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04 詩/詩人データ/漢詩/論語/儒学/思想・哲学
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 自由詩は著名な詩人のホームページを個別に掲載いたしました。詩人データもあります。漢詩といえば、あまりにも有名な李白・杜甫をはじめ、古来からの論語に関したホームページにも触れています。どうぞ、ごゆっくりご覧ください。(-551,-372,-369は、BC551,BC372,BC369を表す)(只今、このコーナー充実中)

詩人データ 現代詩人/1931〜 外国詩人 北村透谷/1868 土井晩翠/1871
島崎藤村.1872 蒲原有明.1875 薄田泣菫.1877 野口雨情.1882 高村光太郎.1883 竹久夢二.1884
山村暮鳥.1884 北原白秋.1885 石川啄木.1886 萩原朔太郎.1886 大手拓次.1887 川路柳虹.1888
深尾須磨子.1888 室生犀星.1889 三木露風.1889 日夏耿之介.1890 白鳥省吾.1890 佐藤春夫.1892
堀口大學.1892 西脇順三郎.1894 宮沢賢治.1896 八木重吉.1898 三好達治.1900 高橋新吉.1901 
村野四郎.1901 中野重治.1902 北園克衛.1902 金子みすゞ.1903 草野心平.1903 原民喜.1905
伊東静雄.1906 中原中也.1907 まど・みちお.1909 立原道造.1914 石原吉郎/1915 黒田三郎/1919
吉岡実/1919 宗 左近/1919 石垣りん/1920 一丸章/1920 鮎川信夫/1920 田村隆一/1923
相田みつを.1924 吉野 弘/1926 黒田喜夫/1926 金井 直/1926 茨木のり子/1926 村上昭夫/1927
粒来哲蔵/1928 木島 始/1928 新川和江/1929 川崎 洋/1930 . .
漢詩 李白.701 杜甫.712 白居易.772 韓愈.768 菅原道真.845
儒学 朱子学 陽明学 四書五経 論語 格言・ことわざ
孔子.-551 孟子.-372 老子.-500頃 荘子.-369 伊藤仁斎.1627 荻生徂徠.1666
思想家・哲学者 西田幾太郎/1870 和辻哲郎/1889 森信三/1896 吉本隆明/1924 西尾幹二/1935
ソクラテス/-469 プラトン/-427 アリストテレス/-384 F・ベーコン/1561 デカルト/1596 カント/1727
ヘーゲル/1770 ショーペンハウアー/ キェルケゴール/1813 F・ニーチェ/1844 ハイデッカー/1889 哲学名言集
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  詩人とは? weblio辞書
 
 
  文学極道   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  芸術としての詩を発表する場、文学極道です。 ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい罵倒・酷評を受ける場合があります。 投稿の際は、必ず各掲示板の投稿規程をお読みください。
 
 
  身すがらつらら   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  このWEB SITEはフリーのライター野谷真治の作品と現状を多くの方に知っていただくために作りました。現在は短詩、多行詩、エッセイ、Web、取材など、多岐にわたるメディアでお仕事をさせていただいていますが、これからは、出来れば小説も含め、もっと幅広いメディアで、より良い仕事を続けていこうと思っています。
 
 
  古典文学作品紹介   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩(Poem)  ジョン・キーツ(John Keats)/サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman)/中原 中也(Chuya Nakahara)
 
 
  歌人の花 詩人の海    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北原白秋はバラの詩を詠んだ。神秘なる驚くべき花として。石川啄木も北の海辺に咲くハマナスを歌い、漂泊人生が始まった北海道・函館に思いを寄せた。一歳違いの二人は同じ時代を生き、美と郷愁と畏怖(いふ)に満ちた自然に向き合う。
 
 
  憂色の空 真夏の夢に   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  身辺雑記と更新内容 昔の詩 自己紹介とエッセイ 童話風短篇集 アクアラヴァーズ リンク
 
 
  清水鱗造 - 公式ページ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  灰皿町のPoemWiki内にある自己紹介です。私の家族のページです。 このサイトに発表してきた、1996年の初めの詩から2000年2月第4週までの「週刊詩」が本になりました。書名は『ボブ・ディランの干物』。この詩集に興味のある方は右の詩人産直販売から、どうぞ。とはいうものの作品はすべて、このサイトで読めます。本は多少推敲してありますが。
 
 
  山口県人詩人会 (山詩会)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  なぜ我々が「短詩」にこだわったかを述べさせていただきます。長い詩ならすでに従来あります巨大投稿サイトという受け皿があります。しかし、短詩、粒詩の専門投稿所というのは、まだあまり無いように思います。短詩、粒詩のよさというのは、その多くが日常語で語られ、レトリックや小難しい暗喩や比喩などに頼り切らない等身大の言葉で、でも人生における誰にも訪れるような「真実の一瞬」のようなものを切り取ることができる、というところにあると思います。
 
 
  日本現代詩歌文学館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  わが国唯一の現代詩歌専門の総合文学館  ・なぜ「詩歌」文学館なの? 詩歌の本や雑誌は全国で膨大な種類のものが発行されていますが、それぞれの部数はほとんどがごくわずかなものです。ですから時間がたってしまうとほとんど手に入れることができなくなってしまいます。 そのような状況のなかでもっと優れた詩歌に触れたい、もっと研究を深めたいという人たちがたくさんいて、その声が結集して「詩歌」文学館ということになったのです。
 
 
  伊東屋で城米彦造遺作展   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  銀座・伊東屋(中央区銀座2-7-15、03-3561-8311)は2008年5月8日から5月14日まで本館9階ギャラリーで「街頭詩人・画家-城米彦造『昭和を謳(うた)う』」を開催する。
 
 
  想い出の詩藻   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  私が中学から高校・大学時代にかけて愛読した詩の数々を、そのときの想い出ととも紹介したい。 紹介する詩は、今から50年以前に発表されたものにほぼ限られる。・・・
 
 
  日本詩人愛唱歌集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩と音楽を愛する人のためのデータベース このHPは、日本の代表的な詩人の作品中、どの詩がどんな人に作曲されたのか、また、どの詩が多くの人に作曲されたのかを調べてみようというものです。
 
 
詩人データ
  詩人 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  叙事詩作者としてホメロス、ダンテなど。 漢詩作者として李白、杜甫など。 象徴主義の詩人としてフランスではボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメ、ヴァレリー、他にアイルランドのイェイツ、ドイツのリルケなど。 戦後日本の詩人として荒地派の鮎川信夫、田村隆一や金子光晴、吉本隆明、谷川俊太郎など。
 
 
  詩人一覧 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人一覧(しじんいちらん)は、主な詩人の一覧である。
 
 
  Category:詩人   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  このカテゴリには 36 の項目があります。
 
 
  Flinker.jp  詩人一覧   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  全」38件 / 著者名  ふりがな  分類  販売トップ作品  登録数  ブックマーク
 
 
  日本詩人愛唱歌集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ここでは、柿本人麻呂から俵万智までの71人の詩人、歌人、俳人、および『古事記』『日本書紀』『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』『梁塵秘抄』『小倉百人一首』を対象に、「誰がどの詩に作曲したか」(ある作曲家がどの詩に作曲したのかをまとめたもの)を公開しています。
 
 
  近代詩人・歌人自筆原稿集 <書籍>   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  本書は、明治・大正・昭和前半に至る、近代を代表する詩人・歌人七十四人の、詩稿、歌稿、原稿、書簡等を集成したものである。全集未載の萩原朔太郎書簡など120点を公開する。
 
 
  主要詩人一覧   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  独断と偏見でピックアップした詩人の詩に付けられた曲の本サイトに投稿があるものの数のリストです。
 
 
現代詩人/1931〜
  大岡信 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  大岡 信(おおおか まこと、1931年(昭和6年)2月16日 - )は詩人。東京芸術大学客員教授。日本ペンクラブ理事。一ツ橋綜合財団理事。静岡県三島市生まれ。東京大学文学部国文科卒業。学生時代から詩人として注目され、読売新聞社外報部記者を経て明治大学教授となる。1979年(昭和54年)より2007年(平成19年)まで『朝日新聞』で『折々のうた』を連載。菊池寛賞、読売文学賞など受賞多数。彼の詩は英語、オランダ語、フランス語、ドイツ語、中国語、スペイン語、マケドニア語に訳されている。
 
 
  白石かずこ (wiki^tan)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  白石 かずこ(しらいし-、1931年2月27日 - )は、詩人。カナダのバンクーバーに生まれる。7歳で帰国し、10代から詩を書き始める。早稲田大学文学部在学中の1951年、詩集『卵のふる街』を上梓。1970年、『聖なる淫者の季節』でH氏賞、1978年、『一艘のカヌー、未来へ戻る』で無限賞、1982年、『砂族』で藤村記念歴程賞、1997年、『現れるものたちをして』で高見順賞、読売文学賞、2003年、『浮遊する母、都市』で晩翠賞、2009年『詩の風景、詩人の肖像』で二度目の読売文学賞受賞。
 
 
  入沢康夫 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  入沢 康夫(いりさわ やすお、1931年11月3日 - )は島根県松江市出身の詩人、フランス文学者、日本芸術院会員。 東京都立西高等学校、東京大学文学部仏文科卒業。1955年、在学中に詩集「倖せ それとも不倖せ」を出版。詩論集を多く発表し、実作のみならず理論面でも多大な影響を与える。宮沢賢治、ネルヴァル等の研究でも名高い。フランス詩の翻訳も行っている。
 
 
  谷川俊太郎 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、1931年12月15日 - )は、詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。哲学者で法政大学学長の谷川徹三を父として東京府東京市(東京都)杉並区に生まれ育つ。 東京都立豊多摩高等学校卒。
 
 
  吉原幸子 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  吉原 幸子(よしはら さちこ、1932年6月28日 - 2002年11月28日)は、日本の詩人。 東京・四谷生まれ。四人兄妹の末っ子。三陽商会の創業者、吉原信之は実兄。兄姉の影響で幼い頃から萩原朔太郎や北原白秋の詩に親しむ。
 
 
  高良留美子 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高良 留美子(こうら るみこ、1932年12月16日 - )は、詩人、女性史研究者。 高良武久、高良とみの娘として東京に生まれる。東京藝術大学美術学部、慶應義塾大学法学部中退。竹内泰宏と結婚。1962年、詩集『場所』でH氏賞受賞。1988年、詩集『仮面の声』により現代詩人賞、2000年、詩集『風の夜』で丸山豊記念現代詩賞を受賞。詩のみならず評論でも活躍、『高良留美子の思想世界』全6巻があり、岩見照代と「女性のみた近代」を編纂、また両親の著作も編集している。
 
 
  三木卓 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  三木 卓(みき たく、1935年5月13日 - )は日本の詩人・小説家。 本名、冨田三樹。東京都に生まれるが、新聞記者だった父に連れられて一家で大連に移住、幼年期を過ごす。しかし敗戦で引き揚げを余儀なくされ、帰国途中で父、祖母らを亡くす。この時の体験が三木文学の根底をなしている生死の影の濃いエロティシズムの遠因と思われる(この辺りの情景は「砲撃のあとで」「ほろびた国の旅」に詳しい)。
 
 
  鈴木志郎康 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  鈴木 志郎康(すずき しろうやす、1935年5月19日 - )は、日本の詩人、映像作家。東京市江東区亀戸生まれ。本名・鈴木康之。 1952年頃から詩を書き始める。1961年、早稲田大学文学部仏文科卒。在学中の1959年に高野民雄と雑誌「青鰐」を刊行。1961年から1977年までNHKに16ミリ映画カメラマンとして勤務。 1963年頃から個人映画を作り始める。ジョナス・メカスの影響を受け、日記的な作品を多数制作。この年に詩集「新生都市」が発刊され、注目を浴びる。
 
 
  富岡多恵子 (Wikipeia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  富岡 多恵子(とみおか たえこ、1935年7月28日 - )は日本の詩人・小説家・評論家、日本芸術院会員。読売文学賞、上方お笑い大賞選考委員。 大阪府大阪市出身。大阪府立桜塚高等学校、大阪女子大学文学部英文科卒業。池田満寿夫と結婚していたことがあり、当初詩人として出発したが、小説を書き始めた。多数の詩・小説・評論・エッセイがある。また映画のシナリオも書いている。 1976年、坂本龍一作曲によりアルバム「物語のようにふるさとは遠い」を発表している。
 
 
  清水哲男 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  清水 哲男(しみず てつお、1938年 - )は詩人。東京都出身。東京都立立川高等学校、京都大学文学部卒業。詩人清水昶は弟。京大在学中、大野新らとともに、詩誌『ノッポとチビ』に参加。大学卒業後は、芸術生活社、河出書房、ダイヤモンド社などで編集者として活躍する。H氏賞を受賞した『水甕座の水』に収録されていた『スピーチ・バルーン』は、タイトルがすべて「チャーリー・ブラウン」、「ミッキー・マウス」などマンガのキャラクターという当時としては異色の詩集で話題になった。
 
 
  郷原宏 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  郷原 宏(ごうはら ひろし、1942年5月3日 - )は、詩人、文芸評論家、翻訳家。 島根県生まれ。早稲田大学政経学部卒。読売新聞社に勤め、出版局編集者。若くから詩作を始め、1974年、『カナンまで』でH氏賞受賞。1983年、高村智恵子論『詩人の妻』でサントリー学芸賞受賞。 その後、山本楡美子とともに主としてミステリーの翻訳を始め、映画『わが愛の譜 瀧廉太郎物語』の原作を書き下ろした。2006年、「松本清張事典 決定版」で第59回日本推理作家協会賞評論部門受賞。
 
 
  森哲弥 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  森 哲弥(もり てつや、1943年1月 - )は、京都府京都市生まれの現代詩人。近江詩人会会員。滋賀文学会理事。 1967年、立命館大学文学部哲学科心理学専攻卒業後、社会福祉法人「びわこ学園」に勤務。その傍ら「初猟」、「仕事場」、「少年」、「少年玩弄品博物館」など多くの詩集を発表し続け、1977年には「重症心身障害児の教育における教材教具についての研究」で第1回ほほえみ賞を受賞した。また、2001年に発表した詩集「幻想思考理科室」で第51回H氏賞を受賞した。
 
 
  高塚かず子 (Wikipeia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高塚 かず子(たかつか かずこ、1946年 - )は、日本の詩人。島根県生まれ。長崎県大村市在住。活水女子短期大学卒業。 詩集『生きる水』で1992年に第44回H氏賞、同年、第9回ラ・メール新人賞を受賞する。長崎原爆平和祈念「詩の夕べ」に参加。現在、長崎県教育委員会委員。
 
 
  荒川洋治 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  荒川 洋治(あらかわ ようじ、1949年4月18日 - )は、日本の現代詩作家・エッセイスト。 福井県三国町出身。福井県立藤島高等学校、早稲田大学第一文学部文芸科卒業。26歳で詩集『水駅』を刊行し、H氏賞を受賞、以後、多くの詩集・エッセイ・評論を刊行している。日本近代小説の読み巧者でもある。大阪文学学校、早稲田大学等で教えた。 長く務めた文芸時評では、大江健三郎や笙野頼子を厳しく批判するなど、微温化する文壇では異色の存在である。「詩人」ではなく「現代詩作家」を名乗る。 
 
 
  井坂洋子 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  井坂 洋子(いさか ようこ、1949年12月16日− )は、日本の詩人。時代作家・山手樹一郎の孫。東京生まれ。上智大学文学部国文科卒。自由学園女子部に勤務。 井坂 洋子(いさか ようこ、1949年12月16日− )は、日本の詩人。時代作家・山手樹一郎の孫。東京生まれ。上智大学文学部国文科卒。自由学園女子部に勤務。
 
 
  高柳誠 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人 1950年 名古屋市生まれ 1975年 同志社大学文学部卒業 現在、玉川大学教授(文学部国際言語学科)  謎の女王アリスが支配する非在の国アリスランドを幻想的に記述する散文詩集『アリスランド』(‘80)で詩的出発をし、言語の中にしか存在し得ない幻想空間をほかならぬ言語によって構築した『卵宇宙/水晶宮/博物誌』(‘82)でH氏賞を受賞。 評論に『リーメンシュナイダー 中世最後の彫刻家』(‘99)などがある。日本での他に、ドイツ各地で朗読会を行う。
 
 
  岩佐なを (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  岩佐なを(いわさ なを、、1954年6月 - )は日本の詩人。画家(主に、版画、ドローイング)。 東京都荻窪生まれ、横浜市日吉育ち。早稲田大学卒業。同大学図書館司書として勤務しながら、詩作活動を行う。日本書票協会、日本現代詩人会、日本文藝家協会、日本ペンクラブ会員。詩誌「時計店」「歴程」同人。 銅版画で蔵書票(エクスリブリス)を多数創作。ドローイングや版画で、本や雑誌の挿画・装幀を手がける。 1995年、詩集『霊岸』で、第45回H氏賞を受賞。
 
 
  小池昌代 (wiki^tan)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  小池 昌代(こいけ まさよ、1959年7月17日 - )は詩人、小説家。東京都江東区深川に生まれる。立教大学文学部特任教授、津田塾大学国際関係学科卒業。1989年、投稿により第6回ラ・メール新人賞。1997年、詩集『永遠に来ないバス』で第15回現代詩花椿賞。2000年、詩集『もっとも官能的な部屋』で第30回高見順賞。2001年、詩集『屋上への誘惑』で第17回講談社エッセイ賞。小説「タタド」で第33回川端康成文学賞。2008年、詩集『ババ、バサラ、サラバ』で第10回小野十三郎賞を受賞。
 
 
外国詩人
  ホメーロス.BC8世紀/ギリシア (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ホメーロス(ラテン文字表記:Homeros)は、紀元前8世紀後半頃(?)に盛時をおく古代ギリシアの伝説的な詩人である。古代ギリシア語の発音では「ホメーロス」の方がより正確である。ホメーロスの言語は主にイオニア方言からなり、ヘクサメトロス(六脚律)と呼ばれる韻律で歌われた英雄叙事詩である『イリアス』(イーリアス)と『オデュッセイア』(オデュッセイアー)の間に大きな言語的・文芸的な区別は存在しない。
 
 
  ダンテ・アリギエーリ.1265/イタリア (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 − 1321年9月14日) は、イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家。 代表作は彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』および詩文集『新生』。 イタリア文学最大の詩人とされ、ルネサンスの先蹤ともいわれる。
 
 
  ピエール・ド・ロンサール1524/フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard, 1524年9月11日-1585年12月27日)は、ルネサンス期フランスの詩人。プレイヤード派の中心人物であり、「詩人たちの君主」(le prince des po&egrave;tes )と称えられた。 ロンサールは、ロワール=エ=シェール県クチュール=シュル=ロワールに近いラ・ポワソニエールの貴族の家で末っ子として生まれた。彼の一族はドナウ川の北のルーマニア一帯の出身だった。
 
 
  ジョージ・ゴードン・バイロン.1788/イギリス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, sixth Baron, 1788年1月22日 - 1824年4月19日)はイギリスの詩人。 ロンドンに生まれ、2歳の時にスコットランドのアバディーンに移ったが、1798年に第5代バイロン男爵が亡くなったため、第6代バイロン卿となり、父祖の地ノッティンガムへ移った。翌年ロンドンに出てハーロー校をへて1805年にケンブリッジ大学に入学したが、学業を顧みず放埒な日々を過ごした。
 
 
  ハインリヒ・ハイネ.1797/ドイツ (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年12月13日 -1856年2月17日)は、ドイツの詩人、作家、ジャーナリスト。デュッセルドルフのユダヤ人の家庭に生まれる。当初は商人、ついで法律家を目指したが、ボン大学でA・W・シュレーゲルの、ベルリン大学でヘーゲルの教えを受け作家として出発。『歌の本』などの抒情詩を初め、多くの旅行体験をもとにした紀行や文学評論、政治批評を執筆した。 文学史的にはロマン派の流れに属する。
 
 
  ウォルト・ホイットマン.1819/アメリカ (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman, 1819年5月31日 &#8211; 1892年3月26日) はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。
 
 
  シャルル・ボードレール.1821/フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  シャルル・ピエール・ボードレール(Charles Pierre Baudelaire, 1821年4月9日 - 1867年8月31日)はフランスの批評家、詩人。「フランス近代詩の父」と呼ばれる。 若くして美術批評家として文壇にデビューを果たし、特に当時、物議を醸していたロマン主義画家のドラクロワに対する熱心な弁護と評価を行った。
 
 
  ステファヌ・マラルメ.1842/フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ステファヌ・マラルメ(St&eacute;phane Mallarm&eacute;, 1842年3月18日 - 1898年9月9日)は、19世紀フランスの象徴派の系譜に入る、アルチュール・ランボーと並ぶ代表的詩人。代表作に『半獣神の午後』『パージュ』『詩集』『骰子一擲』(とうしいってき、『サイコロの一振り』とも)、評論集『ディヴァガシオン』など。
 
 
  ポール・ヴェルレーヌ /1844フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 - 1896年1月8日)は、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。
 
 
  ウィリアム・バトラー・イェイツ.1865/アイルランド (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats, 1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランドの詩人、劇作家。イギリスの神秘主義秘密結社黄金の暁教団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)のメンバーでもある。ダブリン郊外、サンディマウント出身。神秘主義的思想をテーマにした作品を描き、アイルランド文芸復興を促した。日本の能の影響を受けたことでも知られる。
 
 
  ポール・ヴァレリー.1871/フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Val&eacute;ry, 1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。 1871年、地中海沿岸の港町セットに生まれる。母ファニーはトリエステ生まれのイタリア人。
 
 
  ライナー・マリア・リルケ.1875/オーストリア (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 - 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに世紀転換期を代表するドイツ語詩人として知られ、歴史を通じてもドイツ文学最高峰の詩人の一人とされる。 プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。
 
 
  アルチュール・ランボー.1891/フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud, 1854年10月20日 - 1891年11月10日)は19世紀のフランスの詩人。ランボオとも。主な作品に散文詩集『地獄の季節』、『イリュミナシオン』など。 早熟の天才。詩人ヴェルレーヌに出会い、『地獄の季節』、『イリュミナシオン』でその才能を見せた。マラルメはボードレールから始まる象徴詩の系譜に属しながらも、そこに止まらない、という意味で「おそるべき通行人」と彼を評している。
 
 
  ジャック・プレヴェール.1900/フランス (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ジャック・プレヴェール(Jacques Pr&eacute;vert、1900年2月4日 - 1977年4月11日)は、フランスの民衆詩人、映画作家、童話作家。シャンソン『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』のシナリオを書いた。
 
 
  ラングストン・ヒューズ.1902/アメリカ (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes、1902年2月1日 - 1967年5月22日)は、詩・小説・戯曲・短編・コラムなどに活動したハーレム・ルネサンス期のアフリカン・アメリカン作家である。 それまでアメリカ白人作家によって描かれてきたアフリカ系アメリカ人のステレオタイプ(ひたすら従順・あるいは野蛮で知性に欠ける、など)とは異なり、黒人自身の視点からブラックアメリカ文化・風俗を提示することにより普遍的人間像を描いた。
 
 
  外国詩人   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  外国詩人
 
 
北村透谷/1868
  北村透谷 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日)は、明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。詩人。島崎藤村らに大きな影響を与えた。 神奈川県小田原で没落士族の家に生まれた。本名は北村門太郎。両親とともに上京し、東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通った(のちの筆名・透谷は「すきや」をもじったもの)。
 
 
土井晩翠/1871
  土井晩翠 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1952年(昭和27年)10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。本来姓は「つちい」だが、1932年(昭和7年)に改称。仙台県宮城郡仙台(現在の宮城県仙台市青葉区)生まれ。 東京帝国大学英文科卒。娘婿は英文学者の中野好夫。
 
 
島崎藤村.1872
  島崎藤村 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名、春樹(はるき)。信州木曾の馬籠 [1] (現在の岐阜県中津川市)生れ。 『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。
 
 
  藤村記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  藤村記念館は明治・ 大正・昭和の三代にわたって活躍した文学者島崎藤村の出身地、信州木曽谷の南端にある文学館です。 生家は明治28年の大火で焼失しましたが、昭和22年、「この地に何か文豪を記念するものを造ろう」と考えた地元住民の勤労奉仕により、建築家谷口吉郎博士設計による藤村記念堂が建てられました。
 
 
  島崎藤村集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  PDF 若菜集(島崎藤村)(07.08.13)〜PDF 破壊(島崎藤村)(07.07.10)
 
 
  島崎藤村 朗読   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『若菜集』、『一葉舟』、『夏草』、『落梅集』   潮音/おきく/吾胸の底のここには/縫ひかへ
 
 
  島崎藤村 「初恋」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  初恋  まだあげ初(そ)めし前髪(まえがみ)の 林檎(りんご)のもとに見え市しとき 前にさしたる花櫛(はなぐし)の 花ある君と思ひけり …
 
 
  若菜集 島崎藤村   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ …
 
 
  島崎藤村と明治学院   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  学院生活(His life at Meiji-Gakuin):島崎藤村は、英語を勉強するには明治学院がよかろう、との助言を聞いて入学した。「その頃の明治学院は、随分ハイカラなものであった。物理学、化学はいわずもがな、論理、心理、経済学なんて学科すら、外国人から英語で教わったのであるから大したものである。歴史は上級でグリインの英国史を用うという次第だから、実にすさまじいものであった。(島崎藤村の同級生・戸川秋骨の文章より)
 
 
  YouTube - 島崎藤村 初恋   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけりやさしく白き手をのべて林檎をわれにあたえしは薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなり・・・
 
 
  島崎藤村 -こえたばブック-   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  作品名:婦人の笑顔/二人の兄弟/千曲川のスケッチ  詩人、小説家。本名春樹。筑摩県第八大区五小区馬籠村(後に長野県木曽郡山口村字馬籠を経て、編入により、現在は岐阜県中津川市馬籠)生まれ。1897 (明治30)年に春陽堂から刊行された第一詩集『若菜集』は、日本近代詩の原点として後世の詩人に多大な影響を与えた。
 
 
  角川文庫「島崎藤村詩集」より   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  角川文庫「島崎藤村詩集」より  1999年1月25日発行 初版  『若菜集』より/『落梅集』より  島崎藤村の『若菜集』が明治時代の青年男女の心を捕らえ理由の一つは、大胆に、みずみずしく、恋の心を歌い上げた所にあったと言われています。
 
 
  島崎藤村 【しまざき・とうそん】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、小説家。本名、島崎春樹。明治5年3月25日(旧暦2月17日)〜昭和18年8月22日。長野県馬籠村に生まれる。明治24年、明治学院を卒業。詩集「若菜集」(明治30)などにより詩人としての名声を得たが、やがて小説家に転じ、長編小説「破戒」(明治39)を発表。自我の懊悩と、被差別部落という社会問題とを重層的に描き、ヨーロッパ文学と同質の近代リアリズム小説として高い評価を得た。
 
 
  島崎藤村の東京を歩く 東京紅園   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  まず最初は馬籠から東京銀座の長女の嫁ぎ先に上京してから、東北学院に作文教師として赴任するまでを「春」、「桜の実の熟する日」を参考にしながら歩きます。
 
 
  島崎藤村(しまざきとうそん) - Yahoo!百科事典    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、作家。本名春樹(はるき)。別号古藤庵無声(ことうあんむせい)。明治5年2月17日(旧暦)筑摩(ちくま)県(現長野県)の旧中山道(なかせんどう)馬籠(まごめ)宿(現在は岐阜県中津川市に所在)で本陣、庄屋(しょうや)、問屋(といや)を兼ねた島崎正樹の四男として生まれる。
 
 
  島崎 藤村 日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  しまざき とうそん 詩人・小説家 1872.3.25 - 1943.8.22 長野県に生まれる。 日本ペンクラブ初代会長 帝国藝術院会員 「夜明け前」により朝日文化賞。 北村透谷らとの「文学界」を基点に近代詩歌の幕を若やかに押し上げた詩人から、一転『破戒』『家』『新生』『夜明け前』等に及ぶ蔚然たる小説家への高まりは、まこと近代文学に冠たる文豪の一人。
 
 
  島崎藤村 しまざき とうそん 近代日本人の肖像   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  長野生まれ。詩人、小説家。父は木曽馬籠宿本陣・庄屋。明治学院卒。在学中に洗礼を受け文学への関心を強め、明治26年(1893)北村透谷らと雑誌『文学界』を創刊。…
 
 
  島崎藤村忌 大磯町   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  地福寺には、「破戒」「夜明け前」など多くの名作を残した文豪島崎藤村の墓があります。
 
 
  島崎藤村旧宅 大磯町   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎藤村旧宅 中郡大磯町東小磯88
 
 
  地福寺(島崎藤村の墓)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  837年(承和4年)の創建。梅の古木に囲まれた藤村の墓と妻静子さんの墓も傍らにある。
 
 
  滝旅館 信州 木曾御嶽   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎藤村は親子2代にわたり、当館を愛しご利用くださいました。 ・・・・文豪 島崎藤村『夜明け前』に描かれた王滝村宮下家・・・・・
 
 
  中棚荘 島崎藤村の宿 信州・小諸   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1899年(明治32年)小諸義塾の教師として長野県小諸市に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。 泰冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生まれた。 この頃から現実問題に対する関心が高まったため散文へと創作法を転回する。 小諸を中心とした千曲川一帯を見事に描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。
 
 
  高楼 ますや旅館 − 信州、田沢温泉   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  −ようこそ、島崎藤村ゆかりの宿へ− 島崎藤村は、小諸塾で教鞭をとって2年目の明治32年8月に、当旅館に宿泊しています。藤村が訪れた往時のその静けさをそのままに、高楼からの眺望は今も変わることなく、四季折々の彩りをみせてくれます。
 
 
  島崎藤村先生について 割烹旅館 佐久間   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  島崎藤村先生には、原稿執筆のため、計六回ほど当館へお泊まりいただきました。先生の二度目の妻として、文豪の後半生を支えた静子夫人のご実家が、当時川越にあったこともあり、何かとお付き合いをさせていただきました。今ここに、先生との思い出を集めてみました。
 
 
  旧島崎藤村邸の旅行・観光:おでかけガイド   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  当時貸家には珍しく書斎があり、この一帯を地元では「町屋園」と称していた。 建築年代1 : 大正後期から昭和初期
 
 
  春 <書籍> 島崎藤村/著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  教え子との禁断の愛。敬愛するあの人の自死。藤村20代の苦悩を描いた青春小説の古典的傑作。
 
 
  破戒 <書籍> 島崎藤村/著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治後期、部落出身の教員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていたにもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太郎の壮烈な死に心を動かされ、ついに父の戒めを破ってしまう。・・・
 
 
  藤村詩抄 <書籍> 著者/島崎藤村    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の近代詩の出発点となった島崎藤村の詩は、近代日本の自覚期ともいうべき歴史的青春と、詩人および人間としての人生の青春と、詩の文芸ジャンルとしての若さとが相まって生み出された比類のない青春文学である。『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』などより自選。各詩集初版本目次と校異を付す。
 
 
  →島崎藤村.1872   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「02近現代文学書」島崎藤村.1872
 
 
蒲原有明.1875
  蒲原有明 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年3月15日 - 1952年2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。 D・G・ロセッティに傾倒し、象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋、三木露風らに影響を与えた。
 
 
  蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人の蒲原有明は明治9年(1876)東京に生まれました。本名は蒲原隼雄です。中学時代バイロン、ハイネを好み、詩をつくり始めます。明治27年国民英学会卒業後、林田春潮、山岸荷葉らと同人雑誌「落穂双紙」を創刊し、処女作「秋の山ざと」を発表します。
 
 
  夏の歌 蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄ぐもる夏の日なかは 愛欲の念にうるみ 底もゆるをみなの眼ざし、むかひゐてこころぞ悩む。
 
 
  有明集 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『有明集』(ありあけしゅう)は、蒲原有明の第4詩集。1908年(明治41年)1月刊。 近代詩の一つの到達点を示し、現在でこそ象徴詩の傑作とされているが、自然主義が詩壇の主流となり始めていた当時はさほど高く評価されなかった。蒲原は詩作を断念する事になる。
 
 
  Blog鬼火〜日々の迷走   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  カテゴリー「蒲原有明」の2件の記事  牡蠣の殻 蒲原有明 《2バージョン》
 
 
  蒲原有明 Ariake Kanbara   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原隼雄(1876-1952・明治9年-昭和27年)  昭和27年2月3日歿 77歳 (龍徳院宏文有明居士) 麻布・賢宗寺
 
 
  楽譜 - 蒲原有明 d-score   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  かんばら・ありあけ。詩人。東京の出身。『草わかば』『独絃哀歌』などの作品集がある。 戦前に親しまれた歌には「牡蠣の殻」があり、東海林太郎が吹き込んでいる。
 
 
  ★幽玄の詩人---蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日のおちぼ----(春鳥集)より  日の落ち穂、月のしたたり、残りたる、誰か味い  こぼれたる、誰かひろひし、かくて世は過ぎてもゆくか。
 
 
  蒲原有明に帰れ 関連リンク   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  僕、先月末出京しました。東京は我があこがれの都。雪のふる夜も青猫の屋根を這ふ大都会。いまは工場と工場との露地の間、職工の群がつてゐる煤煙の街に住んでゐます。黒い煤煙と煉瓦の家の並んでゐる或る貧乏なまづしい長屋に、僕等親子四人が悲しい生活をしてゐます。…
 
 
  蒲原有明  かんばらありあけ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治8年3月15日、東京府麹町区隼町(現在の最高裁判所付近)に、蒲原忠蔵の長男として生まれる。本名、隼雄(町名の隼町にちなんで父の友人が命名したという)。生来虚弱だったために、無事に育つとは期待されず、出生届は一年遅れで出された(戸籍上の出生日は翌年の同月同日)。
 
 
  蒲原有明の詩史的意味(PDF)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原有明 (1876-1952) について中村真一郎は1953年刊行の『文学の魅力』の中で次のように書いている…
 
 
  蒲原有明 【かんばら ありあけ】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治8年3月15日〜昭和27年2月3日。日本における象徴派の第一人者として、病的な神経と官能の交錯した、幽玄な象徴詩を作った。  代表詩集/代表作品/リンク
 
 
  蒲原有明《思文閣  美術人名辞典   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人。本名隼雄。東京生。有明は号。『読売新聞』の懸賞小説に「大慈悲」が一等当選するが小説は二作のみで、以後詩作に専念。第二詩集『独絃哀歌』で新しい詩人として注目され、第四詩集『有明集』は象徴詩人としての優れた才能を示す。芸術院会員。昭和27年(1952)歿、75才。
 
 
  蔵書 蒲原有明 「夢は呼び交す」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日本の象徴詩のさきがけとして有名な蒲原有明ですが、小説も書いています。この人のすごさは初めて書いた小説がいきなり読売懸賞小説の一等になって、華々しく文壇デビューを果たしたのに二作目を書いた後に、本来自分がやりたいのは詩だからということで小説はほとんど書かなくなります。
 
 
  蒲原有明  智慧の相者は我を見て   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  かんばら ありあけ 詩人 1876.3.15 - 1952.2.3 東京麹町に生まれる。 日本藝術院会員。、日本近代詩創始期の大きな存在。象徴詩の代表作「智慧の相者は我を見て」は第四詩集『有明集』(明治四十一年一月 1908 )の巻頭を飾った。回想「『有明集』の前後」は昭和四年(1929)に書かれている。
 
 
  「茉莉花(まつりか)」  詩: 蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  咽び嘆かふわが胸の曇り物憂き  紗(しゃ)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、或日は映る君が面、媚の野にさく 阿芙蓉の萎(ぬ)え嬌(なま)めけるその匂ひ。
 
 
  蒲原有明に帰れ  著者名:萩原 朔太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  僕、先月末出京しました。東京は我があこがれの都。雪のふる夜も青猫の屋根を這ふ大都会。いまは工場と工場との露地の間、職工の群がつてゐる煤煙の街に住んでゐます。…
 
 
  蒲原有明 作家別作品リスト:No.1055   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品:「あひびき」に就て (旧字旧仮名、作品ID:45680)〜/作業中の作品/関連サイト
 
 
  蒲原有明に帰れ 図書カード:No.44428   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  作品データ:萩原 朔太郎/作家データ/底本データ/工作員データ/ファイルのダウンロード/関連サイトデータ
 
 
  蒲原有明 かんばらありあけ(1876-1952)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  東京麹町隼町生まれ。本名隼雄(はやお。出生地にちなむ)。尚、有明自身は記述の中で生年を1975年としている。生まれ
 
 
  龍土会の記 - 蒲原有明 ( かんばら ありあけ )    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  龍土會の記  龍土會といつても誰も知る人のないぐらゐに、いつしか影も形もひそめてしまつてゐる。そのやうに會はたとへ消滅したものであるにしても、會員であつた人々は殘つてゐなくてはならないが、さて自分が會員であつたと名のりを揚げる特志者はまづ無いといつてよいだらう。然しどうやら會合のやうなものが存在して、そこへ最初から出席した二三のものには、今日でもなほ幾許かの追懷の情が殘つてゐるはずである。
 
 
  蒲原有明をもっと知る あのひと検索スパイシー   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年3月15日 - 1952年2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。
 
 
  蒲原有明 【かんばらありあけ】 デジタル版 日本人名大辞典   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治9年3月15日生まれ。硯友(けんゆう)社系の小説家として出発。のち詩作に専念し、「草わかば」「独絃哀歌」で注目される。明治38年の「春鳥集」、41年の「有明集」で象徴詩人としての才能を開花させ、その詩は北原白秋や木下杢太郎(もくたろう)らに影響をあたえた。芸術院会員。昭和27年2月3日死去。75歳。東京出身。国民英学会卒。本名は隼雄(はやお)。
 
 
  人あり 有田皿山を文学に昇華させた−象徴派詩人 蒲原有明    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  有田陶磁美術館の建物は明治の石倉を生かした様式ですが、玄関左手の石壁に日本象徴詩の草分け蒲原有明(かんばらありあけ)の詩「有田皿山にて」(原詩「呉須のにはひ」)の一節が、呉須で書いた*陶板にしてはめこんであります。
 
 
  蒲原有明(かんばら ありあけ)  1876-1952  わがまち人物館 麹町界隈   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  日本における象徴派の詩人・蒲原有明は、1876年(明治9)麹町隼町8番地(現:隼町4)に生まれた。生誕の地名から隼雄と名づけられた。麹町小学校を卒業。雅号の有明は、父の郷里の佐賀の有明海に因む。島崎藤村らと親交を深めロセッティらの詩人画家を知り、「海潮音」を訳した上田敏などの影響で象徴詩を創作。従来の詩壇に見られなかった清新さを示した。
 
 
  著者 蒲原有明:5点   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1. 蒲原有明/薄田泣菫  2. 有明詩抄  3. 近代作家研究叢書 66  4. 夢は呼び交す  5. 蒲原有明詩集
 
 
  有明詩抄 <文庫> 蒲原有明   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  藤村・晩翠によるわが国新体詩勃興期の後をうけ,その爛熟期の明治詩壇にあって明星のごとく清新に輝くのが蒲原有明(1875‐1952)である.優婉きわまりない象徴詩において探りえた詩境は余人の追従を許さず,その価値は不滅である.本書には「草わかば」「独絃哀歌」「春鳥集」「有明集以後」の作品から代表的な詩篇を収めた.
 
 
  蒲原有明/薄田泣菫 /蒲原有明/著 薄田泣菫/著 [本]    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原有明(カンバラ アリアケ):明治9年、東京に生れる。小学生の頃すでに文学書に関心し、第一高等学校に不合格となって入会した国民英学会で英文学に親しむなかで詩を作り始め… / 薄田泣菫(ススキダ キュウキン):明治10年、岡山県に生れる。中学校を中退し、殆ど独学で和漢書、欧米の文学書を渉猟しては詩作をこととするようになるうち…
 
 
薄田泣菫.1877
  薄田泣菫 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年5月19日 - 1945年10月9日)は、日本の詩人。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆を書いた。
 
 
  薄田泣菫の旅   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫は明治10(1877)年、岡山県倉敷市連島町に生まれた。岡山一中を中退したが、上京して上野図書館で独学し、大坂毎日新聞社に入社。ここでかの芥川、菊池らを社員として獲得したことは余りにも有名である。 29歳の折に出版した第3詩集『二十五弦』で詩壇に名を馳せたのだが、その巻頭の「公孫樹下にたちて」の公孫樹とはどこのものかと議論になったことがある。現在、津山市の井口の天台宗長法寺にその詩碑が建っている。
 
 
  春菜 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  郷里にゐる弟のところから、粗末な竹籠の小荷物が、押潰されたやうになつたまま送りとどけられて来た。 その途端、鼻を刺すやうな激しい臭みが、籠の目を洩れて、そこらにぷんぷんと散ばつて往つた。それを嗅ぎつけると、私はほくそ笑みながら、すぐに自分の手で荷物の縄目を解きにかかつた。
 
 
  薄田泣菫 黒猫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「奥さん、謝れなら謝りまんが、そんならお宅の飼い猫だすかいな、これ」荷車曳きの爺(じい)さんは、薄ぎたない手拭いで、額の汗を拭きながら、こう言って、前に立った婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍(注1)に轢(ひ)き倒された真っ黒な小猫が、雑巾のように平べったくなって横たわっていました。
 
 
  薄田泣菫 生涯   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  1877年5月19日、薄田篤太郎の長男として、岡山県連島村(現在の倉敷市連島町)に生れる。父は湖月庵清風の号で俳句をよくした。学資のために岡山中学を二年で中退後、上京。漢学塾の助教をしながら、上野の図書館で独学する。 1897年、早稲田系の「新著月刊」に『花密蔵難見』13編を投稿したところ、後藤宙外、島村抱月に認められて掲載されるが、東大系の雑誌が批判して論争になる。一躍注目されるが、病で帰郷。以後、生涯のほとんどを関西ですごし、東京の文壇に距離をおく。
 
 
  薄田泣菫の生家   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治10年(1877年)5月19日生れる。明治32年22歳に最初の詩集「暮笛集」を出版する。 その後、「ゆく春」、「志ら玉姫」、公孫樹下に立ちてを収めた「二十五絃」を刊行し、 島崎藤村後の第一人者として、明治詩壇の頂点を極めた。明治39年の詩集「白羊宮」は、円熟期を迎えた泣菫の集成。 昭和20年、少年時代をすごしたこの家に帰り、68歳の生涯を閉じた。
 
 
  茶話 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  茶話(ちゃばなし)は、日本の詩人 、薄田泣菫が、1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)にかけて、「大阪毎日新聞」などの新聞や雑誌に連載した総数811篇からなる 随筆の名称である。
 
 
  作家別リスト 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ここに収録したパーム本は、自由に使って下さい。転載、再配布についても、青空文庫の著作権の切れた作品の取り扱い規準に準じる限り、基本的に自由です。 (*はリンクによる収録作品です。これらの著作権は切れていませんので、著作権の切れていない作品の取り扱い規準に従って下さい。)
 
 
  薄田泣菫文学碑 大阪市   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(本名 薄田淳介)は、明治10年(1877年)岡山県浅口郡大江連島村(現倉敷市連島町)に生まれ、昭和20年(1945年)10月9日死去した。 故郷の小高い赤土の松山と遠浅の瀬戸内の海辺での遊びが、彼の自然感と動植物への親近感を育んだ。…
 
 
  薄田泣菫 Kyukin Susukida   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田淳介(1877-1945・明治10年-昭和20年) 昭和20年10月9日歿 68歳 (至誠泣菫居士)  岡山県倉敷市連島茂浦・薄田家墓所
 
 
  明治詩壇の巨匠 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治10年(1877年)5月19日父篤太郎、母里津の長男として生まれた。 薄田家は、代々文学を好む人が多く、泣菫も読書好きの大変優秀な少年で、連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していた。 明治27年、17歳で上京。漢学塾などに学びながら、上野図書館で和漢洋の書物を読破し、独学で学んだ。この時の素養が、後の泣菫の文学を決定することになる。
 
 
  倉敷バイブル 歴史 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(すすだきゅうきん)。明治から昭和にかけての詩人、随筆家。明治10年(1877)、浅口郡連島村(現倉敷市)生まれ。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。泣菫も読書好きの優秀な少年で、連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していた。岡山県尋常中学校(後に岡山第一中学校、現在の県立岡山朝日高校)を中退し、明治27年(1894)17歳で上京。
 
 
  薄田淳介(薄田泣菫) 白羊宮   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  わがゆく海:わがゆくかたは、月明りさし入るなべに、さはら木は腕だるげに伏し沈み、赤目柏はしのび音に葉ぞ泣きそぼち、石楠花は息づく深山、――『寂静』と、『沈黙』のあぐむ森ならじ。
 
 
  薄田泣菫 (おかやま人物往来)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治から昭和にかけての詩人、随筆家。 浅口郡連島村(現倉敷市)生まれ。 詩集「二十五絃」「白羊宮」で、上田敏らの絶賛をうけ、島崎藤村につづく時代の先駆的詩人として認められた。 また、大阪毎日新聞社に入社後、紙面に随筆を書く一方で、学芸部長として、菊池寛、芥川龍之介を起用し、新聞連載小説に新鮮な局面をひらいた。 記念碑が出生地の連島と津山市長法寺(代表詩「公孫樹下に立ちて」はこの寺の大イチョウを歌ったもの)にある。
 
 
  近代文学にみる大和 薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「久米の仙人」は薄田泣菫が明治44年に「三田文学」に発表した作品である。/「飛鳥寺」は薄田泣菫が明治33年「三田文学」に発表した短文である。/「西大寺の伎藝天女」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。/「旋風」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。/「喜光寺」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。
 
 
  薄田泣菫(その1) 思いつくままに   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  私の家の近くに詩人・随筆家として有名な薄田泣菫(明治10年〜昭和20年)の生家があります。旧浅口郡大江村 現在の倉敷市連島町連島にあります。長い間、近所の方が大切に管理されていました。今から5年ほど前に倉敷市が取得して文化財として保存することになり、今ではきれいに改修されて一般公開されています。
 
 
  薄田泣菫 【すすきだ きゅうきん】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治10年5月19日〜昭和20年10月9日。古語や雅語を駆使して、古代王朝文化への憧憬をうたい、古典的に均整のとれた、格調高い詩を作った。  代表詩集/代表作品/リンク
 
 
  恋のわな  薄田泣菫 然(さ)りやな    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  あけぼの破(わ)るゝ光にながれ 君にまとひて、面照(おもでり)はなにほてるまで、さりやな、恋のたはむれ、さりなや。
 
 
  薄田泣菫  作家別作品リスト:No.150   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品:飛鳥寺 (旧字旧仮名、作品ID:16035):価 (新字旧仮名、作品ID:4894):雨の日に香を燻く (新字旧仮名、作品ID:804)〜/作業中の作品/関連サイト
 
 
  薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)のこと    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  当院は、京都市上京区烏丸一条通に位置し、「京都御所」のすぐ西に隣接しています。… 詩人「薄田泣菫」、明治10年(1877)岡山に生を受ける。祖父は医師、父は半農半俳。明治33年春、大阪で雑誌「小天地」を編集、36年以降は主に京都に在住。32年「暮笛集」、34年「ゆく春」、38年「二十五弦」「白玉姫」等の詩集を出し、39年の「白羊宮」にいたり、独自の古典的浪漫詩体を大成しました。
 
 
  薄田泣菫 すすきだ・きゅうきん 詩碑   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  岡山県出身。 本名は淳介。 中学を中退後独学し、上京後も苦学する。 キーツなどの英詩を愛読。 ソネットなど詩形の試みを収める『暮笛ぼてき集』(1899年刊)で世に認められた。 浪漫的文語定型詩の珠玉の詩篇を収める『白羊宮はくようきゅう』により、蒲原有明かんばら・ありあけと詩壇の双璧をなした。
 
 
  詩人のシノギ (薄田泣菫の巻) そろもん   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)は、蒲原有明とともに文語象徴詩の大成者とされている。象徴主義については「上田敏の巻」で学習したが、少年の頃の私は象徴主義とは漢字のフリガナを格好良く付けることだと信じていた(笑)。明治大正の詩は大概そうなのだが、象徴詩はとりわけルビが多い印象があって、読みづらく難解だと感じていたものだ。もちろん泣菫の詩には、異国の詩法と母国語との葛藤の末に見いだされた独自の境地がある。
 
 
  偉人たちを笑いの対象に変えた薄田泣菫   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(1877-1945)は『白羊宮』という詩集で有名だが、これは文語で書いてあるため、読んでもちょっとやそっとでは理解できない。しかし、その後口語詩の分野に進まずに新聞に散文でコラムを書いて飯のタネを稼ぐようになった。それが『茶話』という題でまとめられて今も残っている。このほうは非常にわかりやすく、読んで楽しいものである。
 
 
  薄田泣菫 すすきだきゅうきん(1877-1945)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  岡山県浅口郡大江連島村(現倉敷市連島町)生まれ。本名淳介。号の泣菫は菫の花の可憐な姿と紫の色とを愛好した事にちな
 
 
  薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ああ、大和にしあらましかば、いま神無月(かみなづき)、うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、あかつき露(づゆ)に髪ぬれて、往きこそかよへ、斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の黄金(こがね)の海とゆらゆる日、塵居(ちりゐ)の窓のうは白(じら)み、日ざしの淡(あは)に、いにし代の珍(うづ)の御經(みきやう)の黄金文字.…
 
 
  薄田泣菫 (ススキダ・キュウキン) 作家検索   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年5月19日-1945年10月9日)は、日本の詩人。本名、淳介(じゅんすけ)。岡山県生れ。 暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆を書いた。
 
 
  薄田泣菫 (すすきだ きゅうきん) の 作品一覧   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  飛鳥寺 (あすかでら) :飛鳥寺薄田泣菫  私が飛鳥の里に來たのは、秋も半ばを過ぎて、そこらの雜木林は金のやうに黄いろく光つてゐた。つい門先の地面を仕切つた、猫の額ほどの畑には、蕎麥の花が白くこぼれてゐた。纖細な、薄紅い鷽(うそ)の脛のやうな莖が裾をからげたままで、寒さうに立つてゐる。…
 
 
  薄田泣菫 (すすきだきゅうきん)  詩人・随筆家   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  随筆集『大地讃頌』は名著の誉高い『草木蟲魚』の続篇ともいうべきもので、繰返しはん読に値する書物として知られる。収録作に相呼応するような詩「春夜」の冒頭を引いておこう。「春の光の薄くして/若き快楽(けらく)の短かきに/花咲く影に酔ひしれて/酒甕(もたひ)叩きて歌ふかな」  ▽「桜の花」は、『大地讃頌』(1929年6月 創元社)所収。
 
 
  薄田泣菫(すすきだきゅうきん) - Yahoo!百科事典    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、随筆家。明治10年5月19日、岡山県倉敷に生まれる。本名淳介(じゅんすけ)。岡山尋常中学(岡山一中)中退後上京し、働きながら上野図書館に通い独学。キーツの詩集を愛読した。1897年(明治30)『新著月刊』に投稿した詩が後藤宙外(ちゅうがい)らに認められ、詩壇に登場。99年第一詩集『暮笛(ぼてき)集』刊行、わが国最初のソネット(14行詩)形式の詩を試み、若い世代に大いに迎えられた。
 
 
  薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)の「白羊宮」(詩集)より   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  薄田泣菫(1877−1945:本名・淳介)は、日本における象徴詩を担った詩人として有名です。 そこで、今回は彼の第5詩集「白羊宮」から、詩一編をピックアップして鑑賞してみようと思います。「白羊宮」とは、占星術ではほぼ「牡羊座」のことです。昔のひと(詩人)は、占星術も勉強していたのですね。
 
 
  すすきだきゅうきん【薄田泣菫】 学習百科事典 キッズネット   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  (1877&#12316;1945)明治(めいじ)時代の詩人。岡山(おかやま)県に生まれる。本名淳介(じゅんすけ)。古語や雅語(がご)を詩の中に使いこなして,浪漫的(ろうまんてき)な古典(こてん)詩人として明治(めいじ)30年代後半に活躍(かつやく),蒲原有明(かんばらありあけ)とともに泣菫(きゅうきん)・有明(ありあけ)時代をつくった。詩集に『暮笛集(ぼてきしゅう)』『二十五弦(げん)』『白羊宮(はくようきゅう)』など。
 
 
  薄田泣菫の歌曲集出版へ  孫の満谷さん(兵庫・宝塚)ら編集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  倉敷市連島地区出身で、明治後期の詩壇を担った薄田泣菫(すすきだきゅうきん)(1877―1945年)の詩による歌曲集出版に向け、孫の満谷昭夫さん(78)=兵庫県宝塚市=らが編集作業を進めている。
 
 
  鏡花、浪漫派詩人と交流 薄田泣菫あての手紙見つかる  石川ニュース   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  金沢市の泉鏡花記念館は二十七日までに、金沢出身の作家泉鏡花(一八七三―一九三九)が明治詩壇の一翼を担った浪漫(ろまん)派詩人薄田泣菫(すすきだきゅうきん)にあてた文集未収録の手紙二通を東京の古書店を通じて入手した。
 
 
  薄田泣菫 すすきだきゅうきん 明治10〜昭和20(1877〜1945)  兵庫県かりの作家   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  兵庫県西宮市に居住。兵庫県が舞台の作品に「離愁」がある。 明治10年(1877)、浅口郡連島村(現倉敷市)生まれ。学資のために岡山中学を2年で中退後、上京。漢学塾の助教をしながら、上野の図書館で独学する。早稲田系の「新著月刊」に「花密蔵難見」13編を投稿したところ、後藤宙外、島村抱月に認められて掲載されるが、東大系の雑誌が批判して論争になる。
 
 
  薄田泣菫 <書籍類>   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  完本 茶話 (中) 冨山房百科文庫 (38)/完本 茶話 (下) 冨山房百科文庫 (39)/茶話 (岩波文庫)/完本 茶話 (上) 冨山房百科文庫 (37)/艸木虫魚 (岩波文庫) 薄田 泣菫/泣菫随筆 (冨山房百科文庫)/〜
 
 
  艸木虫魚 <書籍> 著者 薄田泣菫    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  冴えた眼力で自然と人事を観察し、端正な文章で情感こまやかにつづる清澄な心境随筆。とりわけ、幼少時から親しんだ身近な小動物や草木に注ぐ著者の目はあたたかく、深い共感をこめて彼らに語りかける。枯淡と洒脱の円熟味ゆたかなエッセイの数々は、どこかなつかしく、またさわやかな読後感を呼ぶ。
 
 
  薄田泣菫 ―詩の創造と思索の跡 <書籍> 松浦澄惠 著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  第一章 独学時代と泣菫の雅号/第二章 『新著月刊』と泣菫/第三章 泣菫の詩を読む
 
 
  蒲原有明/薄田泣菫 (近代浪漫派文庫) (文庫)    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  蒲原有明:明治9年、東京に生れる。小学生の頃すでに文学書に関心し、第一高等学校に不合格となって入会した国民英学会で英文学に親しむなかで詩を作り始め、明治27年にはじめて作品を発表してから、一時期は小説、紀行で文名を知られるが、再び詩作に向い、ロセッティの影響下に抒情詩人として出立した。  薄田泣菫:明治10年、岡山県に生れる。中学校を中退し、殆ど独学で和漢書、欧米の文学書を渉猟しては詩作をこととするようになる…
 
 
野口雨情.1882
  野口雨情 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)出身。 廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として生まれる。
 
 
  野口雨情旧居   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「七つの子」「赤い靴」「十五夜お月さん」「あの町この町」「船頭小唄」「波浮の港」などの数々の童謡で知られる詩人、野口雨情は明治15年「1882年」に茨城県多賀郡中郷村(現在の北茨城市)で生まれました。明治34年に東京専門学校(現在の早稲田大学)文科に進み、坪内逍遥に師事して民謡創作の道を進み数多くの童謡・民謡をつくりました。
 
 
  野口雨情と柏坂   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情は「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩であり、民謡は民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である」との信念をもって童謡民謡普及のため全国各地に赴き、その土地の特徴を詠み込んだ民謡を詩作する旅を重ねた。それは国内のみならず当時の台湾、朝鮮、満州にまで及んでいた。
 
 
  野口雨情文学碑   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  八幡東区皿倉山 皿倉山頂付近  「くきの海辺の船もよい 船も帆がなきや行かれない お供についたくまわにが  山で帆柱きりましたその時きつた帆柱は 帆柱山の杉でした」
 
 
  野口雨情  虹の橋   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ある山国に、美しい湖がありました。 この湖には、昔から、いろいろな不思議なことがありました。青々と澄んだ水が急に濁つたり、風もないのに浪が立つたり、空が曇つて星のない晩でも、湖の中にはお星様が映つて見えることなぞもありました。…
 
 
  野口雨情 (福渡付近)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  泉漾太郎氏が中学生の時、野口雨情が選者をしていた時のコンクールに応募したのがきっかけで、漾太郎氏は雨情の弟子となった。そのため雨情は度々塩原を訪れている。
 
 
  野口雨情 こころの詩   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情の作詞した童謡や民謡は驚くほどたくさんあります。最近童謡が歌われなくなっているようですが、それでも雨情の童謡は一度は口ずさんだことのある曲が何曲かあると思います。思いついた雨情の歌を載せてみました。歌ってみて下さい。
 
 
  野口雨情 コドモノクニ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情は創刊から長年にわたって『コドモノクニ』に童謡を寄稿し、同誌を支えた童謡詩人のひとりとなる。「あの町この町」「木の葉のお船」「兎のダンス」「雨降りお月さん」など、多くの作品に中山晋平の曲がつけられたが、なかでもこれらの童謡は人気を博し、童謡史に残るものである。
 
 
  野口雨情の童謡自然詩   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情の生涯、作品、記念館、生家などについての情報を掲載しております。 野口雨情の一生/野口雨情の作品/野口雨情の生家/野口雨情記念館/サイト情報
 
 
  詩人・野口雨情のご案内   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情は、63年という生涯の中、2000近くに渡る沢山の詩を全国を巡りながら造り続けた歴史に残る詩人家です。 全国各地には、彼が残した詩をもとに作られた歌碑が数多く存在します。 層雲閣グランドホテルの露天風呂「宝石の湯」では、野口雨情が層雲峡に訪れた時に作られた詩、「大函小函」の歌碑が設置されています。
 
 
  野口雨情生家 北茨城市   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  木造瓦葺二階建のこの家は、明治時代の初めに建てられたもので、その後一部が改造されている。「七つの子」「しゃぼん玉」などの童謡や「磯原節」「磯原小唄」といった新民謡で知られる詩人野口雨情は、明治15年(1882年)にここで生まれ、15才で上京するまで育っている。
 
 
  野口雨情  発見!!いばらき   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  放浪する詩人 : 野口雨情は、多賀郡磯原村(現北茨城市)で廻船業を営む家に長子として生まれた。父親は村長を務めたこともあり、伯父には衆議院議員野口勝一(北巖)がいた。中学より東京で学び、東京専門学校(現早稲田大学)に入学したが、家業が傾いたために翌年には中退している。父親が没すると帰郷し家業を整理した(1904年)。
 
 
  野口雨情 のぐち・うじょう   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  茨城県北茨城市 北茨城歴史民族資料館(野口雨情記念館)でお会いしました。
 
 
  61.野口雨情の「筑紫小歌」   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情は、大衆に愛され歌い継がれた「 船頭小唄(枯れすすき)」や「波浮の港」など歌謡曲、民謡でも一世を風靡しました。この2曲は中山晋平の作曲です。二人は童謡「証誠寺の狸囃子 」「あの町この町」「雨降りお月」などを世に送った名コンビです。
 
 
  野口雨情童謡碑 北九州市   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  童謡『赤い靴』の作詞などで活躍した「野口雨情」。碑には、昭和7年、八幡市を訪れた野口雨情とその門下生で北九州市出身の童話作家・阿南哲朗が皿倉山に登った時に作った詩である「帆柱山の歌」、「くきの海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についたくまわにが 山で帆柱きりました その時きった帆柱は 帆柱山の杉でした」と書かれています。
 
 
  波浮を訪れた文豪ー野口雨情   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  波浮港には明治から昭和にかけて、さまざまな文人墨客が保養や観光、あるいは作品を執筆製作するために訪れ逗留しました。そして波浮の港を作品にしています。
 
 
  野口雨情記念 童謡館 湯本温泉   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「青い眼の人形」「赤い靴」「十五夜お月さん」「しゃぼん玉」など、多くの童謡を作詞した詩人野口雨情(本名英吉1882-1945)が湯本温泉で生活するようになるのは大正4年(1915)、33歳の時である。
 
 
  福島 いわき湯本温泉 旅館 新つた   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  野口雨情 (のぐち うじょう) : 北原白秋、西条八十と並ぶ三大童謡・民謡詩人。童謡の代表作には、十五夜お月、七つの子、赤い靴、青い目の人形、雨降りお月、兎のダンス、あの町この町、しゃぼん玉、などがあり民謡には、波浮の港、須坂小唄、などがあります
 
 
  野口 雨情 作家別作品リスト:No.286   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  公開中の作品/作業中の作品/関連サイト
 
 
  野口雨情生家・資料館  うぃーくえんど   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  北茨城市磯原出身の野口雨情の生家。雨情は15歳で上京するまで、ここで過ごしました。 木造二階建ての立派な屋敷は磯原海岸に向かって建っていることから「観海亭」とも呼ばれていました。
 
 
  さすらいの詩人 野口雨情 著名人のお墓   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき  どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき 」(船頭小唄) 野口雨情の歌は、身にしみ入るような感じがする。冒頭の『船頭小唄』をはじめ、 『波浮の港』、『十五夜お月さん』などの歌は、雨情の不朽の名作だろう。 いまもわたしたちの胸の中に生きつづけている。
 
 
  野口雨情(のぐちうじょう) - Yahoo!百科事典    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人。本名英吉。茨城県磯原(いそはら)に生まれる。東京専門学校(現早稲田(わせだ)大学)中退。1905年(明治38)刊の『枯草(かれくさ)』は日本で初めての創作民謡集。『船頭小唄(こうた)』『波浮(はぶ)の港』をはじめ地方民謡も数多くつくり、主として作曲の中山晋平(しんぺい)と組み、大正末から昭和初頭にかけて民謡詩人として人気の中心にあった。
 
 
  北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  このページでは、「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「船頭小唄」「波浮の港」等を作詞し、今なお多くの人々の心に愛着を抱かせる当市が生んだ詩人「野口雨情」を紹介します。
 
 
  野口雨情記念館 (北茨城市歴史民俗資料館)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  ここには、詩人野口雨情に関する資料などが展示してあります。 近くには野口雨情生家、二つ島、天妃山など散策するコースも豊富にあります。
 
 
  ~伊香保温泉 創業明治元年~  雨情の湯 森秋旅館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「赤いくつ」「七つの子」など多数の有名な作詞を手がけた童謡作家の野口雨情が定宿としていた和風の落ち着いた旅館です。
 
 
  ・・・・・野口雨情旧居(栃木県宇都宮)を訪ねて・・・・   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情童謡の代表作に十五夜お月さん・七つの子・雨降りお月さん・兎のダンス・証城寺の狸囃子等等沢山あります。童謡、唱歌、歌曲の違いは?昔、歌曲で歌って下さいと言われ、何処に線引きがあるのか訊いた事がありました。 解る気がします。十五夜お月さんを私はオカリナで歌曲として歌いたいと思いました。
 
 
  シャボン玉 ---- 野口雨情/中山晋平 d-score   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情・晋平コンビによる代表作の一つ。『野口雨情民謡童謡選』(1962年)に収められた年譜によれば、雨情がこの歌(詞?)を最初に発表したのは大正9(1920)年だと記されている。一般にはその2年後の『金の塔』。
 
 
  楽譜 - 赤い靴 ---- 野口雨情/本居長世 d-score   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情・長世コンビによる名作の一つ。小さな女の子が外国人に連れられて行ったというこのミステリアスな童謡は、発表以来、さまざまな憶測が飛び交ったが、もともとは雨情の不遇時代、ある北海道開拓民と知り合ったことが作詞の発端とされている。
 
 
  野口雨情生家の旅行・観光:おでかけガイド  じゃらん   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  雨情は明治15年(1882年)磯原町の野口量平の長男として生まれ、本名を英吉といった。磯原尋常小学校(現在の精華小学校)を卒業すると、政治家の叔父野口勝一氏のもとから東京専門学校(現在の早稲田大学)に学んだ。明治37年頃、作詩生活に入り、最初の詩集「枯草」を出版した。
 
 
  有鄰 「青い眼の人形」と「赤い靴」 -野口雨情没後60年-   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「青い眼の人形」は大正10年12月号の児童雑誌『金の船』に発表され、これに本居長世[もとおりながよ]が長調に短調のアンコをはさむおしゃれなメロディをつけた。
 
 
高村光太郎.1883
  高村光太郎 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年3月13日 - 1956年4月2日)は、日本の彫刻家、評論家、詩人。東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。 本職は彫刻家・画家と言えるが、『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため、詩人として認識されることも多い。評論や随筆、短歌の著作もある。
 
 
  高村光太郎 特集   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎 特集
 
 
  道程  高村光太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  僕の前に 道はない 僕の後ろに 道は出来る   ああ 自然よ 父よ …
 
 
  高村光太郎談話会   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎談話会ホームページへようこそ。このサイトでは高村光太郎や智恵子に 関する資料や情報をできる限り掲載
 
 
  智恵子抄 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『智恵子抄』(ちえこしょう)は、詩人の高村光太郎が1941年に龍星閣から出版した詩集。1914年に処女詩集『道程』が出版されて以降、『現代日本詩集』(改造社、1929年)などの詩華集に未刊詩が多数収録されることはあったものの、高村単独による詩集の計画は長らく実現しなかった。1940年に出版された改訂版『道程』を除くと、『智恵子抄』は2冊目の詩集にあたる。
 
 
  智恵子抄 高村光太郎   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  人に  いやなんです  あなたのいつてしまふのが――   花よりさきに実のなるやうな 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな 夏から春のすぐ来るやうな そんな理窟に合はない不自然を どうかしないでゐて下さい …
 
 
  高村光太郎 『道程』 朗読   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎の詩を朗読しています  道程/失われたるモナ・リザ/秋の祈/牛 道程他
 
 
  「高村光太郎」 『道程』前期   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎には、明治四十三年(一九一〇)以前に、詩集『道程』にいれなかった数篇の詩がある。 「秒刻」、「マデル」、「豆腐屋」、「博士」、「あらそひ」、「敗闕録」などである。それ以前にさかのぼると、二百七十首ほどの短歌作品がある。…
 
 
  高村光太郎 国際留学生協会   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎はパリでの留学体験を通して、近代的自我に目覚めていく。それは新しい彫刻と詩の世界を切り拓く契機となるが、同時に古い日本の伝統的彫刻家である父との確執を生み出すことにもなる。父への反発、そしてデカダンへの耽溺。彼の前に救世主のように現れたのが智恵子であった。
 
 
  高村光太郎の牛の詩について   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  光太郎の牛は凄味がある。ブレ−クの虎のような凄味がある。天才にしてしか書けないものかもしれない、性格が露骨にでた作品である。光太郎自身が牛のような人間だったのだ。頑丈な体躯をもった人間である。この牛は水牛を想像して書いたのか、今の肉牛や乳牛は本当の牛ではない、水牛が本当の牛である。太古の原生の牛である。これは沖縄で身近に歩くのを見て感じたのだ。
 
 
  花巻市 高村山荘・高村記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  花巻市太田3−91  昭和20年(1945)62歳 5月・花巻市の宮沢清六(賢治の弟)方へ疎開 10月稗貫郡太田村山口の小屋で農耕しながら一人で暮らす。
 
 
  智恵子抄  図書カード:No.46669   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  底本: 智恵子抄 / 出版社: 新潮文庫、新潮社 / 初版発行日: 1956(昭和31)年7月15日、1967(昭和42)年12月15日43刷改版
 
 
  高村光太郎の東北 - 東北物語り 伝承館    前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「三陸廻り」 (昭和6年)/「みちのく便り」 (昭和25年)/「花巻温泉」/「開墾」/「山の雪」/「「山の人々」/「山の春」/「山の秋」  「典型」 (昭和25年)/「造形詩編」/「生命の創造」/「人と作品・高村光太郎」/「作家と作品・高村光太郎」  「二本松と裏磐梯」/「高村光太郎の愛と詩」/「高村光太郎・智恵子『紙絵と詩 智恵子抄』/「わが国の彫刻の歴史」/「美の日本的源泉」  「美と真実の生活」/「十和田湖の裸像」/「造形詩編」/「荻原守衛」/「オオギュスト ロダン」
 
 
  【 あの人の人生を知ろう〜高村光太郎 】   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  “智恵子抄”から。智恵子の発病前、発病後、死後に分けて、光太郎の詩を紹介  1.結婚から10年後。最も幸福に満たされている時代の詩。光太郎が東北福島にある智恵子の実家に帰省していた時のもの。ここに出てくる阿多多羅山とは、現在の安達太良山(あだたらざん)で、福島北部にある火山だ。智恵子の実家は酒蔵だった。
 
 
  高村光太郎 たかむらこうたろう(1883-1956)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  【ぼろぼろな駝鳥】/【人に】/【人類の泉】/【冬が来た】/【道程】/【愛の嘆美】/【あなたはだんだんきれいになる】/【レモン哀歌】/【元素 智恵子】
 
 
  レモン哀歌 高村光太郎 - ポエトリージャパン   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  レモン哀歌   そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ …
 
 
  高村光太郎(1883-1956・明治16年-昭和31年)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  昭和31年4月2日歿 74歳(光珠殿顕誉智照居士)巣鴨・染井霊園  初夏の新葉の世界を遮るような赤芽垣で囲まれ、がっしりと組んだ高村家墓石の右手前には、小さな自然石にはめ込まれた銅板。「花をさすと人はいへどもわがつくる壷はもろ手にかき抱くべき  豊」の銘あり。静かな墓みちから見上げるその墓碑は、厳格な父光雲の建てたもので、高村家一族13人の法名が刻まれている。智恵子の法名も光太郎の法名の前に記してある。
 
 
  高村光太郎と智恵子の世界 富山県水墨美術館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  高村光太郎(1883−1956)は、日本近代木彫界の重鎮、高村光雲の長男として東京に生まれ、東京美術学校を卒業後、欧米に留学しロダンに傾倒します。帰国後は、彫刻を制作するとともに文学界とも関わり、「緑色の太陽」に代表される美術評論や、詩集『道程』『智恵子抄』を発表し、近代日本の芸術思潮に大きな影響を与えました。
 
 
  高村光太郎(たかむらこうたろう) - Yahoo!百科事典   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  詩人、彫刻家。明治16年3月13日東京・下谷(したや)に生まれる。父は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科教授高村光雲(こううん)。本名は光太郎(みつたろう)。のち自ら光太郎(こうたろう)と称した。
 
 
  たかむらこうたろう【高村光太郎】 学習百科事典 キッズネット   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  (1883&#12316;1956)大正・昭和時代の詩人・彫刻(ちょうこく)家。東京(とうきょう)に生まれる。彫刻(ちょうこく)家高村光雲(たかむらこううん)の子。東京美術(とうきょうびじゅつ)学校(今の東京芸術(とうきょうげいじゅつ)大学)卒業(そつぎょう)後,ヨーロッパ・アメリカに遊学,ロダンなどの影響(えいきょう)を受けた。帰国後,『スバル』に詩や美術評論(びじゅつひょうろん)をのせ,西欧(せいおう)の近代芸術思潮(げいじゅつしちょう)を紹介(しょうかい)したが,やがて,白樺派(しらかばは)の影響(えいきょう)をうけ,理想主義的(しゅぎてき)な方向をはっきり示(しめ)した。
 
 
  智恵子抄 <書籍> 高村光太郎/著   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  情熱のほとばしる恋愛時代から、短い結婚生活、夫人の発病、そして永遠の別れ……智恵子夫人との間にかわされた深い愛を謳う詩集。
 
 
竹久夢二.1884
  竹久夢二 (Wikipedia)   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。
 
 
  竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二は画家としての方が有名ですが、多くの詩も残しています。そうは言っても、わたしも長い間「宵待草」の作詞者としての夢二を、かろうじて認識しているだけでしたが。 ところで、夢二の詩を一つ一つ読んでいると、あちらこちらに北原白秋が顔を出しているような気がします。…
 
 
  みんゆうNet   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  明治17(1884)年岡山県邑久郡本庄村生まれ、昭和9(1934)年没。画家、詩人、歌人。挿絵画家から出発し、主に「女絵」を描き、”大正の歌麿”と評された。広く愛唱されている抒情(じょじょう)詩に「宵待草」がある。
 
 
  竹久夢二 本   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  『 竹久夢二 恋の言葉 』画家としてだけでなく、詩や童謡の創作でも才能を発揮した夢二の言葉を、日記や手紙などから抜粋。
 
 
  竹久夢二とお葉   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  お葉(本名永井兼代またはカ子ヨ、あるいは佐々木カ子ヨ)は1904年、秋田市土崎の出身。 上京後12歳の時、東京美術学校でモデルを始めた。(「お兼 初めてのモデル」「大正期の美術モデル事情」の項参照)
 
 
  竹久夢二の紹介   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二は、明治末から昭和初期にかけて活躍、一世を風靡した詩画人です。大正の歌麿とも言われているように、その作品には市井のくらしに根付いた喜びや悲しみが表わされ、一世紀に近い時を経た今も人々の心を魅了します。美人画はもちろん、子供画や晩年は日本の山河を多く主題としました。
 
 
  金沢湯湧夢ニ館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二が亡くなって長い歳月を経た今も、その豊かな芸術性は、多くの人から愛されています。夢二とその芸術性を「旅」 「女性」 「聖書」、これらの視点から改めて問い直すこと、また夢二がその最愛の女性・笠井彦乃と幸せな時を過ごした土地が、この「湯涌」であったという事実−。ここに、当館設立の大きな意味があります。
 
 
  ある眼 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  「あんな娘をどこが好いんだ、と訊かれると、さあ、ちよつと一口に言へないが」さう云つて、画家のAは話し出した。…
 
 
  宵待草 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  夢二の代表作ともいえるこの歌。大正七年に楽譜が発売されるや、たちまち大ブームとなりました。男を待つ女の歌か、女を待つ男の歌か、いずれにせよ、やるせない恋の歌です。
 
 
  竹久夢二 コドモノクニ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久は初め、詩人になりたいと願っただけに、詩や小説を書き、俳句や短歌を詠み、小唄を収集するなど、終生、文芸に関心を寄せた。
 
 
  竹久夢二 - 事典 略歴   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  竹久夢二専門 竹久夢二の情報のみお届けします。  明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日) 日本の画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)。 数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。
 
 
  竹久夢路伊香保記念館   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  群馬県の中部、榛名山の中腹に位置する町、伊香保。万葉の時代、現在の榛名山一帯は伊香保嶺とよばれ、万葉集の東歌のうち上野国(群馬県)の部でもっとも多く歌に詠まれたのが伊香保でした。夢二と伊香保との出会いは、少女からの一通の手紙で始まります・・・。
 
 
  竹久夢二 たけひさゆめじ   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  <竹久夢二と笠井彦乃>竹久夢二は1884年、岡山県瀬戸内市の造り酒屋に生まれた。笠井彦乃は1896年、
 
 
  竹久夢二の生家と少年山荘   前画面に戻る次画面に進むTOPページ一覧表ジャンルページ画面上段画面下段
  生家は夢二が16歳まで過ごしたところ。茅葺きの家は生前そのままに保存されている。
 
 
  昭和四年五月六日 竹久夢二   前画面に戻る次画面に進むTOPページ