をもじったもの(岡田利兵衛(1892〜1982))俳諧を古今和歌に対抗して強く意識したものと思われる。 鬼貫の仲間の上島青人は明らかに山部赤人に対抗したもの。上島の読み方は岡田利兵衛氏の「鬼貫の世界」によった。
 
 
  上島鬼貫の墓   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  通説では、鳳林寺に葬られたといわれているが、鶴満寺の過去帳には「仙林則翁居士 元文戊午年八月二日圓寂七十八才 俗名上島與惣兵衛」と記されてあるとのことで、鬼貫が葬られたのは鶴満寺の可能性もある。 句碑 は四ツ橋、豊中・服部天神などにある。
 
 
  上島鬼貫 [単行本]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  元禄文化華やかな時代を舞台に、常に自らの殻を破って前向きに生きた「おにつら」という人間の魅力を、俳句を仲立ちとした交遊を通して描く。
 
 
宝井(榎本)其角.1661
宝井其角
  宝井其角 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宝井 其角(たからい きかく、 寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。 江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(1673年 - 1681年)の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。… 蕉門十哲の第一の門弟と言われている。
 
 
  宝井其角句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  所在地:富田浜町  最寄駅:JR富田浜駅  富田浜病院を南に少し行ったところにあります。松の木が点在して昔の海岸を偲ばせています。
 
 
  其角の俳句 - 実りのとき   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  別項「江戸俳句」にあるように、芭蕉とその弟子宝井其角は句風が両極といっていいほど異なります。このように傾向が違う俳人を弟子の筆頭に取り立てた、芭蕉のふところの深さが面白いと思います。
 
 
  宝井其角 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宝井 其角(たからい きかく、 寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。
 
 
  其角と俳句と破れし初恋 宝井其角   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宝井其角とくりゃもちろん松尾芭蕉のお弟子さん数ある中で、まず筆頭にあがる名前である。其角は江戸に生まれ幼少の頃から頭がよく、1を聞いて10を知るどころか100の先までわかっちゃうってんだから凄い。並みの子と違う、つまり規格(其角)外だなんて言ったりして。殊に語学に通じていて今日でいうオ受験で親が心配する事なんざ何も無かったという。
 
 
  宝井其角 - 新しくまた懐かしく…(俳句日誌)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宝井其角(たからい きかく 1661年寛文1年7月17日〜1707年宝永4年2月29日) 47歳(母方の姓で榎本其角とも) 俳諧師 蕉門十哲の一人 後世の俳人が其角の俳句の世界に敬意を表して様々な鑑賞俳句を詠んでいる。  芭蕉忌や其角嵐雪右左 正岡子規
 
 
  其角マップ 宝井其角(1661.7.17〜1707.2.30)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本橋茅場町・其角住居跡  其角の姓は、母方の姓をとっていう場合は榎下其角(えのもときかく)いい、後に宝井姓を名のりましたので、宝井其角と言います。  HOME / 其角年譜 / 其角マップ / 其角を語る会 / 追善俳諧法要 / シンポジウム / 其角作品 / 写真集
 
 
  大高源五と宝井其角の出会はフィクションか?   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  十二月十三日は年の暮れの煤払いの日になっていました。源五さんは煤竹売りに変装して吉良邸の様子を探っていました。その帰りに両国橋に来た時、其角さんと出会いました。 源五さんは本心をさとられないように知らぬ振りをして通り過ぎようとしました。しかし、気がついた其角さんはあまりの身なりに哀れを感じて、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠むと、源五さんは「あしたまたるる その宝船」と返歌しました。
 
 
  榎本其角(宝井其角)−言葉で描かれた「富士山」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  白雲の西に行方や普賢富士  /  無い山の富士に並ぶや秋の昏  /  富士に入日を空蝉やけふの月  /  白雪にくろき若衆や冨士まうで  /  霞消て富士をはだかに雪肥たり  /  富士の雪蠅は酒屋に残りけり
 
 
  向島慕情・快気祝い 2、蕉門宝井其角と三囲(みめぐり)神社    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸風という洒脱な俳句、芭蕉十哲の一番手、宝井其角は俳句だけではなく、その人間が大好きですね。江戸城お抱えの医師の子として、呉服屋三井の絹を裂く音が聞こえる町、傘屋、下駄屋の職人の集まる通称「照れ降れ横丁」で生まれ、幼少の頃から聖童と呼ばれていました。
 
 
  宝井其角  たからい きかく  (寛文元年(1661)7月17日〜宝永2年(1705)2月29日)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸下町堀江町(一説にはお玉が池)に、医者竹下東順の長子として生まれた。 医者を志すとともに、都会的な環境の中で文芸や四書五経など十分な教養教育を受けた。長ずるに及んで文芸に傾倒し、蕉門第一の門弟となる。一方、「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」 (『武蔵曲』)・「暁の反吐は隣か時鳥」 (『焦尾琴』)という調子で、 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった。
 
 
  宝井其角 画像 - google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宝井其角 画像 - google
 
 
  元禄の奇才 宝井其角 (単行本)    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  延宝八年まで/漢詩文調の時代/俳諧師への道/俳諧師其角/洒落風への転回/芭蕉の死/晩年の其角/他。  洒落風俳諧と呼ばれる独自の俳諧を形成した其角の全生涯が明らかに。
 
 
   服部嵐雪の墓 - じゃらん    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸中期の俳人。芭蕉門下十哲の一人で,榎本其角と並び称された。芭蕉の死後,其角と江戸俳壇を二分し,門下に有名な俳人を多く出している。
 
 
  森川許六 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
   森川 許六(もりかわ きょりく、明暦2年(1656年10月1日) - 正徳5年(1715年9月23日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士。蕉門十哲の一人。名は百仲。別号を五老井・無々居士・琢々庵などと称した。はじめ、和歌や俳諧を北村季吟などに学び、談林派の俳諧に属していた。その後、松尾芭蕉の門弟で蕉門十哲の一人である榎本其角に師事して蕉風に傾いた。俳諧のほか書や絵画など諸芸に秀でていた。
 
 
  宝井其角 - 新しくまた懐かしく…(俳句日誌)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  宝井其角(たからい きかく 1661年寛文1年7月17日〜1707年宝永4年2月29日) 47歳(母方の姓で榎本其角とも) 俳諧師 蕉門十哲の一人 後世の俳人が其角の俳句の世界に敬意を表して様々な鑑賞俳句を詠んでいる。  芭蕉忌や其角嵐雪右左 正岡子規
 
 
   榎本其角(宝井其角)−言葉で描かれた「富士山」    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  白雲の西に行方や普賢富士  /  無い山の富士に並ぶや秋の昏  /  富士に入日を空蝉やけふの月  /  白雪にくろき若衆や冨士まうで  /  霞消て富士をはだかに雪肥たり  /  富士の雪蠅は酒屋に残りけり
 
 
志太野坡.1662
志太野坡
  志太野坡 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  志太 野坡(しだ やば、寛文2年(1662年2月21日) - 元文5年(1740年1月31日))は、江戸時代前期の俳諧師。別号に野馬、樗木社。蕉門十哲の一人とされ、「軽み」の俳風では随一ともいわれた。元々は両替商の三井越後屋に奉公し、番頭にまで登りつめた。宝井其角に俳諧を学んだがのちに松尾芭蕉に入門する。 「炭俵」を編集した。芭蕉没後、大阪に移り、俳諧に専念した。門人は西国四国中国に1000人を越えるほどだったという。
 
 
  志太野坡  しだ やば   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  越前出身。利牛と同じく両替商三井越後屋の番頭であったが、後志して職業的俳諧師として生涯をおくる。「軽み」の俳風では蕉門随一の人。才能豊かな蕉門の若手であった。晩年の芭蕉は野坡に期待するところ大であった。1997年発見の『おくの細道』真蹟本は、野坡が芭蕉から受けたものであった。『炭俵』編集人である。
 
 
  志太野坡 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  志太 野坡(しだ やば、寛文2年1月3日(1662年2月21日) - 元文5年1月3日(1740年1月31日))は、江戸時代前期の俳諧師。
 
 
  鉢まきをとれば若衆ぞ大根引  志太野坡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  季題・大根引 (だいこんひき、だいこひきとも)  志太野坡 (しだやば・芭蕉の弟子)
 
 
  芭蕉関連俳書  『炭俵』(野坡・孤屋・利牛共編)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ひと日芭蕉旅行の首途に、やつかれが手を携えて再会の期を契り、かつ此等の集の事に及て、「かの冬籠の夜、きり火桶のもとにより、くぬぎ炭のふる哥をうちずしつるうつりに、「炭だはらといへるは誹也けり」と独ごちたるを、小子聞をりてよしとおもひうるとや、此しうをえらぶ媒と成にたり。この心もて宜しう序書てよ」と云捨てわかれぬ。
 
 
  芭蕉と野坡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸末期〜明治初期に活躍した佐々木泉玄という人の「俳諧炭俵図」という屏風絵を見て来ました。芭蕉と弟子の野坡の詠んだ句を絵にしたものらしいですが、志太野坡(しだ・やば)って越前の出身で「炭俵」の編集者らしいです。
 
 
  志太野坡の墓   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  志太野坡は江戸時代初期の俳人で、松尾芭蕉の「蕉門十哲」の1人。1663年(寛文3年)越前・福井に生まれた。幼名を武田庄一郎、通称を弥助、半次郎といった。若い頃から江戸に出て、両替商三井越後屋に奉公、番頭まで勤めた。
 
 
内藤丈草.1662
内藤丈草
  内藤丈草 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  内藤 丈草(ないとう じょうそう、寛文2年(1662年) - 元禄17年(1704年3月29日))は現在の愛知県犬山市出身の江戸時代前・中期の俳人。名は本常(もとつね)。通称は林右衛門、号を丈草、別号を仏幻庵など。松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人となった。漢学を穂積武平、禅を玉堂和尚に学ぶ。元禄元年(1688年)異母弟に家督を譲り、翌年芭蕉に入門。元禄9年(1696年)、滋賀県大津市竜が丘、(JR膳所駅南隣)に仏幻庵を結ぶ。
 
 
  炬燵   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  丈草は、じょうそう、と読む。松尾芭蕉の高弟の一人であった彼は、丈の高い草のように目立ったが、その人生は短いものだった。内藤家の長男として生まれた丈草は、尾張の国(現在の愛知県)の犬山の武士の家を継ぐはずだったが、出家して琵琶湖のほとりに小さな庵を構えた。
 
 
  丈草(その1)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  1) 藍つぼにきれを失う寒さかな : 「藍つぼに切れをひたして染物の仕事をしているとあっという一瞬にきれが手から離れつぼの底に沈んでいった。 いろいろと探してみるが見つからない。探す内に手足が冷たくなり、寒さが一層足元から這い上がってくる。」という句であろう。
 
 
  内藤丈草 俳句案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  裏門の竹にひびくや鉢叩き  /  うづくまる薬の下の寒さ哉  /  藍壺にきれを失ふ寒さかな  /  雪よりは寒し白髪に冬の月  /  幾人かしぐれかけぬく勢田の橋
 
 
  内藤丈草 ないとう じょうそう   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれる。幼くして母に死別し、継母に はたくさんの子供が産まれ、丈草に注がれるべき両親の愛情は薄かった。このトラウマは、丈草の生涯つきまとうこととなる。  血を分けし身とは思はず蚊のにくさ
 
 
  四軒屋を村と呼びけり時鳥  内藤丈草   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉門下 【江戸の俳諧師】
 
 
  丈草発句集 / 内藤丈草 [著] ; [蝶夢] [編]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  丈草発句集 / 内藤丈草 [著] ; [蝶夢] [編]
 
 
  内藤丈草 [単行本]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉に深い敬慕の念を向けた内藤丈草。芭蕉に入門し、死別後、亡師追悼を使命として過した丈草の句の中から300句を選び、鑑賞を加える。〈ソフトカバー〉
 
 
各務支考.1665
各務支考 獅子庵…獅子庵は、支考が北野に戻ってからの建築として、290年余の歳月を経ていますから現在まで、保っていたのが、不思議かもしれません。     梅花仏 
  各務支考 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  各務支考(かがみ しこう、寛文5年(1665年) - 享保16年(1731年3月14日))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。村瀬吉三郎の子。別号に東華房、西華房、獅子庵などがある。美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜市)出身。幼少より俳才を発揮し、元禄のころに松尾芭蕉の門下に入る。森川許六とともに論客と知られたが、性格は利己主義的だとして悪評もあった。後年、美濃派の育成に努めた。著書は『笈日記』・『俳諧十論』・『葛の松原』など多数。
 
 
  大智寺と各務支考   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉の十哲の一人、美濃派俳諧の始祖各務支考は1665年山県郡北野村西山の村瀬家に生まれましたが幼少期に母を亡くし、姉の嫁ぎ先に入籍し、各務の姓となりました。  その後、6才〜19才までを大智寺第4世の弟子として大智寺に住居しました。
 
 
  各務支考 俳句案内   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  念仏と豆腐とふとし老の春  /  梅が香の筋に立よる初日哉  /  椽に寐る情や梅に小豆粥  /  ちりぢりに春やぼたんの花の上  /  うぐひすの肝つぶしたる寒さ哉
 
 
  蕉門十哲  各務支考   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  支考字盤子。號二東花西花一。亦號二獅子庵一。濃州之産也。入二蕉門一。業二風雅一。一方門人也。先師滅後遊二東西南北一。説二風雅一而助二諸生一。故往々慕二支考風一者多矣。中遇二居于勢州山田一。後歸二故國一作二俳書數篇一。辨二俳諧之論一。
 
 
  俳句の神様 各務支考    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉の門下生の一人で、芭蕉が詠んだ句をすべて書に残しました。 芭蕉の弟子になり、才能を発揮して俳諧の勉強をし、後に蕉門十哲(すぐれた弟子十人)に上げられました。のちに美濃派を誕生させ、俳諧の神様といわれています。
 
 
  各務支考 かがみ しこう    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田 からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 
 
  各務支考ゆかり - 大智寺   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松尾芭蕉俳句を全国に広め、俳論に秀でた各務支考  松尾芭蕉の十哲の一人、美濃派俳諧の始祖各務支考は1665年山県郡北野村西山の村瀬家に生まれました が幼少期に母を亡くし、姉の嫁ぎ先に入籍し、各務の姓となりました。 その後、6才〜19才までを大智寺第4世の弟子として大智寺に住居しました。 当時の大智寺には多数の修業僧や小僧さんが生活しており、支考もまたその分に応じた仕事を続けつつ、文字・漢籍の知識を修得し、人間支考の基礎が養われたようです。 19才で還俗し、元禄3年芭蕉と出会ってからも…
 
 
  各務支考の地方行脚と俳諧の心   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  芭蕉が生前、四国に渡って来なかったのは、惜しみても余りある。 それでも、例えば、讃岐(香川県)には芭蕉の足跡がなくとも、句碑が22基も建てられている。 その弟子各務支考は、行脚が多いとは言えないが、宝永2年讃岐に渡り、各地で発句を作っている。 金毘羅山、神法楽…松葉散る嵐やそつと神の幣
 
 
  C-076 各務支考  Kagami Shikou   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  各務支考/掛軸、絵画の販売、鑑定、買取り/近世、近代書画専門長良川画廊  長谷川画廊
 
 
  各務支考 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  各務支考(かがみ しこう、寛文5年(1665年) - 享保16年2月7日(1731年3月14日))は、江戸時代前期の俳諧師。
 
 
  各務 支考 - 古典籍総合データベース   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  各務 支考 - 古典籍総合データベース
 
 
  梢まで来て居る秋の暑さかな  各務 支考   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  梢まで来て居る秋の暑さかな  各務 支考(かがみしこう)芭蕉の弟子焦門十哲のひとり…、各務支考の句を鑑賞してみます。 この句、解釈に困ってしまいました。いったいどういう意味でしょう。暑いさ中、梢に秋が来ているのか、それとも秋なのに梢に暑さが戻っているのか。作者が梢に見たのは、秋なのか? 暑さなのか? さて、どちらでしょう。…
 
 
  各務支考句碑(下関市吉母 黒嶋観音) - 北九州文学散策 173(各務支考)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  各務支考(かがみしこう)。寛文5年(1665)〜享保16年(1731)。江戸時代前期の俳人。松尾芭蕉の十哲の一人。美濃派俳諧の始祖。師子老人は号。 美濃国山県郡北野村(現岐阜市)に生まれました。村瀬吉三郎の息子。幼少の頃、父母を失い、禅寺大智寺に小僧として預けられましたが、姉の嫁ぎ先各務甚平の養子となりました。
 
 
  俳聖芭蕉と俳魔支考 [単行本]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕉風を諸国に広めた最大の功労者各務支考の、芭蕉死後も続いた活動のすべて  芭蕉と支考が師弟として過ごしたのはわずかに4、5年だが、芭蕉が俳聖と崇められた背景には、蕉風を賞揚した俳論の刊行、美濃派の全国的展開による蕉風の伝播など、“俳魔”支考の果たした大きな役割があった。
 
 
中川乙由.1675/
     
立花北枝.〜1718/
     
加賀千代女.1703
加賀千代女
  加賀千代女 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年) - 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。 朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。 白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。 加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をたしなんでいたという。
 
 
  千代女の里俳句館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  投句する/千代女の時代/投句へのいざない/千代女の里俳句館について
 
 
  加賀千代女 新年の句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ちからなら蝶まけさせむ今朝の春  /  人なみに日数を持や今朝の春  /  うつくしい夢見直すや花の春  /  よき事の目にもあまるや花の春  /  花の春や有の儘なる我ながら
 
 
  加賀千代女 - つれづれ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  夕顔や女子(をなご)の肌の見ゆる時
 
 
  魚らん坂の秋、朝顔の井戸☆   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  三田の魚らん坂には名だたる色んなお寺が 魚籃寺のお隣の薬王寺には「朝顔の井戸」が 加賀の千代女の あさがおにつるべとられてもらい水 の井戸のこと  
 
 
  加賀千代女 - 増殖する俳句歳時記   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  川ばかり闇はながれて蛍かな   千代女は、元禄から安永へと18世紀の七十三年間を生きた俳人。加賀国松任(現・石川県石川郡松任町)の生まれだったので、通称を「加賀千代女」という。美人の誉れ高く、何人もの男がそのことを書き残している。若年時の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」の心優しさで世に知られ、しきりに喧伝もされた。
 
 
  加賀千代女 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年) - 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。
 
 
  加賀千代女  朝顔の句 - 常陸太田市   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  『朝顔につるべとられてもらい水』有名な江戸期の句。この機を逃すまいと調べてみた。この句は 加賀千代女(かがのちよじょ、1703年(元禄16年) - 1775年10月2日(安永4年9月8日))の代表作。千代女は、俳人。号は草風、法名は素園。 加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。12歳の頃、岸弥左衛門の弟子となり、17才で各務支考(かがみしこう)に才能を認められ全国に名を知られるようになった。
 
 
  加賀の千代女 (かがのちよじょ) - 白山市   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「朝顔や つるべとられて もらひ水」の句で広く知られる加賀の千代女は、元禄16年(1703)に加賀国松任(現白山市内)の表具師の娘として生まれました。幼年期から俳諧をたしなんだ千代女は芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)にその才能を認められ、生涯にわたり句作に励みました。
 
 
  心あったまる! 加賀千代女  名作 (裏石川県)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  和こころ舞も石川と言う事で 加賀の国 (石川県) の名言を、、、、、、 おそらく、石川の人も知らないと思いますが、、、石川県産まれの 俳人 加賀千代女が 歌った!!名言
 
 
  俳諧逸話(三)加賀千代女 - 齋藤百鬼の俳句閑日   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  千代女は加賀の松任(まつとう)の人にて、幼きより風流の志ありて、俳諧を嗜む。しかれども、其の師を得ず。是れかれ行脚の人に問ふに、美濃の盧元坊を称することみな同じ。 ここにして殊更に行きて学ばむとおもへるに、折りしも行脚して来りしかば、其の旅館に就て相見を乞ひ、志をのぶ。
 
 
  百日紅と加賀千代女の句と葛飾北斎 - うらら雑記帳   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀千代女   いくらでも咲く・・・咲きながら散らしてゆく・・・どれだけ散っても枯れるということのない・・・ 散り続け、しかも、咲き続ける桜・・・ そしてこの花の特徴と江戸の浮世絵師葛飾北斎がダブります。・・・
 
 
  加賀千代女(松任千代女) - 国際日本文化研究センター   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  千代女は加賀の松任の人にて、幼キより風流の志ありて、俳諧をたしむ。しかれども其師をえず。是かれ行脚の人にとふに、美濃の盧元坊を称することみな同じ。
 
 
  加賀の千代女(加賀國松任の俳人)にまつわる歴史逸話   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  千代女は、1714年(正徳4年)、12才の頃、岸屋弥左衛門(きしやざえもん、本吉の肝煎、19才年上)に弟子入りし、俳諧の手ほどきを受けたと言われています。1719年(享保4年)、千代女、17才の時、松尾芭蕉の門下の一人、各務支考(かがみしこう)の訪問を受け、、支考の面前で「行春(ゆくはる)の 尾やそのままに かきつばた」、「稲妻の 裾(すそ)をぬらすや 水の上」の2句を詠(よ)み上げ、「あたまからふしぎの名人」と讃えられて、日本全国に名が知れ渡りました。
 
 
  珍品ー加賀の千代女の俳句をテーマの長絵 - 東洋古美術 青魚洞   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  朝桜楼国芳の長絵(浮世絵)加賀の国千代女「朝顔に つるべ取られて もらい水」の俳句入り、この長絵は上部に書かれた俳句をテーマにして描かれて、判りやすいし、芭蕉門下の千代女も全国ネットです。
 
 
  ◇ 「朝顔や」色あせぬ感受性⇒俳人・加賀千代女の資料発掘 (2018/6/13)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「朝顔や釣瓶(つるべ)とられてもらひ水」で知られる俳人、加賀千代女(かがのちよじょ)(1703〜75年)は加賀国松任町(現在の石川県白山市)に生まれ、幼いころから俳諧に親しんだ。17歳の時に、松尾芭蕉の門人で諸国を行脚した各務支考(かがみしこう)に認められ、彼女の名は全国に広まった。 詠んだ題材は植物が多い。全体の4割近くを占め、朝顔のほか、梅、桜、柳などの季題を好んだ。繊細な感受性や情味の細や…
 
 
  「加賀千代女」検索   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
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  加賀千代女の俳句 100選 −春夏秋冬−   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  加賀千代女の俳句 100選 −春夏秋冬−
 
 
炭 太祇.1709/
     
与謝蕪村.1716
与謝蕪村.
  与謝蕪村 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、男性、1716年(享保元年)生月日不詳 - 1784年1月17日 (天明3年12月25日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、本名や通称は不明。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
 
 
  蕪村を歩く   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生誕の地毛馬を往く / 終焉の地釘隠町 / 京都 島原界隈 / 蕪村の眠る 金福寺 / 日本橋石町 時の鐘跡 / 探索 日記 / 京都・伏見を歩く / 京都・橋本を歩く / 宇治田原町を歩く
 
 
  『蕪村全句集』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  秋もはや其の蜩(ひぐらし)の命かな 立ち聞きのここちこそすれ鹿の声 蜻(こほろぎ)や相如が絃のきるる時 秋の始まりの句だ。「其の蜩」は「その日暮らし」とも読めて、「その」が効いている。「相如が絃」は司馬相如が卓文君の恋情をもよおして弾いた琴のこと、その絃がぷつりと切れたかのようにコオロギが鳴きやんだという一瞬の趣向である。虫の音というもの、ずっと鳴いているときよりも、ぷつんと途絶えたときに、こちらの耳がぴくんと動く。
 
 
  蕪村遺稿本文   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  以下は、重田悦子氏と重田仁美氏ならびに高澤良一氏のご労作 この翻刻は河東碧梧桐(昭和十二年死去)著蕪村新十一部集のなかにある蕪村遺稿です。
 
 
  与謝蕪村を読む   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村の句を田中空音が選んで鑑賞したものです。鑑賞した句が並べてあります。 参照させてもらった書籍 岩波文庫/蕪村俳句集/尾形仂校注
 
 
  四国いしぶみ物語り   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  門を出れば我も行人秋のくれ  蕪村  丸亀市富屋町にある妙法寺は一名蕪村寺とも言われている。本堂前に山の形をした蕪村の句碑がある。ここに蕪村は一ヶ月ほど滞在し多くのふすま絵などを描いた。蘇鉄の図、寿老人の図、寒山拾得図など6点の作品が秘蔵されている。
 
 
  与謝蕪村 人名辞典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の俳人・画家。松尾芭蕉、小林一茶と並び、江戸俳諧を代表する人物であり、池大雅とともに日本南画の大成者でもある。
 
 
  蕪村論と石華舎目録   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村の俳句、詩、絵画に関して書き留めた文章をまとめてみました。一部、英語に訳したものもございます。石華舎では、蕪村自身と蕪村に関連する人たちの絵画、墨蹟、俳書、研究文献などを、レプリカや欧文文献なども含めて、収集することにつとめています。
 
 
  俳句の歴史・与謝蕪村   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村(1716〜1783) 18世紀には連歌形式の俳諧は下火になり、俳人たちは発句の制作に注力するようになった。俳人であると同時に優れた画家でもあった蕪村は、絵画的で光に満ちた発句を数多く書き残し、鮮明なイメージを言語によって喚起することに成功した。
 
 
  蕪村が作っていた俳歌   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  なの花や月は東に日は西に   春の海ひねもすのたりのたりかな  秋風におくれて吹くや秋の風   静さに堪えて水澄むたにしかな
 
 
  与謝蕪村の句の中から、   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  しら梅の枯れ木にもどる月夜かな/梅遠近南すべく北すべく/やぶ入りの夢や小豆(あづき)の煮(に)えるうち/遅き日のつもりて遠きむかしかな/春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな/花の香や嵯峨のともし火消ゆる時/菜の花や月は東に日は西に
 
 
  与謝蕪村 平凡なる非凡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、後に改姓。幼児より絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野巴人に俳諧を学び、正風の中興を唱える。
 
 
  与謝蕪村 (よさのぶそん)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  烏山出身の早野巴人(はやのはじん)は江戸にでて,其角(きかく)・嵐雪に学び、後上京し京都俳壇で重きをなしたが、元文二年(1737)江戸に戻り、日本橋石町鐘楼(しょうろう)のほとりに住まいを定めた。翌年、内弟子の与謝蕪村にその夜半亭(やはんてい)を譲った。寛保(かんぽう)二年((1742)蕪村は師を失い、結城の砂岡雁宕(すなおかがんとう)のもとに身を寄せた。
 
 
  蕪村の俳句集 与謝蕪村   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  【春の句】 春雨や暮れなむとしてけふもあり  【夏の句】 愁(うれ)ひつつ岡にのぼれば花いばら  【秋の句】 朝顔や一輪(いちりん)深き淵(ふち)のいろ  【冬の句】 易水(えきすゐ)にねぶか流るる寒さかな  
 
 
  ★天台宗妙法寺〜蕪村寺〜   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村が明和3(1766)年秋から同5(1768)年の夏にかけて讃岐国(香川県)を訪れ、当山に滞在して絵を残したことから、妙法寺は「蕪村寺・ぶそんでら」ともいわれている。
 
 
  与謝蕪村 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。
 
 
  ビバ・俳句!蕪村・放哉・山頭火 - 名句60選 -   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  生活費の為に絵筆を握り、画業を優先していた蕪村が、50歳を過ぎて俳諧の活動を本格化した時、友人たちは
 
 
  蕪村に関する収蔵品 池田市立歴史民俗資料館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕪村に関する収蔵品 池田市立歴史民俗資料館
 
 
  与謝蕪村宅跡   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村(1716〜83)は摂津出身の俳人。江戸で俳句を学んだのち上洛し,その後居を転々としたが,59歳の時この地にあった路地の南に居を構えて絵画や俳句の創作活動を行い,ここで没した。
 
 
  妙楽寺蕪村句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  郷之口の妙楽寺境内には、江戸時代を代表する俳人のひとりで、画人としてもその才能を高く評価されている与謝蕪村の句を記した碑が建っています。句碑は大正15年、当時の好川海堂住職により、宇治田原に遺された蕪村の真跡から「見のこしの茸のかほりや宇治拾遺」と刻まれています。
 
 
  与謝蕪村の句碑(1)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村は俳諧・絵画に偉大な足跡を残した文人である。松尾芭蕉や小林一茶とともに近世俳諧史を代表する俳人であり、画人としては、池大雅や、円山応挙と並び称される巨匠である。
 
 
  与謝蕪村の句碑(2)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大阪市北区茶屋町梅田コマ劇場前の広場に「菜の花や 月は東に 日は西に」の句碑がある。/守口市佐太中町「佐太天神宮」の境内にある句碑。『窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな』/蕪村が晩年の1780年(安永9年)生まれ故郷の毛馬村の近く、「源八の渡し」を渡ったとき詠んだ句 「源八を わたりて梅の あるじかな」の句碑
 
 
  『蕪村生誕地』の碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  淀川を毛馬の閘門(こうもん)へと下っていくと閘門にほど近い土手の片端に『蕪村生誕地』の碑があるのに気付きます。 春風や 堤長うして 家遠し 碑に記されたこの句は『春風馬提曲』の中の一句。 馬提とは毛馬の堤の意。
 
 
  与謝蕪村宅跡(終焉の地)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕪村は享保元年(一七一六年)摂津國東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農に生まれたと言われている。… 蕪村の幻の日記に次の様にしるされている。「安永三年十一月某日(蕪村五十九歳の時)
 
 
  蕪村句碑めぐりコース 結城市   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  ショートコース:約7.0キロメートル,約2時間/ロングコース:約12.0キロメートル,約3時間30分
 
 
  史跡めぐり 第1回 結城と与謝蕪村   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸時代後期のすぐれた画人・俳人として知られた与謝蕪村は、 摂津国東成郡毛馬村(現大阪市)に生まれた。江戸に出て 書、画、漢詩等を学び、夜半亭宗阿=早野巴人の門に俳諧を学んだ。師の巴人の死後、江戸俳壇に見切りをつけ、同門で結城出身の砂岡雁宕を頼って寛保2年(1742年)秋、結城にやってきた。
 
 
  与謝野町加悦の里 句碑と歌碑めぐり   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  かつて与謝蕪村・与謝野晶子らが訪れた短歌と俳句のまち、与謝野町加悦の里。短歌と俳句の殿堂・江山文庫をはじめ、町の各所には当地ゆかりの文人たちが詠んだ俳句や短歌を刻んだ石碑があります
 
 
  蕪村全句集 <書籍>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕪村発句をより深く理解するために、季題意識を重視し、なおかつ現行の歳事記的配列とは異なる、「古今集」以来の和歌、連歌、俳諧などの集のスタイルにならい配列。
 
 
  与謝蕪村 <書籍> 12件   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  与謝蕪村 <書籍> 12件 Amazon.co.jp
 
 
  郷愁の詩人 与謝蕪村 <書籍>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  者は「君あしたに去りぬ.ゆうべの心ちぢに何ぞ遥かなる……」の詩を引用し,作者の名をかくしてこれを明治の新体詩人の作といっても人は決して怪まないだろう,と述べている.蕪村をいち早く認めたのは子規だが,蕪村の中にみずみずしい浪曼性を見出したのが朔太郎であり,その評価は今もゆるぎない. (解説 山下一海)
 
 
  与謝蕪村 <書籍> 谷地快一編   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句と南宗画の二つの領域で活躍した蕪村の芸術精神の成長と本質を句論、絵画論、漢詩論から探る入門書。
 
 
  与謝蕪村 <書籍> 安東次男著   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  蕪村は、正岡子規によって発掘されて芭蕉以上の評価を受け、萩原朔太郎によりその浪漫的な郷愁の詩人としての一面が強調された。本書では在来の安易な解釈を斥けて、一字一音一句をもゆるがせにしない批評眼で、画人蕪村・俳人蕪村が渾然一体となる詩心の神髄を解明する。
 
 
  《新潮日本古典集成》与謝蕪村集 <書籍>   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  美酒に宝玉をひたしたような、蕪村の詩の世界を味わい楽しむ――『蕪村句集』の全評釈、『春風馬堤ノ曲』『新花つみ』・洒脱な俳文等の、個性あふれる清新な解釈。
 
 
  詩人 与謝蕪村の世界 <書籍>  著者: 森本哲郎   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  江戸の詩人、与謝蕪村。彼は大飢饉や倹約令が打ち続く時代に貧しい生活を送りながらも、その現実に左右されることのない独自の美の世界を俳諧や絵画の中に構築した。彼の努力と天与の才が交錯する蕪村芸術の神髄を、芭蕉や漱石の俳句、大雅の絵画などのすぐれた作品と対比しつつ説く。
 
 
  サルスベリと加賀千代女   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  サルスベリ(百日紅)はミソハギ科、中国南部原産の落葉高木で江戸時代初期に渡来といわれる。『恋人と百日後に逢うことを約束した乙女が、約束の百日目の直前に他界、その死んだ日の後に咲いた』という中国の伝説がある。
 
 
  蕪村の遊び心、8句発見 あえて劣った句風装う (2017/12/14)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳諧師、画家の与謝蕪村(1716〜83年)が別名で詠み、これまで知られていなかった発句8句を含む10句が記された軸が14日までに見つかった。京都市の古美術商から入手した清泉女学院大の玉城司客員教授(近世俳諧史)が確認した。なじみの芸者の名前から筆名を作り、あえて劣った句風を装うなど、遊び心が感じられるという。 発句は俳諧の第1句で、俳句のこと。玉城さんは「筆跡や、同じ軸にある弟子の絵と文から蕪村の句といえる」と話している。…
 
 
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  ⇒与謝蕪村(絵画)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「024 【美術】 円山応挙/葛飾北斎/東洲斎写楽/歌川広重」 ⇒与謝蕪村
 
 
遅月上人.?
遅月上人の挨拶句 (2015/12/22)
  遅月上人の挨拶句 (2015/12/22)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳句は古来、挨拶として詠まれることが多くありました。今回紹介するのは遅月上人(ちげつしょうにん 上人は偉いお坊さんのこと)が、水戸の名家、加倉井家から炭をもらったお礼として描いた俳画です。遅月は江戸時代(寛政〜文化期)に水戸で多くの庶民を指導した俳人です。…
 
 
  遅月上人(ちげつしょうにん)と水戸俳壇   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  矢羽勝幸著「書簡による近世後期俳諧の研究--『俳人の手紙』正続編注解」 (1999)/遅月上人(ちげつしょうにん)と水戸俳壇 (2015)/芭蕉百回忌と常陸茨城郡の俳諧(上/下)佐久間青郊著『三百六十日々記』を通じて (2015/2016)
 
 
大島蓼太.1718/
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三宅嘯山.1718/
     
川上不白.1719/
     
黒柳召波.1727/
     
加藤暁台.1732/
     
蝶夢.1732/
     
井上重厚,1738/
     
加舎白雄.1738.10/
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岩間乙二.1756/
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高桑蘭更,1798没/
     
夏目成美.1749/
     
建部巣兆.1761/
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小林一茶.1768
小林一茶
  小林一茶 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)-文政10年11月19日(1828年1月5日))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名・小林弥太郎。
 
 
  『一茶俳句集』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  一茶は28歳の「山寺や雪の底なる鐘の声」で、その句風を芽吹かせた。同じころの「五月雨や雪はいづこの信濃山」にも通じる一茶めく芽吹きだ。かつてぼくはこの二句が好きだった。
 
 
  小林一茶略伝   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶の人生は家庭的に不遇なものであった。「一人一茶」・「継子(ままこ)一茶」は彼の売り物にもなっているが、一茶においてはそれを売り物にしてもおかしくない不遇というべきか・・・。
 
 
  一茶発句全集   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶は生涯に約二万の発句を残している。これらを季語によって整理した全集には、『一茶全集』第一巻(1979年刊)がある。しかし、その後も『一茶発句集続篇』の登場など、新資料の紹介が相次いでいる。一方『文化句帖』『七番日記』などの句稿も、その後自筆本によって読み改められている。こうした成果を踏まえた新しい一茶発句全集が必要になっている。そこでインターネット上に『一茶発句全集』を構築することにした。
 
 
  小林一茶 句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  長野県上水内郡信濃町は小林一茶さんの句碑の宝庫です。町全体が小林一茶さんの記念館と言ってもいいかもしれません。町のそこかしこに小林一茶さんの句碑が建っています。それも・・・・・その場所、風景、景色に本当にあったような句が選ばれており、本当はその場所に立って句を詠んでいただけたらと思います。
 
 
  一茶双樹記念館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  一茶双樹記念館は、市指定史跡「小林一茶寄寓の地」の保全及び文化の振興を図るとともに、市民の福祉の増進に資するために設置された施設です。俳人小林一茶とみりん醸造創設者の一人と言われる五代目秋元三左衛門(俳号双樹)は交友があり、一茶はこの地を数十回訪れています。
 
 
  玉手山と小林一茶   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶は、寛政4年(1792)から同10年までの約6年間、西国、上方方面を旅行。その途中、寛政7年(1795)、明石から大坂に入り、天王寺、平野を通って、4月3日に葛井寺と道明寺に詣でた後、当時すでに景勝地として有名だった玉手山を訪れている。寺は、道明寺という。わずかに行けば玉手山、尾州公の荼毘所あり。竜眼肉の木ありて、このかいわいの景勝地なり。艮(うしとら)の方にかつらぎ山見ゆる。折りから遊山人處々につどう。(西国紀行)
 
 
  小林一茶の里を歩く   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紅葉は終わってしまったが、秋晴れの11月に、「小林一茶の里」柏原を歩いてみる。黒姫駅を中心とした柏原は、かつて北国街道の宿場町として栄え、本陣・脇本陣を構え、参勤交代の大名行列や佐渡の金が江戸へ運ばれた交通の要所であった。1763年、ここに農家の長男として弥太郎、(後に江戸時代を代表する俳人小林一茶)が誕生した。紆余曲折を経て、65歳の生涯をここ柏原で閉じるまでの生涯を振り返りながら、今日は一茶の人となりを感じ、その句に秘められた思いを探るひと時を過ごすことにした。
 
 
  Issa's Haiku Home Page   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  Issa Kobayashi Issa Kobayashi, a haiku poet, whose child name was Yataro and registered name was Nobuyuki, was born in Kashiwabara, Shinano, in 1763, and died there in 1827. Kashiwabara is now part of Shinano-machi (Shinano Town), Nagano Prefecture.
 
 
  ここに付箋・・・ 小林一茶   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  継母との争いでひがみが始まり、江戸に赴くことに/一茶の時代が来る/誇りをもって誇りを捨てる/消えない故郷愛/毎年のように続い業/
 
 
  道明寺天満宮・小林一茶句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで 俳句で知られる小林一茶の句碑です。一茶が33才の時、寛政7(1795)年に西国行脚中に当宮に立ち寄られたときに、この句碑のある場所で詠んだ句です。この時代にも梅の木が想像できます。
 
 
  小林一茶旧宅〜一茶翁終焉之地〜   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  国道18号(北国街道)沿いに「一茶翁終焉之地」の碑があった。雪の中に「史跡小林一茶終焉之舊宅」という古い碑があった。文政10年(1827年)6月1日、宿場の大火で一茶は我が家を失い、その年の11月19日に焼け残りの土蔵の中で、3度目の妻に見守られて、65歳の生涯を閉じた。
 
 
  一茶のふるさと信濃町  一茶記念館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。
 
 
  小林一茶 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  小林一茶 画像 - Google
 
 
常世田長翠.1791/
     
井上井月.1822/
     
野沢凡兆.1840/
     
内藤鳴雪.1847/
     
森 鴎外.1862.2/
     
村上鬼城.1865/
  村上鬼城」検索   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
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夏目漱石.1867.2/
  ⇒夏目漱石.1867   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「006 【文芸Α 近現代文学:夏目漱石:国木田独歩:芥川龍之介」 ⇒夏目漱石.1867
 
 
幸田露伴.1867.8/
     
正岡子規.1867.10
正岡子規.1867 正岡子規 - 俳句の歴史 「正岡子規」写真帖
  正岡子規 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規(まさおかしき、1867年10月14日(旧暦9月17日) - 1902年9月19日)は俳人、歌人。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。
 
 
  子規の本   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  子規を論じた書籍等のデータです。子規に関する資料は膨大なので、まだあるでしょう。少しずつ追加していきます。
 
 
  正岡子規年表   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  参考文献:柴田宵曲 『評伝正岡子規』 1986.6.16 岩波文庫/今西幹一・室岡和子 『子規 百首・百句』 1990.5.1 和泉書院/坪内稔典 『子規山脈』 1997.10.20 日本放送出版会/正岡子規 『子規三大随筆』 1992.3.20 講談社学術文庫
 
 
  正岡子規 散歩    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規が亡くなったのは明治35年(1902)9月19日です。東京根岸の子規庵で、母、姉と、ただ一人泊まっていた虚子の誰もが気がつかないうちに、静かに亡くなっています。私が知っていた子規の俳句は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(中学3年程度ですね)位ですので、然したる知識もないのですが、9月19日が近づいてきましたので「正岡子規」の東京を歩いてみました。
 
 
  正岡子規の世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  子規の俳句 / 子規の仕事 / 子規の近代 / 子規データ / 絶筆三句 / 子規の旅 / 子規の近代 / 子規文献 / 散策集の句 / 子規の墨跡 / 近代・差別・女性 / 全集月報 / 鶏頭の / 子規の絵 / 子規の生涯 / 新刊書評
 
 
  正岡子規のページ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規の新派俳壇結成史:この連載の経緯は、「平成三年八月、父松本正氣の没する十日ばかり前のことであった。和田克司先生のご都合で子規に関するご研究が暫時掲載不能になったので、私の旧稿をピンチヒッターに宛てたい旨父から話があった。急なことであったが、「春星」を案ずる病人の依頼であったので了承した」ものである。
 
 
  俳句の歴史・正岡子規   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場した。子規は評論「芭蕉雑談」の中で、芭蕉の高名な俳句を次次批判した。芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性が欠けていることを難じたのであった。
 
 
  正岡子規  Siki Masaoka   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡常規 (1867-1902・慶応3年-明治35年) 明治35年9月19日歿 35歳(子規居士)田端・大龍寺 病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。
 
 
  正岡子規 蔵書印の世界   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本名:常規、幼名:処之助、通称:升、号:獺祭書屋主人、竹の里人 18 67-1902 (慶応3年-明治35年) 伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市)に生まれる。父隼太は松山藩の下級藩士。松山中学を中退して明治16年(1883)に上京、大学予備学校に通い、夏目漱石と知り合う。明治25年(1892)に東京帝国大学を中退。最初は小説を書いたが、俳句に転じ俳句革新をめざす。
 
 
  松山市立 子規記念博物館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松山市立子規記念博物館は、正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとが松山にしたしみ、松山の伝統文化や文学についての認識と理解をふかめ、あたらしい文化の創造に役立てることを目的として開設された文学系の博物館です。
 
 
  作家別作品リスト 正岡子規   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規 (まさおかしき) 生年: 1867-10-14 没年: 1902-09-19  公開中の作品/作業中の作品
 
 
  正岡子規 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡 子規(まさおか しき、慶応3年9月17日(1867年10月14日) - 明治35年(1902年)9月19日)は俳人・歌人・国語学研究家である。
 
 
  財団法人 子規庵保存会 公式ホームページ   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
 
 
  伊丹人物再発見シリーズ(2)-正岡子規と伊丹-   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  みなさん、ご存知ですか? 正岡子規と伊丹の関係は?あの司馬遼太郎の著作「ひとびとの跫音(あしおと)」に描かれていますが正岡子規の妹,律が正岡家を継ぎ、母方のいとこの加藤忠三郎を養子に迎えます。子規の資料は関西伊丹の正岡家において大切に守られてきた。没後百年を記念し、子規の生涯を紹介する資料に加え、関西の子規門の作品、子規を支えた妹律の資料等を展示しています。
 
 
  正岡子規 マサオカシキ Masaoka, Shiki 人名辞典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の俳人・歌人。本名、正岡常規。1867年10月14日(慶応3年9月17日)現在の愛媛県松山市に生まれる。 1883年上京して東大予備門に入学。1892年東京帝国大学国文科を中退して日本新聞社に入社し、俳句の革新活動に尽力した。
 
 
  正岡子規 画像 - Google   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規 画像 - Google
 
 
  「正岡子規」写真帖   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  紹介/綿布/写真/語録/逸話/野球
 
 
  正岡子規の未発表5句見つかる 自画像2点も (2017/8/22)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今年生誕150年を迎えた俳人・正岡子規(1867〜1902)が、死の前年の正月に詠んだ俳句5句と自画像2点などが載った冊子が見つかった。全集などにもなく、晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。 表紙に「明治卅(さんじゅう)四年一月一日 歳旦帳」と記された和とじの32ページの冊子(縦24センチ、横16センチ)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。長い間所在不明で「子規庵(あん)」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった。…
 
 
  赤福の俳句、子規じゃない? 店は困惑「誰か情報を」(2017/8/31)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「到来の赤福もちや伊勢の春」。伊勢土産として有名な和菓子「赤福餅」の包み紙に長年書かれてきた俳句がある。販売元の赤福(三重県伊勢市)によると、松山市出身の俳人・正岡子規(1867〜1902)による作品と伝えられてきたが、今年になって「裏付け資料が見つからない」と指摘された。赤福側は「情報を持っている方がいれば教えてほしい」と呼びかけている。 赤福は江戸時代の1707(宝永4)年創業。当初からあんころ餅を売り、お餅の上にこしあんをのせた赤福餅で知られる。…
 
 
松瀬青々.1869.5/
  「松瀬青々」検索   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松瀬青々 - Google 検索
 
 
大野洒竹.1872.11/
  「大野洒竹」検索   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  大野洒竹 - Google 検索
 
 
泉 鏡花.1873/
  ⇒泉鏡花   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  「006 【文芸Α 近現代文学:夏目漱石:国木田独歩:芥川龍之介」 ⇒泉鏡花
 
 
河東碧梧桐.1873
河東碧梧桐
  河東碧梧桐 (wiki^tan)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、明治6年(1873年)2月26日 - 昭和12年(1937年)2月1日)は俳人・随筆家。現・愛媛県松山市千舟町に生まれる。少年の頃は秋山真之をと敬愛していた。明治21年(1888年)、子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。明治38年(1905年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始める。子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。
 
 
  河東碧梧桐の俳句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  新年の句 : 元日や寺にはひれば物淋し  /  春の句 : 春浅き水を渉るや鷺一つ  /  夏の句 : 門川に流れ藻絶えぬ五月かな  /  秋の句 : 今朝の秋千里の馬を相しけり  /  冬の句 : 出羽人も知らぬ山見ゆ今朝の冬
 
 
  河東碧梧桐の俳句   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  赤い椿白い椿と落ちにけり  /  春寒し水田の上の根なし雲  /  木屋町や裏を流るる春の水  /  桃さくや湖水のへりの十箇村  /  大仏を写真にとるや春の山
 
 
  河東碧梧桐 『三千里』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  明治39年8月6日、河東碧梧桐は両国から旅立つ。 34歳の時である。 明治40年12月13日、東京に帰る。  「三千里」は『奥の細道』の「千寿といふ所にて船をあかれは、前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく」による。
 
 
  河東碧梧桐 人名辞典   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の俳人。1873年(明治6年)愛媛県松山市に生まれる。高浜虚子と同級で、虚子とともに正岡子規に兄事した。 1893年第三高等学校に入学したが、翌年退学。子規の死後は従来の形式にとらわれない新傾向俳句を唱えて無中心論を説く。1932年還暦を迎えて俳壇から引退した。代表句「蕎麦白き道すがらなり観音寺」「赤い椿白い椿と落ちにけり」など。
 
 
  高浜虚子と河東碧梧桐   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  正岡子規の話が出れば当然高浜虚子である。 子規が近代俳句の祖であるとすれば、それを継承し隆盛に導いたのが虚子で、現ホトトギスの創始者でもある。… 虚子は「花鳥諷詠」「客観写生」を提唱したことでよく知られているが、その虚子について思い出深い逸話が残っているのでご紹介しよう。
 
 
  河東碧梧桐の歌碑探訪   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  西駒は斑雪(はだれ)てし尾を肌ぬぐ雲を  <場所>上伊那郡高遠町(現・伊那市)・高遠公園内
 
 
  河東碧梧桐全集 全20巻   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  当初、全14巻の予定でしたが、14巻ではまとめきれないため、全20巻を目安に刊行を続けます。
 
 
  河東碧梧桐 タイムライン   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  1873年 - 赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)は明治6年(1873)、 松山市千舟町に生まれました。 家は松山藩士。 正岡子規、高濱虚子、そして碧梧桐、 近代俳句をになった3人は、ほんのご近所で育ったのです。
 
 
  南予枇杷行 河東碧梧桐   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  上り約三里もある犬寄(いぬよせ)峠を越えると、もう鼻柱を摩する山びやうぶの中だ。町の名も中山。 一つの山にさきさかつてゐる栗の花、成程、秋になるとよくこゝから栗を送つてくる。疾走する車の中でも、ある腋臭を思はせる鼻腔をそゝる臭ひがする。
 
 
  蕪村研究家としての碧梧桐   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河東碧梧桐は、正岡子規の門下で、子規の没後、新派俳句の代表格として高浜虚子とともに俳壇の双璧をなした。しかし、俳人という立場とは別に、彼の書家として、評論家として、また、蕪村研究家としての活動を見逃すことはできない。
 
 
  碧梧桐 - 四国いしぶみ物語   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  松山二番町堀端にある碧梧桐の句碑はもともと松山刑務所内にあった。昭和6年当時の松山刑務所長が入所者の情操教育のため虚子と碧梧桐の句を得て刑務所内に二基たてた句碑のうちの一つである。
 
 
  特別展「阪神間と河東碧梧桐」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  このたびの特別展は、この両家ゆかりの碧梧桐の作品や貴重な資料 -特に碧梧桐のもっとも力溢れる時期の書や、欧米旅行にまつわる作品、碧梧桐が現地で撮影した写真アルバム、送ってきた絵葉書などを中心に構成いたしますが、その多くは本展覧会が初公開となりす。
 
 
  河東碧梧桐&#8195;1873〜1937   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  新傾向俳句とは : 碧梧桐は、子規の残した近代俳句の姿を逸脱し、越えていこうとする姿勢をはっきり打ち出した。人はそれぞれに異なる意見、言葉を持てばよく、言語は個人の中で個別に高まり、力をもっていくものであると碧梧桐は考え、主観的結合(複数の対象の間に、表現者が独自の関係性を見出すこと)の個性、その地方性に、彼は俳句の新傾向を見出そうとした。
 
 
  河東碧梧桐 Hekigodo Kawahigashi   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  赤い椿白い椿と落ちにけり  /  足もとにヒヨコ来鳴くや霧の中  /  虹のごと山夜明りす旱年    河東秉五郎(1873-1937・明治6年-昭和12年) 昭和12年2月1日歿 63歳 東京・三ノ輪梅林寺  
 
 
  河東碧梧桐 - あのひと検索 SPYSEE   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、明治6年(1873年)2月26日 - 昭和12年(1937年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。
 
 
  【第2回】 河東碧梧桐書簡 - 学芸ノート   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  平成14年に開催した、企画展「郷土の俳句・俳画」の事前調査により見出された、興味深い史料を紹介します。
 
 
  河東碧梧桐 【かわひがし へきごとう】   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  代表句集 : 「新傾向句集」/「碧梧桐句集」/「八年間」/「碧梧桐句集」  明治6年2月26日〜昭和12年2月1日。初期には印象明瞭な有季定型の句を作ったが、やがて俳句における近代性を追求し、無季自由律など、実験的な句を作るようになった。
 
 
  「河東碧梧桐」の句碑 (さくら市文化財)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  さくら市氏家と喜連川を結ぶ国道293号線の間道の旧弥五郎坂の途中に「河東碧悟桐」の句碑がある。 「河東碧悟桐」は明治を代表する俳人。 正岡子規門下の秀才で活躍した人である。
 
 
  河東 碧梧桐 作家別作品リスト:No.510   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品 : 南予枇杷行
 
 
  河東碧梧桐の句  -  『増殖する俳句歳時記』   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  赤椿咲きし真下へ落ちにけり  /  愕然として昼寝覚めたる一人かな  /  赤い椿白い椿と落ちにけり  /  千編を一律に飛ぶ蜻蛉かな  /  春寒し水田の上の根なし雲
 
 
  河東碧梧桐 (かわひがし へきごとう) - 文京区    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  本名 秉五郎 父は正岡子規の漢字の師、兄はその親友で早くから子規に近づいた。 同じく松山出身の高浜虚子と少年時代から親しかった。 文京区内を転々と移り住む。 ジャーナリストとしても活躍した。
 
 
  「近代俳句のふるさと 松山」の発行 ふるさと切手   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  郵便事業株式会社(東京都千代田区、代表取締役会長CEO 北村憲雄)は、松山にゆかりの深い正岡子規、高浜虚子、夏目漱石、河東碧梧桐が詠んだ俳句を題材としたふるさと切手「近代俳句のふるさと 松山」及び切手帳を発行します。
 
 
  河東碧梧桐 「三千里」 目次 - 東北物語り伝承館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  河東碧梧桐 『三千里 』 解説/一例紹介・・西馬音内盆踊り
 
 
  河東碧梧桐と荻原井泉水の書画+種田山頭火について   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今日は『河東碧梧桐』と『荻原井泉水』の書画について、私が所有している作品を紹介しながらお話しします。
 
 
  【大正七年三月一日発行 日本及日本人所蔵】 河東碧梧桐   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
   単に参謀官としての頭脳許りではなく、未来のゼネラルとしての胆力も相応に持っていたこの人が追い追いどんな仕事をするか、世界は益々多事に、口に平和をいうのに反比例して実質は益々物騒ならんとしつつある今日・・・
 
 
  かわひがし-へきごとう かはひがし― 【河東碧梧桐】 - 三省堂 大辞林   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  俳人。愛媛県生まれ。本名、秉五郎(へいごろう)。正岡子規門の高弟。高浜虚子と対立、定型・季語を離れた新傾向俳句を提唱。全国行脚して「三千里」「続三千里」をまとめた。のち自由律、ルビつき句など句風は変遷した。著「新傾向句集」「碧梧桐句集」「子規言行録」など。
 
 
  2 河東碧梧桐と岩谷山梔子 (かわひがしへきごとう と いわやくちなし)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  明治三十五年に正岡子規が没し、日本派は新聞「日本」の日本俳句欄を引き継いだ河東碧梧桐の時代へと移る。碧梧桐は大谷句仏の援助のもと、三十九年八月から四十年十二月にかけて全国行脚の旅に出る
 
 
  革新の書人 河東碧梧桐 [大型本]    TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  革新の書人 河東碧梧桐 [大型本]
 
 
高浜虚子.1874
高浜虚子
  高浜虚子 (Wikipedia)   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  高浜 虚子(たかはま きょし、1874年2月22日(明治7年)〜1959年4月8日(昭和34年))日本の俳人、小説家。本名・高濱清(たかはま きよし)。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。
 
 
  高浜虚子   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  たかはま きょし 明治7(1874)〜昭和34(1959) 愛媛県松山出身。本名は池内清。兄弟は男ばかり五人(すぐ上の兄、房之助は夭折)、末っ子として愛情を一身に受けて育った。高浜の名は明治15年に亡くなった祖母方の姓を継いだことによる。
 
 
  東雲神社   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  遠山に 日の当りたる 枯野哉   高浜虚子  明治33年(1900)11月25日,虚子庵例会での作。(子規病状悪化のため子規庵の句会例会は,明治33年10月14日で中止となった。)虚子の最も好む代表的な句である。
 
 
  高浜虚子句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  第12回アジア競技大会広島1994(平成6年)記念俳句大会開催記念として、高濱虚子の句碑を建立する。当地は昭和3(1928)年10月13日虚子曽遊の折句会が催され、広島ホトトギス会が結成されたところであり、句は明治29(1896)年広島で虚子が詠んだものである。
 
 
  高浜虚子の句碑   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  札幌市で開催の全国ホトトギス俳句大会に出席する途中、昭和23年6月15日、高浜虚子・高浜年尾らが登別温泉に宿泊し、翌16日にカルルス温泉に吟行した後、登別温泉で虚子の歓迎句会が開かれたときに詠んだのが次の句です。 よくぞ来し今青嵐に包まれて
 
 
  高浜虚子を読む   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  高浜虚子の句の中から田中空音が選んで鑑賞したものです 主に参照させてもらった書籍:朝日文庫/現代俳句の世界/高浜虚子集(深川正一郎選)
 
 
  高浜虚子 経歴   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  明治7年2月22日、 愛媛県松山市長町生まれ池内家の5人兄弟の末子に生まれるが祖母方の高濱姓を継いだ。 池内家は能楽の家として知られる。智環小学校、愛媛県第一中学、松山高等小学校、 愛媛県伊予尋常中学と変遷し河東碧梧桐と出会う。 高濱虚子の紹介 / 高濱虚子記念文学館の紹介 / 高濱虚子の声 / 作品抜粋
 
 
  虚子記念文学館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  TOP / english / 花 / 俳句十二ヵ月 / 本のご紹介 / 鳥 / 高浜虚子の世界 / 高浜虚子の句碑 / 諷 / 文学館案内 / ミュージアムショップ / 展示のご紹介 / 休館日カレンダー / 詠 / TOPICS / 投句特選句 / 賛助会会員募集 / ご宿泊ご案内
 
 
  兵庫県ゆかりの作家   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  高浜 虚子 たかはま きょし 明治5〜昭和34(1872〜1959) 俳人・小説家   愛媛県松山市生まれ  プロフィール / 兵庫県との関係 / 代表作品 / 関連情報 / 略年譜 / 受賞歴
 
 
  俳句の歴史・高浜虚子   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  高浜虚子(1874〜1959) 正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」の発行は、子規の弟子の高浜虚子に引き継がれた。虚子ははじめ小説の執筆に熱中していたが、1913年から俳句の創作と弟子の育成に注力するようになった。虚子の俳句作品と俳句観は多くの俳人の支持を受け、ホトトギスは膨大な数の投稿者を抱える大雑誌へと成長した。
 
 
  虚子批判が「俳句」復活の道   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今日、高浜虚子は、近代俳句の創始者・正岡子規をしのぐ「名声」を得ている。俳句に対してさほどの見識もなく才能もなく、ただ子規の残した俳句結社「ホトトギス」の運営に成功を収めただけではないか。結社運営の才に秀でていた事実と、俳人としての評価はまったく次元の異なる問題だ。
 
 
  俳句鑑賞・その八「高浜虚子」   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  今から100年余も前の1897年(明治30年)1月、句誌「ほとヽぎす(後にホトトギス)」が松山で柳原極堂によって創刊された。創刊号は正岡子規にとっては不十分極まるものであったが(高浜虚子『回想子規・漱石』岩波文庫74頁以下)、この創刊の事実は俳句史上、極めて重大な意味を持つ。
 
 
  虚子庵・小諸高濱虚子記念館   TOPページジャンル一覧表明快カテゴリ総覧ジャンルページ画面上段画面下段
  北国街道小諸・与良町・浅間山麓標高700m  俳人 高濱虚子が昭和19年9月4日から足掛け4年間 戦火を避けて疎開していた町です。虚子は「小諸雑記」にその様子をまとめ「小諸百句」を生みました。虚子庵は虚子が疎開中住んでいた建物です。
 
 
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