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04 詩/外国詩人/漢詩/論語/ことわざ/思想・哲学
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 自由詩は著名な詩人のホームページを個別に掲載いたしました。詩人データもあります。漢詩といえば、あまりにも有名な李白・杜甫をはじめ、古来からの論語に関したホームページにも触れています。 また、儒学や朱子学、論語・格言(ことわざ)、そして哲学もこのコーナーです。どうぞ、ごゆっくりご覧ください。

北村透谷.1868 土井晩翠.1871 島崎藤村.1872 蒲原有明.1875 薄田泣菫.1877
野口雨情.1882 高村光太郎.1883 竹久夢二.1884 山村暮鳥.1884 北原白秋.1885 石川啄木.1886
萩原朔太郎.1886 大手拓次.1887 川路柳虹.1888 深尾須磨子.1888 室生犀星.1889 岡本かの子.1889.
三木露風.1889 日夏耿之介.1890 白鳥省吾.1890 佐藤惣之助.1890 佐藤春夫.1892 堀口大學.1892
西脇順三郎.1894 金子光晴.1895 宮沢賢治.1896 八木重吉.1898 丸山薫.1899 三好達治.1900
高橋新吉.1901  村野四郎.1901 中野重治.1902 北園克衛.1902 金子みすゞ.1903 草野心平.1903
原民喜.1905 伊東静雄.1906 中原中也.1907 まど・みちお.1909 立原道造.1914 石原吉郎.1915
黒田三郎.1919 吉岡実.1919 宗 左近.1919 石垣りん.1920 鮎川信夫.1920 田村隆一.1923
相田みつを.1924 吉野 弘.1926 黒田喜夫.1926 金井 直.1926 茨木のり子.1926 村上昭夫.1927
粒来哲蔵.1928 新川和江.1929 川崎 洋.1930 現代詩人.1931〜 外国詩人 詩人データ
漢詩 李白.701 杜甫.712 白居易.772 韓愈.768 菅原道真.845
儒学 朱子学 陽明学 四書五経 論語 格言・ことわざ
孔子.BC551 孟子.BC372 老子.BC500頃 荘子.BC369 伊藤仁斎.1627 荻生徂徠.1666
思想家・哲学者 西田幾太郎.1870 九鬼周造.1888 和辻哲郎.1889 三木清.1897 安岡正篤.1898
田中美知太郎.1902 中村元.1912 大森荘蔵.1921 吉本隆明.1924 梅原猛.1925 渡邊二郎.1931
宗教哲学 内村鑑三.1861 鈴木大拙.1876 教育学 新渡戸稲造.1864  森信三.1896
ソクラテス.BC469 プラトン.BC427 アリストテレス.BC384 ベーコン.1561 デカルト.1596 ヒューム.1711
カント.1727 ヘーゲル.1770 ショーペンハウアー キェルケゴール.1813 ニーチェ.1844 フッサール.1859  
ベルクソン.1859 リッケルト.1863 ウィトゲンシュタイン ハイデッカー.1889 他の哲学者 哲学名言集
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  詩人とは? weblio辞書
 
 
  文学極道   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  芸術としての詩を発表する場、文学極道です。 ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい罵倒・酷評を受ける場合があります。 投稿の際は、必ず各掲示板の投稿規程をお読みください。
 
 
  身すがらつらら   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  このWEB SITEはフリーのライター野谷真治の作品と現状を多くの方に知っていただくために作りました。現在は短詩、多行詩、エッセイ、Web、取材など、多岐にわたるメディアでお仕事をさせていただいていますが、これからは、出来れば小説も含め、もっと幅広いメディアで、より良い仕事を続けていこうと思っています。
 
 
  古典文学作品紹介   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩(Poem)  ジョン・キーツ(John Keats)/サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman)/中原 中也(Chuya Nakahara)
 
 
  歌人の花 詩人の海    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北原白秋はバラの詩を詠んだ。神秘なる驚くべき花として。石川啄木も北の海辺に咲くハマナスを歌い、漂泊人生が始まった北海道・函館に思いを寄せた。一歳違いの二人は同じ時代を生き、美と郷愁と畏怖(いふ)に満ちた自然に向き合う。
 
 
  憂色の空 真夏の夢に   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  身辺雑記と更新内容 昔の詩 自己紹介とエッセイ 童話風短篇集 アクアラヴァーズ リンク
 
 
  清水鱗造 - 公式ページ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  灰皿町のPoemWiki内にある自己紹介です。私の家族のページです。 このサイトに発表してきた、1996年の初めの詩から2000年2月第4週までの「週刊詩」が本になりました。書名は『ボブ・ディランの干物』。この詩集に興味のある方は右の詩人産直販売から、どうぞ。とはいうものの作品はすべて、このサイトで読めます。本は多少推敲してありますが。
 
 
  山口県人詩人会 (山詩会)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  なぜ我々が「短詩」にこだわったかを述べさせていただきます。長い詩ならすでに従来あります巨大投稿サイトという受け皿があります。しかし、短詩、粒詩の専門投稿所というのは、まだあまり無いように思います。短詩、粒詩のよさというのは、その多くが日常語で語られ、レトリックや小難しい暗喩や比喩などに頼り切らない等身大の言葉で、でも人生における誰にも訪れるような「真実の一瞬」のようなものを切り取ることができる、というところにあると思います。
 
 
  日本現代詩歌文学館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  わが国唯一の現代詩歌専門の総合文学館  ・なぜ「詩歌」文学館なの? 詩歌の本や雑誌は全国で膨大な種類のものが発行されていますが、それぞれの部数はほとんどがごくわずかなものです。ですから時間がたってしまうとほとんど手に入れることができなくなってしまいます。 そのような状況のなかでもっと優れた詩歌に触れたい、もっと研究を深めたいという人たちがたくさんいて、その声が結集して「詩歌」文学館ということになったのです。
 
 
  伊東屋で城米彦造遺作展   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  銀座・伊東屋(中央区銀座2-7-15、03-3561-8311)は2008年5月8日から5月14日まで本館9階ギャラリーで「街頭詩人・画家-城米彦造『昭和を謳(うた)う』」を開催する。
 
 
  想い出の詩藻   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  私が中学から高校・大学時代にかけて愛読した詩の数々を、そのときの想い出ととも紹介したい。 紹介する詩は、今から50年以前に発表されたものにほぼ限られる。・・・
 
 
  日本詩人愛唱歌集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩と音楽を愛する人のためのデータベース このHPは、日本の代表的な詩人の作品中、どの詩がどんな人に作曲されたのか、また、どの詩が多くの人に作曲されたのかを調べてみようというものです。
 
 
北村透谷.1868
北村透谷
  北村透谷 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日)は、明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。詩人。島崎藤村らに大きな影響を与えた。 神奈川県小田原で没落士族の家に生まれた。本名は北村門太郎。両親とともに上京し、東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通った(のちの筆名・透谷は「すきや」をもじったもの)。
 
 
  北村透谷    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  神奈川県小田原市生まれ。本名門太郎。1883年、東京専門学校(現早大)入学。政治家を目指すが夢を断た  【蝶のゆくへ】/【雙蝶のわかれ】/【蝶のゆくへ】/【みゝずのうた】
 
 
  北村透谷の幻境   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村透谷は、川口の森下という集落を幻境と呼びました。その森下の住人、秋山国三郎と親交を結びました。 川口地区郷土史研究会が平成13年5月10日に発行した会報で北村透谷と秋山国三郎を特集しています。
 
 
  北村透谷の「文学」観   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村透谷の「文学」観については様ざまに論じられてきたが、「文学」概念をめぐる当代の状況が十分解明されてこなかったことによって、いまだに混乱から抜け出していない。その解決のために、ここでは彼の文章中に現れる「文学」とその同義語の大方を拾い出し、それぞれの意味を文脈から判断して、その「文学」観の変化を跡付け、最後に、その変化のよってきたる所以を考察する。
 
 
  北村透谷 文学研究系   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  透谷と漱石の作品から読み取ることができるテーマや思想についての共通点と相違点を挙げてみる。 とりわけ、今回は透谷の「蓬莱曲」と漱石の「三四郎」を参考にしてみた。
 
 
  北村透谷  早稲田と文学   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  (本名門太郎、1868〜1894)は小田原出身。明治16年東京専門学校政治科に入学。折からの自由民権運動の嵐の中に身をおくが、大井憲太郎一派の行動についていけず挫折。苦悩と模索の中で自由律叙事詩風の『楚囚之詩』を自費出版するが、自信を喪失し破棄した。のち「女学雑誌」等で評論活動を行い、26年には島崎藤村らと「文学界」を創刊するが、疲れ切って27年5月、25歳で縊死。あまりにも早く近代的自我に目覚めた者の悲劇であった。
 
 
  北村透谷 Tokoku Kitamura   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  是の如きもの我牢獄なり、是の如きもの我戀愛なり、世は我に對して害を加へず、我も世に對して害を加へざるに、我は斯く籠囚の身となれり。…  北村門太郎(1868-1894・明治元年-明治27年) 明治27年5月16日歿 25歳 (透谷院無門章賢居士) 神奈川・小田原市・高長寺
 
 
  島崎藤村・北村透谷記念碑   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  阪急百貨店の裏手にある泰明小学校は、文豪島崎藤村(1872年〜1943年)と日本の近代浪慢主義の開拓者北村透谷(1868年〜1894年)が幼き日に学んだ学校です。同校の入口には「島崎藤村 北村透谷 幼き日ここに学ぶ」の石碑があります。
 
 
  北村透谷 きたむら・とうこく   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  本名は門太郎。 神奈川県出身。東京専門学校中退。 自由民権運動に加わり大阪事件への参加を求められたが、煩悶の末に頭を剃って運動から離脱する。 その後キリスト教に入信し、文学へ移って詩や評論などで活躍した。
 
 
  北村透谷 【きたむら・とうこく】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、評論家。本名、北村門太郎。明治元年12月29日(旧暦11月16日)〜明治27年5月16日。神奈川県小田原に生まれる。明治15年頃、自由民権運動の影響を受け、政治家を志すようになる。明治17年から左派民権運動に参加するも、その運動方針に疑念を持ち、翌年に離脱。明治20年、石坂ミナと激しい恋愛をし、その過程でキリスト教に入信。翌年に結婚した。明治22年、近代的自我意識とその苦悩とを正面からとり上げた長篇劇詩「楚囚之詩」を発表。
 
 
  北村透谷 - あのひと検索 SPYSEE   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日)は、明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。島崎藤村らに大きな影響を与えた。
 
 
  北村透谷の名言 - みんなの名言集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  熱意は力なり。必ず到着せんとするところを指せる、一種の引力なり。  解説 - 「熱意」より。熱意は一種の引力です。やり遂げようという意気込みがあれば、必ず自分のたどり着こうとしているところに引力のように引き寄せられます
 
 
  北村 透谷  作家別作品リスト:No.157   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1868-1894。詩人、作家、評論家。本名、門太郎。神奈川県小田原市生まれ。1881(明治14)年に両親とともに東京に移住し、翌年、銀座の泰明小学校を卒業。透谷の名は、銀座数寄屋橋(すきやばし)の「数寄屋(すきや)」を「透谷(すきや)」にかえ、読みを「とうこく」にしたと言われる。一時期自由民権運動に深く影響されたが、のちになって政治から遠ざかり、キリスト教の信仰の世界に入る。25歳で自殺。
 
 
  北村透谷2「北村透谷とその妻美那子」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村透谷が明治二十年八月、のちに自分の妻となった石坂美那子にあてて情熱的な手紙を書いたことはよく知られている。 男女の愛について、女性は勿論のこと男性でも声高に語られない時代であった。 透谷が当時神奈川県議会議長を務めたこともある八王子在住の石坂昌孝の娘美那子と知り合い、その胸をたぎらせたのである。
 
 
  北村透谷 - 京都大学文学部 日本哲学史研究室   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村透谷という人物は評価が実に難しい人物であるといえる。透谷は詩人であり、小説家であり、思想家であると同時に、これらのカテゴリーに収まりきらない部分を常に含んでいる。 北村透谷は世間の評価に収まりきらない創造力を備えた人であった。わずか25年の生涯という事とも相まって、透谷の作品は彼の天才に任せて一時に噴出し、流れ去っていった観がある。
 
 
  北村透谷研究 ―参考 石阪昌孝・公歴父子研究―   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村透谷・新発見資料/石阪公歴資料/石阪昌孝研究と資料紹介
 
 
  恋愛は人世の秘鑰なり。(北村透谷) - 人生最強の名言集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  恋愛は人世の秘鑰なり  北村透谷(詩人、作家、評論家)
 
 
  北村透谷 画像検索 - Google   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村透谷 画像検索 - Google
 
 
  北村透谷選集 <書籍>   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治二十年代の詩人として,評論家として,また平和主義運動家として多くの可能性を含みながら,自ら命を絶った北村透谷の主要作品を一冊にまとめた.革命的ロマン主義の長詩「楚囚の詩」など詩九篇,「厭世詩家と女性」など評論・感想四十余篇,他に,熱烈な恋愛の後に結婚した石坂ミナへの書簡も収めて透谷の全貌を示す.
 
 
  北村 透谷 <関連書籍>   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村 透谷 <関連書籍>
 
 
  孤蝶の夢―小説北村透谷 (単行本)    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  度重なる気鬱病の再発、民権運動への傾注と離脱、自由韻律詩の発表、恋愛至上主義の提唱・実践と挫折、キリスト教入信、平和運動への参加…日本近代文学成立に絶大な影響を与えつつ25歳の人生を駆け抜けた透谷の生涯。
 
 
土井晩翠.1871
土井晩翠
  土井晩翠 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1952年(昭和27年)10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。本来姓は「つちい」だが、1932年(昭和7年)に改称。仙台県宮城郡仙台(現在の宮城県仙台市青葉区)生まれ。 東京帝国大学英文科卒。娘婿は英文学者の中野好夫。
 
 
  土井晩翠 【どい ばんすい】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治4年10月23日〜昭和27年10月19日。豊富な漢語を駆使して、人類の理想や史上の英雄などを題材とした、雄健で男性的な詩を作った。
 
 
  星落秋風五丈原---土井晩翠   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
   嗚呼(ああ)南陽の旧草廬(そうろ)  二〇余年のいにしへの  夢はたいかに安かりし  光を包み香をかくし  隴畝(ろうほ)に民と交われば  王佐の才に富める身も  ただ一曲の梁歩吟(りょうほぎん)。
 
 
  土井晩翠 - あのひと検索 SPYSEE   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1952年(昭和27年)10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。本来姓は「つちい」だが、1932年(昭和7年)に改称。仙台県宮城郡仙台(現在の宮城県仙台市青葉区)生まれ。東京帝国大学英文科卒。… 在学中は『帝国文学』を編集し詩を発表。男性的な漢詩調詩風で、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。
 
 
  荒城の月 --- 土井晩翠/瀧廉太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  土井晩翠と瀧廉太郎によるコンビが作った傑作。 「さくら さくら」などとならび、これまで日本を象徴する歌として公式な場でも盛んに演奏されてきた。 今、目の前にある草生(くさむ)す荒れた城に接しながら、栄華を誇ったかつての時代を振り返るというシーンから始まる。天上に浮かぶ月を眺めながら、人の栄枯盛衰をしみじみと訴える作品である。
 
 
  土井晩翠 どいばんすい(1871-1952)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  仙台市生れ。本名、土井(つちい)林吉。姓は1934年から‘どい’という通常音を容認。1894年、東大英文科に入学、同年末に結成された帝国文学会に加入。その機関誌「帝国文学」に1895年11月から新体詩を載せ始め、翌年3月から編集にも携わり、1898年、ユゴーの詩集『光と影』の序文を訳載した。  【詩人】/【赤壁図に題す】/【星と花】/【希望】/【暮鐘】/【夕の星】/【白桃花】/【星】/【おほいなる手のかげ】
 
 
  荒城の月 土井晩翠 - 青葉をゆらす風   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  今回の東北旅行で、土井晩翠が 「荒城の月」 の詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、福島県会津若松市の鶴ヶ城址を訪問した。 「荒城の月」 というと大分出身の滝廉太郎をイメージしてしまうが、詞は土井晩翠によるものである。
 
 
  土井 晩翠 作家別作品リスト : No.1081   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、英文学者。「荒城の月」の作詞者である(作曲は滝廉太郎)。「オヂュツセーア」「イーリアス」の翻訳者としても有名である。生い立ちについては、「「雨の降る日は天気が悪い」序」にある自伝を引用する。
 
 
  土井 晩翠 - 日本ペンクラブ:電子文藝館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  つちい ばんすい 本名・林吉 詩人 1871.10.23 - 1952.10.19 現・宮城県仙台市北鍛冶町に生まれる。文化勲章。藝術院会員。歌詞「荒城の月」は明治三十四年(1901)に成り、瀧廉太郎の名曲を産む。瀧の四十五年祭(昭和二十二年)に列しての感慨の一文を添える。
 
 
  仙台へ東北大学を訪ねて  漱石と土井晩翠など   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1 仙台へ 東北大学付属図書館/2 仙台の文学者 土井晩翠/3 仙台のなりたち 名誉市民/4 仙台市博物館 七夕かざり  仙台名物・笹かまぼこ あべかま/5 土井晩翠の年譜 漱石ととのかかわりなど
 
 
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  土井晩翠 <関連書籍>   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
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島崎藤村.1872
島崎藤村
  島崎藤村 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名、春樹(はるき)。信州木曾の馬籠 [1] (現在の岐阜県中津川市)生れ。 『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。
 
 
  藤村記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  藤村記念館は明治・ 大正・昭和の三代にわたって活躍した文学者島崎藤村の出身地、信州木曽谷の南端にある文学館です。 生家は明治28年の大火で焼失しましたが、昭和22年、「この地に何か文豪を記念するものを造ろう」と考えた地元住民の勤労奉仕により、建築家谷口吉郎博士設計による藤村記念堂が建てられました。
 
 
  島崎藤村集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  PDF 若菜集(島崎藤村)(07.08.13)〜PDF 破壊(島崎藤村)(07.07.10)
 
 
  島崎藤村 朗読   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『若菜集』、『一葉舟』、『夏草』、『落梅集』   潮音/おきく/吾胸の底のここには/縫ひかへ
 
 
  島崎藤村 「初恋」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  初恋  まだあげ初(そ)めし前髪(まえがみ)の 林檎(りんご)のもとに見え市しとき 前にさしたる花櫛(はなぐし)の 花ある君と思ひけり …
 
 
  島崎藤村  「初恋」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  この様に初々しい詩が他にあるでしょうか。時々、あどけなく美しい少女に出会う時、「初恋」のモデルはこの様な感じの少女だったのかな、と,この詩を思い出します。… 好きな詩歌は沢山ありますが、最も好きな作品を掲載しています
 
 
  若菜集 島崎藤村   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ …
 
 
  島崎藤村と明治学院   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  学院生活(His life at Meiji-Gakuin):島崎藤村は、英語を勉強するには明治学院がよかろう、との助言を聞いて入学した。「その頃の明治学院は、随分ハイカラなものであった。物理学、化学はいわずもがな、論理、心理、経済学なんて学科すら、外国人から英語で教わったのであるから大したものである。歴史は上級でグリインの英国史を用うという次第だから、実にすさまじいものであった。(島崎藤村の同級生・戸川秋骨の文章より)
 
 
  YouTube - 島崎藤村 初恋   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけりやさしく白き手をのべて林檎をわれにあたえしは薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなり・・・
 
 
  島崎藤村 -こえたばブック-   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  作品名:婦人の笑顔/二人の兄弟/千曲川のスケッチ  詩人、小説家。本名春樹。筑摩県第八大区五小区馬籠村(後に長野県木曽郡山口村字馬籠を経て、編入により、現在は岐阜県中津川市馬籠)生まれ。1897 (明治30)年に春陽堂から刊行された第一詩集『若菜集』は、日本近代詩の原点として後世の詩人に多大な影響を与えた。
 
 
  角川文庫「島崎藤村詩集」より   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  角川文庫「島崎藤村詩集」より  1999年1月25日発行 初版  『若菜集』より/『落梅集』より  島崎藤村の『若菜集』が明治時代の青年男女の心を捕らえ理由の一つは、大胆に、みずみずしく、恋の心を歌い上げた所にあったと言われています。
 
 
  島崎藤村 【しまざき・とうそん】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、小説家。本名、島崎春樹。明治5年3月25日(旧暦2月17日)〜昭和18年8月22日。長野県馬籠村に生まれる。明治24年、明治学院を卒業。詩集「若菜集」(明治30)などにより詩人としての名声を得たが、やがて小説家に転じ、長編小説「破戒」(明治39)を発表。自我の懊悩と、被差別部落という社会問題とを重層的に描き、ヨーロッパ文学と同質の近代リアリズム小説として高い評価を得た。
 
 
  「初恋」 藤村から始まる近代詩   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。 そはうつくしき曙のごとくなりき。  -島崎藤村の近代詩創作宣言より
 
 
  島崎藤村の東京を歩く 東京紅園   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  まず最初は馬籠から東京銀座の長女の嫁ぎ先に上京してから、東北学院に作文教師として赴任するまでを「春」、「桜の実の熟する日」を参考にしながら歩きます。
 
 
  島崎藤村(しまざきとうそん) - Yahoo!百科事典    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、作家。本名春樹(はるき)。別号古藤庵無声(ことうあんむせい)。明治5年2月17日(旧暦)筑摩(ちくま)県(現長野県)の旧中山道(なかせんどう)馬籠(まごめ)宿(現在は岐阜県中津川市に所在)で本陣、庄屋(しょうや)、問屋(といや)を兼ねた島崎正樹の四男として生まれる。
 
 
  島崎 藤村 日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  しまざき とうそん 詩人・小説家 1872.3.25 - 1943.8.22 長野県に生まれる。 日本ペンクラブ初代会長 帝国藝術院会員 「夜明け前」により朝日文化賞。 北村透谷らとの「文学界」を基点に近代詩歌の幕を若やかに押し上げた詩人から、一転『破戒』『家』『新生』『夜明け前』等に及ぶ蔚然たる小説家への高まりは、まこと近代文学に冠たる文豪の一人。
 
 
  島崎藤村 しまざき とうそん 近代日本人の肖像   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  長野生まれ。詩人、小説家。父は木曽馬籠宿本陣・庄屋。明治学院卒。在学中に洗礼を受け文学への関心を強め、明治26年(1893)北村透谷らと雑誌『文学界』を創刊。…
 
 
  島崎藤村忌 大磯町   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  地福寺には、「破戒」「夜明け前」など多くの名作を残した文豪島崎藤村の墓があります。
 
 
  島崎藤村旧宅 大磯町   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎藤村旧宅 中郡大磯町東小磯88
 
 
  地福寺(島崎藤村の墓)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  837年(承和4年)の創建。梅の古木に囲まれた藤村の墓と妻静子さんの墓も傍らにある。
 
 
  滝旅館 信州 木曾御嶽   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎藤村は親子2代にわたり、当館を愛しご利用くださいました。 ・・・・文豪 島崎藤村『夜明け前』に描かれた王滝村宮下家・・・・・
 
 
  中棚荘 島崎藤村の宿 信州・小諸   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1899年(明治32年)小諸義塾の教師として長野県小諸市に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。 泰冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生まれた。 この頃から現実問題に対する関心が高まったため散文へと創作法を転回する。 小諸を中心とした千曲川一帯を見事に描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。
 
 
  高楼 ますや旅館 − 信州、田沢温泉   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  −ようこそ、島崎藤村ゆかりの宿へ− 島崎藤村は、小諸塾で教鞭をとって2年目の明治32年8月に、当旅館に宿泊しています。藤村が訪れた往時のその静けさをそのままに、高楼からの眺望は今も変わることなく、四季折々の彩りをみせてくれます。
 
 
  島崎藤村先生について 割烹旅館 佐久間   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎藤村先生には、原稿執筆のため、計六回ほど当館へお泊まりいただきました。先生の二度目の妻として、文豪の後半生を支えた静子夫人のご実家が、当時川越にあったこともあり、何かとお付き合いをさせていただきました。今ここに、先生との思い出を集めてみました。
 
 
  旧島崎藤村邸の旅行・観光:おでかけガイド   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  当時貸家には珍しく書斎があり、この一帯を地元では「町屋園」と称していた。 建築年代1 : 大正後期から昭和初期
 
 
  春 <書籍> 島崎藤村/著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  教え子との禁断の愛。敬愛するあの人の自死。藤村20代の苦悩を描いた青春小説の古典的傑作。
 
 
  破戒 <書籍> 島崎藤村/著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治後期、部落出身の教員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていたにもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太郎の壮烈な死に心を動かされ、ついに父の戒めを破ってしまう。・・・
 
 
  藤村詩抄 <書籍> 著者/島崎藤村    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の近代詩の出発点となった島崎藤村の詩は、近代日本の自覚期ともいうべき歴史的青春と、詩人および人間としての人生の青春と、詩の文芸ジャンルとしての若さとが相まって生み出された比類のない青春文学である。『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』などより自選。各詩集初版本目次と校異を付す。
 
 
  →島崎藤村.1872   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「02近現代文学書」島崎藤村.1872
 
 
蒲原有明.1875
蒲原有明
  蒲原有明 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年3月15日 - 1952年2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。 D・G・ロセッティに傾倒し、象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋、三木露風らに影響を与えた。
 
 
  蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人の蒲原有明は明治9年(1876)東京に生まれました。本名は蒲原隼雄です。中学時代バイロン、ハイネを好み、詩をつくり始めます。明治27年国民英学会卒業後、林田春潮、山岸荷葉らと同人雑誌「落穂双紙」を創刊し、処女作「秋の山ざと」を発表します。
 
 
  夏の歌 蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄ぐもる夏の日なかは 愛欲の念にうるみ 底もゆるをみなの眼ざし、むかひゐてこころぞ悩む。
 
 
  有明集 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『有明集』(ありあけしゅう)は、蒲原有明の第4詩集。1908年(明治41年)1月刊。 近代詩の一つの到達点を示し、現在でこそ象徴詩の傑作とされているが、自然主義が詩壇の主流となり始めていた当時はさほど高く評価されなかった。蒲原は詩作を断念する事になる。
 
 
  Blog鬼火〜日々の迷走   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  カテゴリー「蒲原有明」の2件の記事  牡蠣の殻 蒲原有明 《2バージョン》
 
 
  蒲原有明 Ariake Kanbara   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原隼雄(1876-1952・明治9年-昭和27年)  昭和27年2月3日歿 77歳 (龍徳院宏文有明居士) 麻布・賢宗寺
 
 
  楽譜 - 蒲原有明 d-score   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  かんばら・ありあけ。詩人。東京の出身。『草わかば』『独絃哀歌』などの作品集がある。 戦前に親しまれた歌には「牡蠣の殻」があり、東海林太郎が吹き込んでいる。
 
 
  ★幽玄の詩人---蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日のおちぼ----(春鳥集)より  日の落ち穂、月のしたたり、残りたる、誰か味い  こぼれたる、誰かひろひし、かくて世は過ぎてもゆくか。
 
 
  蒲原有明に帰れ 関連リンク   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  僕、先月末出京しました。東京は我があこがれの都。雪のふる夜も青猫の屋根を這ふ大都会。いまは工場と工場との露地の間、職工の群がつてゐる煤煙の街に住んでゐます。黒い煤煙と煉瓦の家の並んでゐる或る貧乏なまづしい長屋に、僕等親子四人が悲しい生活をしてゐます。…
 
 
  蒲原有明  かんばらありあけ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治8年3月15日、東京府麹町区隼町(現在の最高裁判所付近)に、蒲原忠蔵の長男として生まれる。本名、隼雄(町名の隼町にちなんで父の友人が命名したという)。生来虚弱だったために、無事に育つとは期待されず、出生届は一年遅れで出された(戸籍上の出生日は翌年の同月同日)。
 
 
  蒲原有明の詩史的意味(PDF)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原有明 (1876-1952) について中村真一郎は1953年刊行の『文学の魅力』の中で次のように書いている…
 
 
  蒲原有明 【かんばら ありあけ】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治8年3月15日〜昭和27年2月3日。日本における象徴派の第一人者として、病的な神経と官能の交錯した、幽玄な象徴詩を作った。  代表詩集/代表作品/リンク
 
 
  蒲原有明《思文閣  美術人名辞典   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人。本名隼雄。東京生。有明は号。『読売新聞』の懸賞小説に「大慈悲」が一等当選するが小説は二作のみで、以後詩作に専念。第二詩集『独絃哀歌』で新しい詩人として注目され、第四詩集『有明集』は象徴詩人としての優れた才能を示す。芸術院会員。昭和27年(1952)歿、75才。
 
 
  蔵書 蒲原有明 「夢は呼び交す」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の象徴詩のさきがけとして有名な蒲原有明ですが、小説も書いています。この人のすごさは初めて書いた小説がいきなり読売懸賞小説の一等になって、華々しく文壇デビューを果たしたのに二作目を書いた後に、本来自分がやりたいのは詩だからということで小説はほとんど書かなくなります。
 
 
  蒲原有明  智慧の相者は我を見て   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  かんばら ありあけ 詩人 1876.3.15 - 1952.2.3 東京麹町に生まれる。 日本藝術院会員。、日本近代詩創始期の大きな存在。象徴詩の代表作「智慧の相者は我を見て」は第四詩集『有明集』(明治四十一年一月 1908 )の巻頭を飾った。回想「『有明集』の前後」は昭和四年(1929)に書かれている。
 
 
  「茉莉花(まつりか)」  詩: 蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  咽び嘆かふわが胸の曇り物憂き  紗(しゃ)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、或日は映る君が面、媚の野にさく 阿芙蓉の萎(ぬ)え嬌(なま)めけるその匂ひ。
 
 
  蒲原有明に帰れ  著者名:萩原 朔太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  僕、先月末出京しました。東京は我があこがれの都。雪のふる夜も青猫の屋根を這ふ大都会。いまは工場と工場との露地の間、職工の群がつてゐる煤煙の街に住んでゐます。…
 
 
  蒲原有明 作家別作品リスト:No.1055   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品:「あひびき」に就て (旧字旧仮名、作品ID:45680)〜/作業中の作品/関連サイト
 
 
  蒲原有明に帰れ 図書カード:No.44428   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  作品データ:萩原 朔太郎/作家データ/底本データ/工作員データ/ファイルのダウンロード/関連サイトデータ
 
 
  蒲原有明 かんばらありあけ(1876-1952)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  東京麹町隼町生まれ。本名隼雄(はやお。出生地にちなむ)。尚、有明自身は記述の中で生年を1975年としている。生まれ
 
 
  龍土会の記 - 蒲原有明 ( かんばら ありあけ )    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  龍土會の記  龍土會といつても誰も知る人のないぐらゐに、いつしか影も形もひそめてしまつてゐる。そのやうに會はたとへ消滅したものであるにしても、會員であつた人々は殘つてゐなくてはならないが、さて自分が會員であつたと名のりを揚げる特志者はまづ無いといつてよいだらう。然しどうやら會合のやうなものが存在して、そこへ最初から出席した二三のものには、今日でもなほ幾許かの追懷の情が殘つてゐるはずである。
 
 
  蒲原有明をもっと知る あのひと検索スパイシー   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年3月15日 - 1952年2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。
 
 
  蒲原有明 【かんばらありあけ】 デジタル版 日本人名大辞典   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治9年3月15日生まれ。硯友(けんゆう)社系の小説家として出発。のち詩作に専念し、「草わかば」「独絃哀歌」で注目される。明治38年の「春鳥集」、41年の「有明集」で象徴詩人としての才能を開花させ、その詩は北原白秋や木下杢太郎(もくたろう)らに影響をあたえた。芸術院会員。昭和27年2月3日死去。75歳。東京出身。国民英学会卒。本名は隼雄(はやお)。
 
 
  人あり 有田皿山を文学に昇華させた−象徴派詩人 蒲原有明    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  有田陶磁美術館の建物は明治の石倉を生かした様式ですが、玄関左手の石壁に日本象徴詩の草分け蒲原有明(かんばらありあけ)の詩「有田皿山にて」(原詩「呉須のにはひ」)の一節が、呉須で書いた*陶板にしてはめこんであります。
 
 
  蒲原有明(かんばら ありあけ)  1876-1952  わがまち人物館 麹町界隈   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日本における象徴派の詩人・蒲原有明は、1876年(明治9)麹町隼町8番地(現:隼町4)に生まれた。生誕の地名から隼雄と名づけられた。麹町小学校を卒業。雅号の有明は、父の郷里の佐賀の有明海に因む。島崎藤村らと親交を深めロセッティらの詩人画家を知り、「海潮音」を訳した上田敏などの影響で象徴詩を創作。従来の詩壇に見られなかった清新さを示した。
 
 
  著者 蒲原有明:5点   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1. 蒲原有明/薄田泣菫  2. 有明詩抄  3. 近代作家研究叢書 66  4. 夢は呼び交す  5. 蒲原有明詩集
 
 
  有明詩抄 <文庫> 蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  藤村・晩翠によるわが国新体詩勃興期の後をうけ,その爛熟期の明治詩壇にあって明星のごとく清新に輝くのが蒲原有明(1875‐1952)である.優婉きわまりない象徴詩において探りえた詩境は余人の追従を許さず,その価値は不滅である.本書には「草わかば」「独絃哀歌」「春鳥集」「有明集以後」の作品から代表的な詩篇を収めた.
 
 
  蒲原有明/薄田泣菫 /蒲原有明/著 薄田泣菫/著 [本]    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原有明(カンバラ アリアケ):明治9年、東京に生れる。小学生の頃すでに文学書に関心し、第一高等学校に不合格となって入会した国民英学会で英文学に親しむなかで詩を作り始め… / 薄田泣菫(ススキダ キュウキン):明治10年、岡山県に生れる。中学校を中退し、殆ど独学で和漢書、欧米の文学書を渉猟しては詩作をこととするようになるうち…
 
 
薄田泣菫.1877
薄田泣菫
  薄田泣菫 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年5月19日 - 1945年10月9日)は、日本の詩人。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆を書いた。
 
 
  薄田泣菫の旅   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫は明治10(1877)年、岡山県倉敷市連島町に生まれた。岡山一中を中退したが、上京して上野図書館で独学し、大坂毎日新聞社に入社。ここでかの芥川、菊池らを社員として獲得したことは余りにも有名である。 29歳の折に出版した第3詩集『二十五弦』で詩壇に名を馳せたのだが、その巻頭の「公孫樹下にたちて」の公孫樹とはどこのものかと議論になったことがある。現在、津山市の井口の天台宗長法寺にその詩碑が建っている。
 
 
  春菜 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  郷里にゐる弟のところから、粗末な竹籠の小荷物が、押潰されたやうになつたまま送りとどけられて来た。 その途端、鼻を刺すやうな激しい臭みが、籠の目を洩れて、そこらにぷんぷんと散ばつて往つた。それを嗅ぎつけると、私はほくそ笑みながら、すぐに自分の手で荷物の縄目を解きにかかつた。
 
 
  薄田泣菫 黒猫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「奥さん、謝れなら謝りまんが、そんならお宅の飼い猫だすかいな、これ」荷車曳きの爺(じい)さんは、薄ぎたない手拭いで、額の汗を拭きながら、こう言って、前に立った婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍(注1)に轢(ひ)き倒された真っ黒な小猫が、雑巾のように平べったくなって横たわっていました。
 
 
  薄田泣菫 生涯   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1877年5月19日、薄田篤太郎の長男として、岡山県連島村(現在の倉敷市連島町)に生れる。父は湖月庵清風の号で俳句をよくした。学資のために岡山中学を二年で中退後、上京。漢学塾の助教をしながら、上野の図書館で独学する。 1897年、早稲田系の「新著月刊」に『花密蔵難見』13編を投稿したところ、後藤宙外、島村抱月に認められて掲載されるが、東大系の雑誌が批判して論争になる。一躍注目されるが、病で帰郷。以後、生涯のほとんどを関西ですごし、東京の文壇に距離をおく。
 
 
  薄田泣菫の生家   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治10年(1877年)5月19日生れる。明治32年22歳に最初の詩集「暮笛集」を出版する。 その後、「ゆく春」、「志ら玉姫」、公孫樹下に立ちてを収めた「二十五絃」を刊行し、 島崎藤村後の第一人者として、明治詩壇の頂点を極めた。明治39年の詩集「白羊宮」は、円熟期を迎えた泣菫の集成。 昭和20年、少年時代をすごしたこの家に帰り、68歳の生涯を閉じた。
 
 
  茶話 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  茶話(ちゃばなし)は、日本の詩人 、薄田泣菫が、1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)にかけて、「大阪毎日新聞」などの新聞や雑誌に連載した総数811篇からなる 随筆の名称である。
 
 
  作家別リスト 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ここに収録したパーム本は、自由に使って下さい。転載、再配布についても、青空文庫の著作権の切れた作品の取り扱い規準に準じる限り、基本的に自由です。 (*はリンクによる収録作品です。これらの著作権は切れていませんので、著作権の切れていない作品の取り扱い規準に従って下さい。)
 
 
  薄田泣菫文学碑 大阪市   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(本名 薄田淳介)は、明治10年(1877年)岡山県浅口郡大江連島村(現倉敷市連島町)に生まれ、昭和20年(1945年)10月9日死去した。 故郷の小高い赤土の松山と遠浅の瀬戸内の海辺での遊びが、彼の自然感と動植物への親近感を育んだ。…
 
 
  薄田泣菫 Kyukin Susukida   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田淳介(1877-1945・明治10年-昭和20年) 昭和20年10月9日歿 68歳 (至誠泣菫居士)  岡山県倉敷市連島茂浦・薄田家墓所
 
 
  明治詩壇の巨匠 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治10年(1877年)5月19日父篤太郎、母里津の長男として生まれた。 薄田家は、代々文学を好む人が多く、泣菫も読書好きの大変優秀な少年で、連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していた。 明治27年、17歳で上京。漢学塾などに学びながら、上野図書館で和漢洋の書物を読破し、独学で学んだ。この時の素養が、後の泣菫の文学を決定することになる。
 
 
  倉敷バイブル 歴史 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(すすだきゅうきん)。明治から昭和にかけての詩人、随筆家。明治10年(1877)、浅口郡連島村(現倉敷市)生まれ。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。泣菫も読書好きの優秀な少年で、連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していた。岡山県尋常中学校(後に岡山第一中学校、現在の県立岡山朝日高校)を中退し、明治27年(1894)17歳で上京。
 
 
  薄田淳介(薄田泣菫) 白羊宮   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  わがゆく海:わがゆくかたは、月明りさし入るなべに、さはら木は腕だるげに伏し沈み、赤目柏はしのび音に葉ぞ泣きそぼち、石楠花は息づく深山、――『寂静』と、『沈黙』のあぐむ森ならじ。
 
 
  薄田泣菫 (おかやま人物往来)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治から昭和にかけての詩人、随筆家。 浅口郡連島村(現倉敷市)生まれ。 詩集「二十五絃」「白羊宮」で、上田敏らの絶賛をうけ、島崎藤村につづく時代の先駆的詩人として認められた。 また、大阪毎日新聞社に入社後、紙面に随筆を書く一方で、学芸部長として、菊池寛、芥川龍之介を起用し、新聞連載小説に新鮮な局面をひらいた。 記念碑が出生地の連島と津山市長法寺(代表詩「公孫樹下に立ちて」はこの寺の大イチョウを歌ったもの)にある。
 
 
  近代文学にみる大和 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「久米の仙人」は薄田泣菫が明治44年に「三田文学」に発表した作品である。/「飛鳥寺」は薄田泣菫が明治33年「三田文学」に発表した短文である。/「西大寺の伎藝天女」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。/「旋風」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。/「喜光寺」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。
 
 
  薄田泣菫(その1) 思いつくままに   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  私の家の近くに詩人・随筆家として有名な薄田泣菫(明治10年〜昭和20年)の生家があります。旧浅口郡大江村 現在の倉敷市連島町連島にあります。長い間、近所の方が大切に管理されていました。今から5年ほど前に倉敷市が取得して文化財として保存することになり、今ではきれいに改修されて一般公開されています。
 
 
  薄田泣菫 【すすきだ きゅうきん】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治10年5月19日〜昭和20年10月9日。古語や雅語を駆使して、古代王朝文化への憧憬をうたい、古典的に均整のとれた、格調高い詩を作った。  代表詩集/代表作品/リンク
 
 
  恋のわな  薄田泣菫 然(さ)りやな    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  あけぼの破(わ)るゝ光にながれ 君にまとひて、面照(おもでり)はなにほてるまで、さりやな、恋のたはむれ、さりなや。
 
 
  薄田泣菫  作家別作品リスト:No.150   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品:飛鳥寺 (旧字旧仮名、作品ID:16035):価 (新字旧仮名、作品ID:4894):雨の日に香を燻く (新字旧仮名、作品ID:804)〜/作業中の作品/関連サイト
 
 
  薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)のこと    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  当院は、京都市上京区烏丸一条通に位置し、「京都御所」のすぐ西に隣接しています。… 詩人「薄田泣菫」、明治10年(1877)岡山に生を受ける。祖父は医師、父は半農半俳。明治33年春、大阪で雑誌「小天地」を編集、36年以降は主に京都に在住。32年「暮笛集」、34年「ゆく春」、38年「二十五弦」「白玉姫」等の詩集を出し、39年の「白羊宮」にいたり、独自の古典的浪漫詩体を大成しました。
 
 
  薄田泣菫 すすきだ・きゅうきん 詩碑   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  岡山県出身。 本名は淳介。 中学を中退後独学し、上京後も苦学する。 キーツなどの英詩を愛読。 ソネットなど詩形の試みを収める『暮笛ぼてき集』(1899年刊)で世に認められた。 浪漫的文語定型詩の珠玉の詩篇を収める『白羊宮はくようきゅう』により、蒲原有明かんばら・ありあけと詩壇の双璧をなした。
 
 
  詩人のシノギ (薄田泣菫の巻) そろもん   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)は、蒲原有明とともに文語象徴詩の大成者とされている。象徴主義については「上田敏の巻」で学習したが、少年の頃の私は象徴主義とは漢字のフリガナを格好良く付けることだと信じていた(笑)。明治大正の詩は大概そうなのだが、象徴詩はとりわけルビが多い印象があって、読みづらく難解だと感じていたものだ。もちろん泣菫の詩には、異国の詩法と母国語との葛藤の末に見いだされた独自の境地がある。
 
 
  偉人たちを笑いの対象に変えた薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(1877-1945)は『白羊宮』という詩集で有名だが、これは文語で書いてあるため、読んでもちょっとやそっとでは理解できない。しかし、その後口語詩の分野に進まずに新聞に散文でコラムを書いて飯のタネを稼ぐようになった。それが『茶話』という題でまとめられて今も残っている。このほうは非常にわかりやすく、読んで楽しいものである。
 
 
  薄田泣菫 すすきだきゅうきん(1877-1945)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  岡山県浅口郡大江連島村(現倉敷市連島町)生まれ。本名淳介。号の泣菫は菫の花の可憐な姿と紫の色とを愛好した事にちな
 
 
  薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ああ、大和にしあらましかば、いま神無月(かみなづき)、うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、あかつき露(づゆ)に髪ぬれて、往きこそかよへ、斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の黄金(こがね)の海とゆらゆる日、塵居(ちりゐ)の窓のうは白(じら)み、日ざしの淡(あは)に、いにし代の珍(うづ)の御經(みきやう)の黄金文字.…
 
 
  薄田泣菫 (ススキダ・キュウキン) 作家検索   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年5月19日-1945年10月9日)は、日本の詩人。本名、淳介(じゅんすけ)。岡山県生れ。 暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆を書いた。
 
 
  薄田泣菫 (すすきだ きゅうきん) の 作品一覧   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  飛鳥寺 (あすかでら) :飛鳥寺薄田泣菫  私が飛鳥の里に來たのは、秋も半ばを過ぎて、そこらの雜木林は金のやうに黄いろく光つてゐた。つい門先の地面を仕切つた、猫の額ほどの畑には、蕎麥の花が白くこぼれてゐた。纖細な、薄紅い鷽(うそ)の脛のやうな莖が裾をからげたままで、寒さうに立つてゐる。…
 
 
  薄田泣菫 (すすきだきゅうきん)  詩人・随筆家   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  随筆集『大地讃頌』は名著の誉高い『草木蟲魚』の続篇ともいうべきもので、繰返しはん読に値する書物として知られる。収録作に相呼応するような詩「春夜」の冒頭を引いておこう。「春の光の薄くして/若き快楽(けらく)の短かきに/花咲く影に酔ひしれて/酒甕(もたひ)叩きて歌ふかな」  ▽「桜の花」は、『大地讃頌』(1929年6月 創元社)所収。
 
 
  薄田泣菫(すすきだきゅうきん) - Yahoo!百科事典    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、随筆家。明治10年5月19日、岡山県倉敷に生まれる。本名淳介(じゅんすけ)。岡山尋常中学(岡山一中)中退後上京し、働きながら上野図書館に通い独学。キーツの詩集を愛読した。1897年(明治30)『新著月刊』に投稿した詩が後藤宙外(ちゅうがい)らに認められ、詩壇に登場。99年第一詩集『暮笛(ぼてき)集』刊行、わが国最初のソネット(14行詩)形式の詩を試み、若い世代に大いに迎えられた。
 
 
  薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)の「白羊宮」(詩集)より   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(1877−1945:本名・淳介)は、日本における象徴詩を担った詩人として有名です。 そこで、今回は彼の第5詩集「白羊宮」から、詩一編をピックアップして鑑賞してみようと思います。「白羊宮」とは、占星術ではほぼ「牡羊座」のことです。昔のひと(詩人)は、占星術も勉強していたのですね。
 
 
  すすきだきゅうきん【薄田泣菫】 学習百科事典 キッズネット   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  (1877&#12316;1945)明治(めいじ)時代の詩人。岡山(おかやま)県に生まれる。本名淳介(じゅんすけ)。古語や雅語(がご)を詩の中に使いこなして,浪漫的(ろうまんてき)な古典(こてん)詩人として明治(めいじ)30年代後半に活躍(かつやく),蒲原有明(かんばらありあけ)とともに泣菫(きゅうきん)・有明(ありあけ)時代をつくった。詩集に『暮笛集(ぼてきしゅう)』『二十五弦(げん)』『白羊宮(はくようきゅう)』など。
 
 
  薄田泣菫の歌曲集出版へ  孫の満谷さん(兵庫・宝塚)ら編集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  倉敷市連島地区出身で、明治後期の詩壇を担った薄田泣菫(すすきだきゅうきん)(1877―1945年)の詩による歌曲集出版に向け、孫の満谷昭夫さん(78)=兵庫県宝塚市=らが編集作業を進めている。
 
 
  鏡花、浪漫派詩人と交流 薄田泣菫あての手紙見つかる  石川ニュース   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  金沢市の泉鏡花記念館は二十七日までに、金沢出身の作家泉鏡花(一八七三―一九三九)が明治詩壇の一翼を担った浪漫(ろまん)派詩人薄田泣菫(すすきだきゅうきん)にあてた文集未収録の手紙二通を東京の古書店を通じて入手した。
 
 
  薄田泣菫 すすきだきゅうきん 明治10〜昭和20(1877〜1945)  兵庫県かりの作家   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  兵庫県西宮市に居住。兵庫県が舞台の作品に「離愁」がある。 明治10年(1877)、浅口郡連島村(現倉敷市)生まれ。学資のために岡山中学を2年で中退後、上京。漢学塾の助教をしながら、上野の図書館で独学する。早稲田系の「新著月刊」に「花密蔵難見」13編を投稿したところ、後藤宙外、島村抱月に認められて掲載されるが、東大系の雑誌が批判して論争になる。
 
 
  薄田泣菫 <書籍類>   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  完本 茶話 (中) 冨山房百科文庫 (38)/完本 茶話 (下) 冨山房百科文庫 (39)/茶話 (岩波文庫)/完本 茶話 (上) 冨山房百科文庫 (37)/艸木虫魚 (岩波文庫) 薄田 泣菫/泣菫随筆 (冨山房百科文庫)/〜
 
 
  艸木虫魚 <書籍> 著者 薄田泣菫    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  冴えた眼力で自然と人事を観察し、端正な文章で情感こまやかにつづる清澄な心境随筆。とりわけ、幼少時から親しんだ身近な小動物や草木に注ぐ著者の目はあたたかく、深い共感をこめて彼らに語りかける。枯淡と洒脱の円熟味ゆたかなエッセイの数々は、どこかなつかしく、またさわやかな読後感を呼ぶ。
 
 
  薄田泣菫 ―詩の創造と思索の跡 <書籍> 松浦澄惠 著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  第一章 独学時代と泣菫の雅号/第二章 『新著月刊』と泣菫/第三章 泣菫の詩を読む
 
 
  蒲原有明/薄田泣菫 (近代浪漫派文庫) (文庫)    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原有明:明治9年、東京に生れる。小学生の頃すでに文学書に関心し、第一高等学校に不合格となって入会した国民英学会で英文学に親しむなかで詩を作り始め、明治27年にはじめて作品を発表してから、一時期は小説、紀行で文名を知られるが、再び詩作に向い、ロセッティの影響下に抒情詩人として出立した。  薄田泣菫:明治10年、岡山県に生れる。中学校を中退し、殆ど独学で和漢書、欧米の文学書を渉猟しては詩作をこととするようになる…
 
 
野口雨情.1882
野口雨情
  野口雨情 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)出身。 廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として生まれる。
 
 
  野口雨情旧居   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「七つの子」「赤い靴」「十五夜お月さん」「あの町この町」「船頭小唄」「波浮の港」などの数々の童謡で知られる詩人、野口雨情は明治15年「1882年」に茨城県多賀郡中郷村(現在の北茨城市)で生まれました。明治34年に東京専門学校(現在の早稲田大学)文科に進み、坪内逍遥に師事して民謡創作の道を進み数多くの童謡・民謡をつくりました。
 
 
  野口雨情と柏坂   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情は「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩であり、民謡は民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である」との信念をもって童謡民謡普及のため全国各地に赴き、その土地の特徴を詠み込んだ民謡を詩作する旅を重ねた。それは国内のみならず当時の台湾、朝鮮、満州にまで及んでいた。
 
 
  野口雨情文学碑   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  八幡東区皿倉山 皿倉山頂付近  「くきの海辺の船もよい 船も帆がなきや行かれない お供についたくまわにが  山で帆柱きりましたその時きつた帆柱は 帆柱山の杉でした」
 
 
  野口雨情  虹の橋   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ある山国に、美しい湖がありました。 この湖には、昔から、いろいろな不思議なことがありました。青々と澄んだ水が急に濁つたり、風もないのに浪が立つたり、空が曇つて星のない晩でも、湖の中にはお星様が映つて見えることなぞもありました。…
 
 
  野口雨情 (福渡付近)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  泉漾太郎氏が中学生の時、野口雨情が選者をしていた時のコンクールに応募したのがきっかけで、漾太郎氏は雨情の弟子となった。そのため雨情は度々塩原を訪れている。
 
 
  野口雨情 こころの詩   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情の作詞した童謡や民謡は驚くほどたくさんあります。最近童謡が歌われなくなっているようですが、それでも雨情の童謡は一度は口ずさんだことのある曲が何曲かあると思います。思いついた雨情の歌を載せてみました。歌ってみて下さい。
 
 
  野口雨情 コドモノクニ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情は創刊から長年にわたって『コドモノクニ』に童謡を寄稿し、同誌を支えた童謡詩人のひとりとなる。「あの町この町」「木の葉のお船」「兎のダンス」「雨降りお月さん」など、多くの作品に中山晋平の曲がつけられたが、なかでもこれらの童謡は人気を博し、童謡史に残るものである。
 
 
  野口雨情の童謡自然詩   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情の生涯、作品、記念館、生家などについての情報を掲載しております。 野口雨情の一生/野口雨情の作品/野口雨情の生家/野口雨情記念館/サイト情報
 
 
  詩人・野口雨情のご案内   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情は、63年という生涯の中、2000近くに渡る沢山の詩を全国を巡りながら造り続けた歴史に残る詩人家です。 全国各地には、彼が残した詩をもとに作られた歌碑が数多く存在します。 層雲閣グランドホテルの露天風呂「宝石の湯」では、野口雨情が層雲峡に訪れた時に作られた詩、「大函小函」の歌碑が設置されています。
 
 
  野口雨情生家 北茨城市   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  木造瓦葺二階建のこの家は、明治時代の初めに建てられたもので、その後一部が改造されている。「七つの子」「しゃぼん玉」などの童謡や「磯原節」「磯原小唄」といった新民謡で知られる詩人野口雨情は、明治15年(1882年)にここで生まれ、15才で上京するまで育っている。
 
 
  野口雨情  発見!!いばらき   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  放浪する詩人 : 野口雨情は、多賀郡磯原村(現北茨城市)で廻船業を営む家に長子として生まれた。父親は村長を務めたこともあり、伯父には衆議院議員野口勝一(北巖)がいた。中学より東京で学び、東京専門学校(現早稲田大学)に入学したが、家業が傾いたために翌年には中退している。父親が没すると帰郷し家業を整理した(1904年)。
 
 
  野口雨情 のぐち・うじょう   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  茨城県北茨城市 北茨城歴史民族資料館(野口雨情記念館)でお会いしました。
 
 
  61.野口雨情の「筑紫小歌」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情は、大衆に愛され歌い継がれた「 船頭小唄(枯れすすき)」や「波浮の港」など歌謡曲、民謡でも一世を風靡しました。この2曲は中山晋平の作曲です。二人は童謡「証誠寺の狸囃子 」「あの町この町」「雨降りお月」などを世に送った名コンビです。
 
 
  野口雨情童謡碑 北九州市   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  童謡『赤い靴』の作詞などで活躍した「野口雨情」。碑には、昭和7年、八幡市を訪れた野口雨情とその門下生で北九州市出身の童話作家・阿南哲朗が皿倉山に登った時に作った詩である「帆柱山の歌」、「くきの海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についたくまわにが 山で帆柱きりました その時きった帆柱は 帆柱山の杉でした」と書かれています。
 
 
  波浮を訪れた文豪ー野口雨情   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  波浮港には明治から昭和にかけて、さまざまな文人墨客が保養や観光、あるいは作品を執筆製作するために訪れ逗留しました。そして波浮の港を作品にしています。
 
 
  野口雨情 - あの人検索 SPYSEE   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。
 
 
  野口雨情記念 童謡館 湯本温泉   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「青い眼の人形」「赤い靴」「十五夜お月さん」「しゃぼん玉」など、多くの童謡を作詞した詩人野口雨情(本名英吉1882-1945)が湯本温泉で生活するようになるのは大正4年(1915)、33歳の時である。
 
 
  福島 いわき湯本温泉 旅館 新つた   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情 (のぐち うじょう) : 北原白秋、西条八十と並ぶ三大童謡・民謡詩人。童謡の代表作には、十五夜お月、七つの子、赤い靴、青い目の人形、雨降りお月、兎のダンス、あの町この町、しゃぼん玉、などがあり民謡には、波浮の港、須坂小唄、などがあります
 
 
  野口 雨情 作家別作品リスト:No.286   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品/作業中の作品/関連サイト
 
 
  野口雨情生家・資料館  うぃーくえんど   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北茨城市磯原出身の野口雨情の生家。雨情は15歳で上京するまで、ここで過ごしました。 木造二階建ての立派な屋敷は磯原海岸に向かって建っていることから「観海亭」とも呼ばれていました。
 
 
  さすらいの詩人 野口雨情 著名人のお墓   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき  どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき 」(船頭小唄) 野口雨情の歌は、身にしみ入るような感じがする。冒頭の『船頭小唄』をはじめ、 『波浮の港』、『十五夜お月さん』などの歌は、雨情の不朽の名作だろう。 いまもわたしたちの胸の中に生きつづけている。
 
 
  野口雨情(のぐちうじょう) - Yahoo!百科事典    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人。本名英吉。茨城県磯原(いそはら)に生まれる。東京専門学校(現早稲田(わせだ)大学)中退。1905年(明治38)刊の『枯草(かれくさ)』は日本で初めての創作民謡集。『船頭小唄(こうた)』『波浮(はぶ)の港』をはじめ地方民謡も数多くつくり、主として作曲の中山晋平(しんぺい)と組み、大正末から昭和初頭にかけて民謡詩人として人気の中心にあった。
 
 
  北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  このページでは、「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「船頭小唄」「波浮の港」等を作詞し、今なお多くの人々の心に愛着を抱かせる当市が生んだ詩人「野口雨情」を紹介します。
 
 
  野口雨情記念館 (北茨城市歴史民俗資料館)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ここには、詩人野口雨情に関する資料などが展示してあります。 近くには野口雨情生家、二つ島、天妃山など散策するコースも豊富にあります。
 
 
  ~伊香保温泉 創業明治元年~  雨情の湯 森秋旅館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「赤いくつ」「七つの子」など多数の有名な作詞を手がけた童謡作家の野口雨情が定宿としていた和風の落ち着いた旅館です。
 
 
  ・・・・・野口雨情旧居(栃木県宇都宮)を訪ねて・・・・   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情童謡の代表作に十五夜お月さん・七つの子・雨降りお月さん・兎のダンス・証城寺の狸囃子等等沢山あります。童謡、唱歌、歌曲の違いは?昔、歌曲で歌って下さいと言われ、何処に線引きがあるのか訊いた事がありました。 解る気がします。十五夜お月さんを私はオカリナで歌曲として歌いたいと思いました。
 
 
  シャボン玉 ---- 野口雨情/中山晋平 d-score   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情・晋平コンビによる代表作の一つ。『野口雨情民謡童謡選』(1962年)に収められた年譜によれば、雨情がこの歌(詞?)を最初に発表したのは大正9(1920)年だと記されている。一般にはその2年後の『金の塔』。
 
 
  楽譜 - 赤い靴 ---- 野口雨情/本居長世 d-score   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情・長世コンビによる名作の一つ。小さな女の子が外国人に連れられて行ったというこのミステリアスな童謡は、発表以来、さまざまな憶測が飛び交ったが、もともとは雨情の不遇時代、ある北海道開拓民と知り合ったことが作詞の発端とされている。
 
 
  野口雨情生家の旅行・観光:おでかけガイド  じゃらん   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情は明治15年(1882年)磯原町の野口量平の長男として生まれ、本名を英吉といった。磯原尋常小学校(現在の精華小学校)を卒業すると、政治家の叔父野口勝一氏のもとから東京専門学校(現在の早稲田大学)に学んだ。明治37年頃、作詩生活に入り、最初の詩集「枯草」を出版した。
 
 
  有鄰 「青い眼の人形」と「赤い靴」 -野口雨情没後60年-   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「青い眼の人形」は大正10年12月号の児童雑誌『金の船』に発表され、これに本居長世[もとおりながよ]が長調に短調のアンコをはさむおしゃれなメロディをつけた。
 
 
高村光太郎.1883
高村光太郎
  高村光太郎 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年3月13日 - 1956年4月2日)は、日本の彫刻家、評論家、詩人。東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。 本職は彫刻家・画家と言えるが、『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため、詩人として認識されることも多い。評論や随筆、短歌の著作もある。
 
 
  高村光太郎 特集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎 特集
 
 
  道程  高村光太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  僕の前に 道はない 僕の後ろに 道は出来る   ああ 自然よ 父よ …
 
 
  高村光太郎談話会   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎談話会ホームページへようこそ。このサイトでは高村光太郎や智恵子に 関する資料や情報をできる限り掲載
 
 
  智恵子抄 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『智恵子抄』(ちえこしょう)は、詩人の高村光太郎が1941年に龍星閣から出版した詩集。1914年に処女詩集『道程』が出版されて以降、『現代日本詩集』(改造社、1929年)などの詩華集に未刊詩が多数収録されることはあったものの、高村単独による詩集の計画は長らく実現しなかった。1940年に出版された改訂版『道程』を除くと、『智恵子抄』は2冊目の詩集にあたる。
 
 
  智恵子抄 高村光太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  人に  いやなんです  あなたのいつてしまふのが――   花よりさきに実のなるやうな 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな 夏から春のすぐ来るやうな そんな理窟に合はない不自然を どうかしないでゐて下さい …
 
 
  高村光太郎 『道程』 朗読   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎の詩を朗読しています  道程/失われたるモナ・リザ/秋の祈/牛 道程他
 
 
  「高村光太郎」 『道程』前期   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎には、明治四十三年(一九一〇)以前に、詩集『道程』にいれなかった数篇の詩がある。 「秒刻」、「マデル」、「豆腐屋」、「博士」、「あらそひ」、「敗闕録」などである。それ以前にさかのぼると、二百七十首ほどの短歌作品がある。…
 
 
  高村光太郎 国際留学生協会   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎はパリでの留学体験を通して、近代的自我に目覚めていく。それは新しい彫刻と詩の世界を切り拓く契機となるが、同時に古い日本の伝統的彫刻家である父との確執を生み出すことにもなる。父への反発、そしてデカダンへの耽溺。彼の前に救世主のように現れたのが智恵子であった。
 
 
  高村光太郎の牛の詩について   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  光太郎の牛は凄味がある。ブレ−クの虎のような凄味がある。天才にしてしか書けないものかもしれない、性格が露骨にでた作品である。光太郎自身が牛のような人間だったのだ。頑丈な体躯をもった人間である。この牛は水牛を想像して書いたのか、今の肉牛や乳牛は本当の牛ではない、水牛が本当の牛である。太古の原生の牛である。これは沖縄で身近に歩くのを見て感じたのだ。
 
 
  花巻市 高村山荘・高村記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  花巻市太田3−91  昭和20年(1945)62歳 5月・花巻市の宮沢清六(賢治の弟)方へ疎開 10月稗貫郡太田村山口の小屋で農耕しながら一人で暮らす。
 
 
  智恵子抄  図書カード:No.46669   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  底本: 智恵子抄 / 出版社: 新潮文庫、新潮社 / 初版発行日: 1956(昭和31)年7月15日、1967(昭和42)年12月15日43刷改版
 
 
  高村光太郎の東北 - 東北物語り 伝承館    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「三陸廻り」 (昭和6年)/「みちのく便り」 (昭和25年)/「花巻温泉」/「開墾」/「山の雪」/「「山の人々」/「山の春」/「山の秋」  「典型」 (昭和25年)/「造形詩編」/「生命の創造」/「人と作品・高村光太郎」/「作家と作品・高村光太郎」  「二本松と裏磐梯」/「高村光太郎の愛と詩」/「高村光太郎・智恵子『紙絵と詩 智恵子抄』/「わが国の彫刻の歴史」/「美の日本的源泉」  「美と真実の生活」/「十和田湖の裸像」/「造形詩編」/「荻原守衛」/「オオギュスト ロダン」
 
 
  【 あの人の人生を知ろう〜高村光太郎 】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  “智恵子抄”から。智恵子の発病前、発病後、死後に分けて、光太郎の詩を紹介  1.結婚から10年後。最も幸福に満たされている時代の詩。光太郎が東北福島にある智恵子の実家に帰省していた時のもの。ここに出てくる阿多多羅山とは、現在の安達太良山(あだたらざん)で、福島北部にある火山だ。智恵子の実家は酒蔵だった。
 
 
  高村光太郎 たかむらこうたろう(1883-1956)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  【ぼろぼろな駝鳥】/【人に】/【人類の泉】/【冬が来た】/【道程】/【愛の嘆美】/【あなたはだんだんきれいになる】/【レモン哀歌】/【元素 智恵子】
 
 
  レモン哀歌 高村光太郎 - ポエトリージャパン   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  レモン哀歌   そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ …
 
 
  高村光太郎(1883-1956・明治16年-昭和31年)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  昭和31年4月2日歿 74歳(光珠殿顕誉智照居士)巣鴨・染井霊園  初夏の新葉の世界を遮るような赤芽垣で囲まれ、がっしりと組んだ高村家墓石の右手前には、小さな自然石にはめ込まれた銅板。「花をさすと人はいへどもわがつくる壷はもろ手にかき抱くべき  豊」の銘あり。静かな墓みちから見上げるその墓碑は、厳格な父光雲の建てたもので、高村家一族13人の法名が刻まれている。智恵子の法名も光太郎の法名の前に記してある。
 
 
  高村光太郎と智恵子の世界 富山県水墨美術館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎(1883−1956)は、日本近代木彫界の重鎮、高村光雲の長男として東京に生まれ、東京美術学校を卒業後、欧米に留学しロダンに傾倒します。帰国後は、彫刻を制作するとともに文学界とも関わり、「緑色の太陽」に代表される美術評論や、詩集『道程』『智恵子抄』を発表し、近代日本の芸術思潮に大きな影響を与えました。
 
 
  高村光太郎(たかむらこうたろう) - Yahoo!百科事典   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、彫刻家。明治16年3月13日東京・下谷(したや)に生まれる。父は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科教授高村光雲(こううん)。本名は光太郎(みつたろう)。のち自ら光太郎(こうたろう)と称した。
 
 
  たかむらこうたろう【高村光太郎】 学習百科事典 キッズネット   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  (1883&#12316;1956)大正・昭和時代の詩人・彫刻(ちょうこく)家。東京(とうきょう)に生まれる。彫刻(ちょうこく)家高村光雲(たかむらこううん)の子。東京美術(とうきょうびじゅつ)学校(今の東京芸術(とうきょうげいじゅつ)大学)卒業(そつぎょう)後,ヨーロッパ・アメリカに遊学,ロダンなどの影響(えいきょう)を受けた。帰国後,『スバル』に詩や美術評論(びじゅつひょうろん)をのせ,西欧(せいおう)の近代芸術思潮(げいじゅつしちょう)を紹介(しょうかい)したが,やがて,白樺派(しらかばは)の影響(えいきょう)をうけ,理想主義的(しゅぎてき)な方向をはっきり示(しめ)した。
 
 
  智恵子抄 <書籍> 高村光太郎/著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  情熱のほとばしる恋愛時代から、短い結婚生活、夫人の発病、そして永遠の別れ……智恵子夫人との間にかわされた深い愛を謳う詩集。
 
 
  高村光太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  →「08彫刻」彫刻家/高村光太郎.1883
 
 
竹久夢二.1884
竹久夢二.
  竹久夢二 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。
 
 
  竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二は画家としての方が有名ですが、多くの詩も残しています。そうは言っても、わたしも長い間「宵待草」の作詞者としての夢二を、かろうじて認識しているだけでしたが。 ところで、夢二の詩を一つ一つ読んでいると、あちらこちらに北原白秋が顔を出しているような気がします。…
 
 
  みんゆうNet   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治17(1884)年岡山県邑久郡本庄村生まれ、昭和9(1934)年没。画家、詩人、歌人。挿絵画家から出発し、主に「女絵」を描き、”大正の歌麿”と評された。広く愛唱されている抒情(じょじょう)詩に「宵待草」がある。
 
 
  竹久夢二 本   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『 竹久夢二 恋の言葉 』画家としてだけでなく、詩や童謡の創作でも才能を発揮した夢二の言葉を、日記や手紙などから抜粋。
 
 
  竹久夢二とお葉   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  お葉(本名永井兼代またはカ子ヨ、あるいは佐々木カ子ヨ)は1904年、秋田市土崎の出身。 上京後12歳の時、東京美術学校でモデルを始めた。(「お兼 初めてのモデル」「大正期の美術モデル事情」の項参照)
 
 
  竹久夢二の紹介   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二は、明治末から昭和初期にかけて活躍、一世を風靡した詩画人です。大正の歌麿とも言われているように、その作品には市井のくらしに根付いた喜びや悲しみが表わされ、一世紀に近い時を経た今も人々の心を魅了します。美人画はもちろん、子供画や晩年は日本の山河を多く主題としました。
 
 
  金沢湯湧夢ニ館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二が亡くなって長い歳月を経た今も、その豊かな芸術性は、多くの人から愛されています。夢二とその芸術性を「旅」 「女性」 「聖書」、これらの視点から改めて問い直すこと、また夢二がその最愛の女性・笠井彦乃と幸せな時を過ごした土地が、この「湯涌」であったという事実−。ここに、当館設立の大きな意味があります。
 
 
  ある眼 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「あんな娘をどこが好いんだ、と訊かれると、さあ、ちよつと一口に言へないが」さう云つて、画家のAは話し出した。…
 
 
  宵待草 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  夢二の代表作ともいえるこの歌。大正七年に楽譜が発売されるや、たちまち大ブームとなりました。男を待つ女の歌か、女を待つ男の歌か、いずれにせよ、やるせない恋の歌です。
 
 
  竹久夢二 コドモノクニ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久は初め、詩人になりたいと願っただけに、詩や小説を書き、俳句や短歌を詠み、小唄を収集するなど、終生、文芸に関心を寄せた。
 
 
  竹久夢二 - 事典 略歴   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二専門 竹久夢二の情報のみお届けします。  明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日) 日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。
 
 
  竹久夢路伊香保記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  群馬県の中部、榛名山の中腹に位置する町、伊香保。万葉の時代、現在の榛名山一帯は伊香保嶺とよばれ、万葉集の東歌のうち上野国(群馬県)の部でもっとも多く歌に詠まれたのが伊香保でした。夢二と伊香保との出会いは、少女からの一通の手紙で始まります・・・。
 
 
  竹久夢二 たけひさゆめじ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  <竹久夢二と笠井彦乃>竹久夢二は1884年、岡山県瀬戸内市の造り酒屋に生まれた。笠井彦乃は1896年、
 
 
  竹久夢二の生家と少年山荘   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  生家は夢二が16歳まで過ごしたところ。茅葺きの家は生前そのままに保存されている。
 
 
  昭和四年五月六日 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  昭和四年五月六日 草津近郊 (左より) 加藤朝鳥、安成二郎、竹久夢二、藤田健次
 
 
  ある眼 - 竹久夢二  小説@pedia   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「あんな娘をどこが好いんだ、と訊かれると、さあ、ちよつと一口に言へないが」さう云つて、画家のAは話し出した。 彼女はただ普通のモデル娘として、私の画室に通つてきてゐたのです。…
 
 
  ドイツ・スイスでの竹久夢二探訪記   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  以下は、インターネットのホームページに記した、ドイツ・スイスにおける晩年の竹久夢二の活動の探索記録(抜書き)である。
 
 
  竹久夢二と笠井彦乃が歩く下落合。   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二が、愛人の笠井彦乃と逢瀬を重ねるため、人目につかないようひそかに下落合で暮らしていたことは、ほとんど知られていない。
 
 
  竹久夢二 作家別作品リスト:No.212   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品/作業中の作品/関連サイト
 
 
  大正浪漫・漂泊と叙情の画家 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  瀬戸内市邑久町本庄の小さな茅葺の家で夢二は16歳まで暮らしました。 生家は当時そのままに保存されており、素描、版画なども展示されています。夢二芸術の源流(ルーツ)を訪ねてみてはいかがでしょうか。